柳瀬一雄氏は不奉請説を支持しつつ、「仏名を唱える前には、仏を招請し奉る儀礼をととのえるべきであるが、心せいていて、その暇がない。」としている。
しかし、方丈の庵に一人いて、誰からも「何々しろ」とは言われず、「静かなる暁」ボーと閑居の修業生活を「みづから心に問ひて」いるだけの長明が、何に忙しくて奉請の儀礼を行う「暇がない」と言えるのだろうか。根本的な無理が有るように思える。
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勿論この説の前提となるのは、
① 大福光寺本は、書写されたものである。
② 元方丈記は、仮名で記載されていた
と言うものであり、共に決着を見る事は無い論点であるが、一つの説として唱えたい。
参考
『方丈記』終章の方法 木下華子 文学2016年3・4月号
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