新古今和歌集の部屋

新古今和歌集聞書 上、下巻 蔵書

 
 
 
 
 
 
 
 
 
新古今和歌集聞書
 
 
 
 
 
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右々書は西三條前内府三光院殿四講釋を

丹山の隠士玄旨法印聞書し給ふ写也。

天明五乙巳年二月記之畢   横田義路

 

国文学研究資料館 懐風弄月文庫

国書データベース

 

※新古今和歌集聞書 東常縁が、新古今和歌集の和歌200首の解釈について先人の説と自見を書き留めた書。慶長二年(1597)年の細川幽斎により増補された。

※西三条前内府三光院殿 三条西実枝 戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿・歌人・古典学者。右大臣・三条西公条の子。官位は正二位・内大臣。三光院を号す。三条西家に代々伝わる古今伝授は一子相伝の秘事であったが、息子・公国は幼かったため、やむなく弟子の細川藤孝に初学一葉を与え、「たとえ細川家の嫡男の一人といえども、絶対に他人には伝授しないこと、三条西家に相伝が断絶するようなことがあれば、責任をもって伝え返すこと」等を誓わせ、古今伝授を行った。後にこれは現実のものとなり、公国が早世すると、幽斎は実枝の孫の実条に古今伝授を伝えた。

※丹山の隠士玄旨法印 細川藤孝 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、歌人。幼名は熊千代(くまちよ)。元服して藤孝を名乗りその後長岡に改姓。雅号は幽斎。法名を玄旨という。なお幽斎は1573年に長岡に改姓し、1582年に幽斎を名乗り、細川姓に復したのは幽斎死後の忠興の代である。
慶長5年(1600年)6月、忠興が家康の会津征伐に丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加したため、幽斎は三男の細川幸隆と共に500に満たない手勢で丹後田辺城を守る。七月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興の夫人ガラシャは包囲された屋敷に火を放って自害した。田辺城は小野木重勝、前田茂勝らが率いる1万5000人の大軍に包囲されたが、幽斎が指揮する籠城勢の抵抗は激しく、攻囲軍の中には幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲に乏しかったこともあり、長期戦となった(田辺城の戦い)。
幽斎の弟子の一人だった八条宮智仁親王は七月と八月の2度にわたって講和を働きかけたが、幽斎はこれを謝絶して籠城戦を継続。使者を通じて『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上した。ついに八条宮が兄後陽成天皇に奏請したことにより三条西実条、中院通勝、烏丸光広が勅使として田辺城に下され、関ヶ原の戦いの2日前の九月十二日、勅命による講和が結ばれた。幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて九月十八日に城を明け渡し、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入った。幽斎の抵抗を通して家康の統治権代行の正当性が、朝廷をはじめとして各方面に周知されることとなった点は石田三成にとって大きな痛手となった。

※天明五乙巳年 1785年

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