ちをんけうゐん
知恩教院
華頂山大谷寺知恩教院は浄土宗の摠本寺にして鎮西流義なり。元祖
圓光大師宗風開發の霊地にして吉水の禅房とは是なり。初メは東の山腹
今の勢至堂の地にして大師入寂し給ふとぞ (古は叡嶽の別院南禅院にして
慈慧大師草創の地なり。夫より
星霜かさなりて山門十二代の座主青蓮院慈鎮和尚法然上人の弘法を
随信し給ひ此地を寄附し給ふ。昔は今の圓山と封境一面にして吉水といふ).満誉和尚の代に
至ツて 台命を蒙り瞼岨を穿て平坦とし今の如く伽藍御建営有。
(洛東第一の
大厦なり )。山門に掲くる華頂山の額は霊元法皇の宸筆なり。本堂大谷寺
の額は後奈良院の宸筆とぞ。須弥の壇上には圓光大師の像を安置す。
西の間には翠簾を巻上ケて壇上に 神牌を崇奉る。大師の廟塔は東の
山上にあり。勢至堂に掲る知恩教院の額は後柏原院の宸筆也。本尊
勢至菩薩は安阿弥の作也。(満誉上人化人より
授与し給ふ尊像也)紫雲水は勢至堂の傍にあり。
大師入寂のとき聖衆来迎し紫雲水面に顕れ異香水気に遺れりといふ。
一心院はその南にありて本尊阿弥陀佛は安阿弥の作也。
抑元祖大師の傳気を鑑に美作国南條稲岡の産也。父は久米押領漆
時國母は秦氏也。子なき事を歎て夫婦諸ともに佛神を祈り秦氏夢に
剃刀を飲むと覚て則妊身となり長承二年四月七日午刻男子を誕。此時紫雲
空にたなびき白幡二流降くだりて館の西なる椋の木に止り鈴鐸四方にひゞき
綾彩日にかゞやき七夜を経て天に登る。是より此樹を誕生椋と号。後に佛
閣を建て誕生寺と號して今にあり。赤子の字を勢至と号け竹馬に鞭を打
の齢より叡智にしてやゝもすれば西の壁に向ふの癖あり。九歳にして同國の菩提
寺の室に入て学問す。院主勧学といふ人倩小児の量を勘ふるに是只人にあらず。
徒に邉鄙の塵にまじへん事をおしみて比叡山西搭の北谷持寳坊源光がもとに登
す。勧学が書翰に曰進上大聖文殊一軆とあり。時は久安三年二月十三日入洛して
勧学が書を持寳坊にわたす。源光これを披見して文殊の像を尋るに小児のみ
上洛せるよし使者申ければはやく児の聡明なる事を智とせり。則十五日に登山し
源光試にまづ四教義を授るに籤をさして不審をなす。疑ふ所みな天台の要論
なり。不思議の事に思ひければ我浅才にしていかでか此人を弟子とせんやと同年四
月八日に児を相具して功徳院の阿闍梨皇圓がもとに入室せしむ.皇圓其ちのすぐれ
たるを聞て驚て曰去ル夜の夢に滿月室に入と覚しがさては此人に逢ふべき前兆なり.
とぞ悦㐂しける。同年十一月美髪を剃戒壇院にして大乗戒をうけたり。斯て惠
解天然にして四教五時の廃立かゞみをかけ一心三観の妙理玉をみがく。所立の義師
の教にこえたり。阿闍梨感じて曰学道をつとめ大業をとげ天台の棟梁となるべしと
より/\すゝめけれ共是も又名利の学業なりとて忽師席を辞して久安六年九月
十二日十八歳にして西搭黒谷の慈眼房叡空のもとに行て我幼稚より隠遁の
志願ふかきよし演ければ少年にして出離の心をおこす事是法然道理の聖なりと
感じて法然房となし実名を源光の源と叡空の空を摘んで源空と號たり。黒谷に
蟄居をなし出要を求るの心節なれば何れの道よりか生死を離るべきと一切經を
披見せる事五遍なり。されば諸の經論についてつら/\思惟せるにかれもかたく
これも髙し。遂に惠心の往生要集并善導和尚の釋義を以て指南とせり。
かの釋には乱相の凡夫称名の行により順次に浄土に生るべき旨を判ぜり。藏經
披見の度に是を窺る事三遍也。遂に其釋義に一心専念弥陀名號行往坐臥不問
時節久近念々不捨者名正定之業順彼佛願故。此文に至りて末世の凡夫弥陀
の名号を念ぜば彼佛の願に乗じて慥に浄土往生を得ることはりに伏し承安
五年の春四十三歳にして餘行を捨専修念佛に帰入せり。されば法然上人の宗
風日本に弘まりしかば山門の悪徒これを破せんとし或は大原にして問答ありしかども
皆念佛の理に臥せり。建久二年の春は後鳥羽院の逆鱗によつて四国に左遷
せられしかども承元元年十二月に勅許を蒙リ帰京して東山大谷に閑栖し給ふ。是當山
の地なり。遂に建暦二年正月廿五日午の刻法壽八十歳で遷化し給ふ。是より毎歳正月十
九日より一ヶ七日の間大法會あり。勅命に依て御忌と称し音楽の妙なる聲は聖衆来迎の思
をなし蘭麝のかほりは布金に滿り。法筵の中日には知恩院宮法親王御焼香あり。寺
務の大僧正を初末派の衆僧大會の坐烈を正し敬礼渇仰の分野去此不遠の極楽
浄土是皆大師厚德顕然たりし謂なりけり。(洛陽の貴賤袖をつらねて雲の如く群衆するを
俗に御忌の衣裳くらべと名づくるなり)
瓜生石は黒門の前にあり.(むかし此石のもとより胡瓜の蔓生じて瓜を結ぶ。
其瓜に牛頭天王の文字有.是に依て粟田天王の社内に納む)搭中崇泰院には
親鸞聖人廟搭の遺跡あり.(大谷本願寺と號して第八代蓮如上人の代文明年中まで此地に
あり.山門の悪徒宗義の繁栄をねたんで不意に押寄て破却す)
小鍛冶が井は山門の傍にあり(三条宗近名剱を打し時 當山ニは桜数株あり(糸桜浅黄桜
こゝに來て此水を用ひしと也) 世に名高し)
こゝに來て此水を用ひしと也) 世に名高し)