テレビ朝日→goo
知らないと言うのは怖いものですね。
テレビで騒いでいると現地イギリスでも多くの人が興味を持って見ているのかと勘違いしていました。
昭和の頃の日本人なら、皇室関係の行事でテレビが放送すればそれを見てそれが正しいと思って参加しないでもテレビの中継を見たりはするのかと思います。
イギリスの王室の戴冠式を見ないと言うのならおそらく忠誠は誓わないのでしょう。
そしてゴシップがあるとこれ見よがしに騒ぐのでしょう。
王室との関係なんて昔のようにその力がそれ程で無ければ軽視されるのは仕方ないのです。
むしろ、日本の皇室が敗戦後に民を思って行幸していたのが優しさと言うか貴賓なのかと思われます。
それに恩賜公園や天皇杯など行事に関してもそうですが、その財源を良い形にして示すような空気でした。
バブル崩壊後に何故か贅沢や金銭に関する感性が変わって皇室予算まで節約されるようになってしまいました。
その意味では難しい時代です。
それに最近の皇室に関するゴシップはあまり宜しくないものまで報じられています。
なのでやはり距離と言うか、昔のように尊敬の念で見て政治家以上にその警護が厳しくその準備に余念が無い時代とは異なるのかと思われます。
学校教育の曖昧さで公平とかを抽象的に教えて、中身を考えさせないから自分に都合の良いような話しか出来ない人間を乱造した結果では無いかと残念です。
公平の中身とは元々不公平な状況になっているのをハンデ等で埋め合わせるような福祉の考えも含めての話です。
だから、与えられるのが公平とかではありません。
そこまで教え切るだけの人間性が育まれないのでしょう。
親にしても自分の子供可愛さに公平に与えよの方を言うのでしょうから。
まして歴史的な制度の中で苦悩するような点まで考えたら、それなりの対応をするのがエチケットなのにそれすらわからないくらい色んな意味でギリギリの生活なのかもしれません。
少なくともネット時代になってからはその情報量や質において人間の価値を軽んじてしまう傾向があって匿名性などで勘違いしてしまうのでしょう。
それが高貴な人達には僻みからかどうしても良いようには書かれないようです。
弁えると言うような概念がなくなり出しているようです。
自分の身分とかでなく、自分が持てる責任の範囲を狭めてでもその範囲で自分のプライドを保てるような行動をきちんと出来る方が社会的に尊敬されます。
自分の力ではどうにもならないのに責任の範囲だけ拡大して影響力は大きくても問題だらけなら軽蔑されても仕方ないですよね。
そう言う点まで見通せない人が増えているのもあるべきリーダー像が暈ける原因なのです。
勝てば官軍なのではなく、きちんとして守るとか問題を起こさないようでないと官軍として尊敬されないですよね。
王室の在り方が問われるような状況で戴冠してこの先マスコミ等の取材や暴露に耐えていかないといけないのが皮肉な感じがします。