先日、仕事で韓国に行っていたが、元大統領の金大中さんが亡くなったという。
民主化の闘志であり、朴大統領が指揮するKCIA(韓国中央情報局;韓国版CIA)に殺されかけた「金大中事件」は、日本のホテルで拉致された国際法を犯す大事件であった。
NHKニュースによると、韓国政府は2年前、ノムヒョン政権の時に「金大中事件」についての韓国政府の関与を公式に認めたそうだ。
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韓国の金大中元大統領が死去
民主化けん引、ノーベル賞受賞
共同通信 2009年8月18日(火)20:45
【ソウル共同】日本からの拉致事件や死刑判決などの苦難に遭いながら韓国の民主化運動をけん引し、2000年に北朝鮮の金正日総書記との南北首脳会談を実現させてノーベル平和賞を受賞した金大中元韓国大統領が18日午後1時43分、ソウルの病院で死去した。85歳。1998年2月から5年間の任期中、通貨危機を克服する一方、対北朝鮮「太陽政策」を推進。対日関係改善にも尽力した。
<金大中元大統領逝去>波乱万丈の生涯終える(聯合ニュース) - goo ニュース
<金大中元大統領逝去>果たせなかった統一の夢(聯合ニュース) - goo ニュース
聯合ニュース 2009年8月18日(火)17:00
【ソウル18日聯合ニュース】
故金大中(キム・デジュン)元大統領は生涯にわたり、南北統一を目指し果てしない道のりを歩んだ。1972年に当時の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領が「十月維新」を発表したときから、共産主義者の立場に追い込まれ数度にわたり苦難を経験したが、3段階統一論と対北朝鮮太陽政策の確固たる信念を貫き、南北和解協力時代を開くなど統一運動に人生を投じた。
南北問題に取り組むようになったのは、解放政局で独立運動家の呂運亨(ヨ・ウンヒョン)が左翼・右翼を網羅し構成した、朝鮮建国準備委員会に加わったことがきっかけだった。その後、共産主義政党・南朝鮮労働党の幹部との秘密資金取引に関連し投獄されたが、後に単なる貸与であることが分かり容共(共産党容認)の嫌疑を免れた。逆に朝鮮戦争直後に北朝鮮軍につかまり、「右翼反動」だとして投獄されたが、銃殺直前に脱獄した。
1954年に政界入りした金元大統領は、1971年に新民党の大統領候補として出馬したが朴正熙大統領に惜敗。このときから政治家としていばらの道を歩み、決定的な瞬間のたびに「カラー論」や思想論争に巻き込まれた。大統領選挙で散々な目に遭った朴正熙政権は金元大統領を最大の政敵に挙げ、政治的弾圧を本格化したが、その中心には常に「容共」の是非が付いて回った。
1972年、治療のため日本に滞在していた金元大統領は、翌年に朴正熙政権が長期政権を目的に「十月維新」を宣布すると、帰国を放棄。反体制団体の韓国民主回復統一促進国民会(韓民党)を結成するなど反維新活動を行ったが、当時の政権に拉致されるという苦難も経験した。韓民党の活動こそが社会主義への共助では、との批判も、金元大統領を左翼に追い込もうとする勢力には好材料となった。
金元大統領の統一政策は、野党のリーダーだった1970年代から主張してきた「南北連合~連邦制~統一国家」の流れを骨子とする3段階統一論に集約される。南北首脳会議を最高議事決定機関とする南北連合を第1段階に、朝鮮半島での平和ムードが高まれば連邦制を構築し、その後に統一国家を達成するというものだ。
その統一論が光を放ったのは、大統領に就任した1998年以降だった。当選直後、北朝鮮の挑発を受け入れないなど対北朝鮮3原則を表明し、太陽政策を果敢に実践に移した。
その統一政策は、在任中にも北朝鮮潜水艇の侵入や金剛山観光客の抑留、第1延坪海戦などで難関にぶち当たったものの、金元大統領は太陽政策の基調を続けた。2000年3月に南北協力レベルを民間から政府に進展させるという「ベルリン宣言」を発表、同年6月には分断から半世紀ぶりに南北首脳会談を実現させ、南北離散家族の再会と金剛山観光も現実のものとした。その功労を認められ、韓国人としては初めてノーベル平和賞を受賞している。太陽政策は2003年の盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権発足後も受け継がれ、2007年には第2回南北首脳会談が行われた。
しかし退任後、第1回南北首脳会談の直前に現代グループが4億ドル、政府が1億ドルを北朝鮮側にひそかに渡していた事実が明らかになり、さらに2006年には北朝鮮核実験が起こったことから、その太陽政策と統一論は色あせたまま、未完の宿題として残ることになった。