徒然草 第144段 栂尾の上人、
原文
栂尾(とがのを)の上人(しやうにん)、道を過ぎ給ひけるに、河にて馬洗ふ男、「あしあし」と言ひければ、上人立ち止りて、「あな尊や。宿執(しゆくしふ)開発の人かな。阿字阿字(あじあじ)と唱ふるぞや。如何なる人の御馬ぞ。余りに尊く覚ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿(ふしやうどの)の御馬に候ふ」と答へけり。「こはめでたき事かな。阿字本不生(あじほんふしやう)にこそあンなれ。うれしき結縁をもしつるかな」とて、感涙を拭はれけるとぞ。
現代語訳
栂尾(とがのを)の明恵上人が道をお歩きになっていると河で馬を洗っている男が「あしあし」と言うのを聞いて立ち止まり、「なんと尊いことだ。善根功徳をお開きになった人かな。阿字阿字と唱えているではないか。いかなる人の馬なのか。あまりにも尊く思われるので」と尋ねたところ、検非違使庁の役人の馬でございます」と答えた。「これはめでたいことだ。阿字本不生(あじほんふしやう)が現れたということだ。嬉しい仏縁を得た」と、感涙にむせた。
「阿字本不生(あじほんふしやう)」ということ
白井一道
「密教の根本の教えで、阿の字はすべての文字の始めであるとみて、これに「本」の義「不生(ふしょう)」の義があるとし、ここから阿字は、一切が不生不滅すなわち空(くう)であるという真理を表わすとして、これを阿字本不生といったもの」。
ブリタニカ百科事典より
「2500年ほど前、古代ギリシャでのソクラテスの裁判のとき、当時28歳の青年だったプラトンが、その弁明を聞いていました。
「死を恐れるのは、賢ならずして賢人をきどることになる。死とは何か誰も知らないのに、人はそれが最悪であると確知しているかのようにこれを怖れている。私も知らないが、知らないということを知っている」
ほぼ同じころインドにおいて、お釈迦様がヴィパッサナー・ヨーガ(精神を集中して考えること、最近ではマインドフルネスといわれる)を開拓して徹底的な自己観察を行ないました。そして仏陀(目覚めた人)となって「死ぬ」という苦を解決し「不死」を説きました。それは「自己執着を捨てる」という生き方です」。
「筏(仏教)に乗って、苦しみの此岸から楽の彼岸に渡ったら筏を捨てる」という仏教は仏教自身に執着せず、あらゆる生き方(宗教)を尊重します。「自己執着を捨てる」と聞いただけで、直ぐにそのようには成れません。ヨーガによる追体験(解釈)が必要です。
「追体験が難しい」ことを「秘密」といいます。明治時代に「シークレット」の翻訳語として使われて「隠すこと」を意味するようになりましたが、元来は「ミステリー」に近い言葉でした。
空海の著作『吽字義』は、「吽」という秘密の一字を解釈した論説です。梵字の「吽」という文字は「ア・ハ・ウ・マ」という4つの部分に分解可能です。今回紹介するのは、「ア」の解釈にある「阿字本不生」です。
ここで空海は、先に挙げたソクラテスの言葉と似た話を書いています。生死の苦とは「無知な絵師が恐ろしい夜叉を描き、自分でその絵を見て恐怖のあまり卒倒する」ようなものだというのです。
ヨーガで自己観察を行ない、その知恵の完成を「実の如く自心を知る」といいます。それは、あたかも「ア」という音があらゆる文字の始まりであるように、あらゆる物事の源を観ることなのです。それは「これではない」という「否定」でしか表現できません。
梵語の「ア」は否定の接頭語で「無・不・非」などの意味です。ギリシャ語でも「ア」は否定を意味し、例えば「アトム(切れない)」(日本語では原子と訳された)です。プラトンも自己は「他」であると言い、「他」は「他」自身に対しても他であると表現しています。
自己執着を捨てた理想の存在、それこそが本来の自己であり「阿字本不生」と表現されます。 たなか・まさひろ