徒然草第160段 門に額懸くるを
原文
門に額懸くるを「打つ」と言ふは、よからぬにや。勘解由小路二品禅門(かでのこうじのにほんぜんもん)は、「額懸(がくか)くる」とのたまひき。「見物の桟敷打つ」も、よからぬにや。「平張(ひらばり)打つ」などは、常の事なり。「桟敷構ふる」など言ふべし。「護摩焚く」と言ふも、わろし。「修する」「護摩する」など言ふなり。「行法(ぎやうぼふ)も、法の字を清みて言ふ、わろし。濁りて言ふ」と、清閑寺僧正仰せられき。常に言ふ事に、かゝる事のみ多し。
現代語訳
門に額を懸けることを「打つ」と言うのは、良いことではないのだろうか。勘解由小路二品禅門(かでのこうじのにほんぜんもん)は、「額懸くる」とおっしゃった。「見物の桟敷打つ」も良くないのだろうか。「平張(ひらばり)打つ」などは、常に言われていることだ。「桟敷を構える」などと言うべきだ。「護摩焚く」と言うのも悪いことだ。「修する」「護摩をする」などと言うものだ。「行法(ぎやうぼふ)も、法の字を法の字を「ほう」と清音で言うのは悪い。濁りて言う」と、清閑寺の僧正はおっしゃられている。常日頃使われている言葉にこのような事が多い。
ピジン語について 白井一道
日本は独立した立派な主権国家だと私は考えている。しかし日本の首都東京の空は日本の空ではないと言う事を知っている。
智恵子は東京に空が無いという
「あどけない話」
智恵子は東京に空が無いという
ほんとの空が見たいという
私は驚いて空を見る
桜若葉の間に在るのは
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ
智恵子は遠くを見ながら言う
阿多多羅山の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だという
あどけない空の話である。
【高村光太郎】
東京の空は日本人にとって私が子供だった頃仰ぎ見た空ではなくなっているということなのかもしれない。透明感の薄れた空、ビルに閉ざされた空、山の稜線のない空になっている。
米軍横田基地に離発着陸する空軍戦闘機優先の東京の空なっている。羽田空港に離発着陸いる旅客機は遠慮するかのように木更津沖からのコースしか利用できないようだ。日本は未だに第二次世界大戦が終わって70年以上になるにもかかわらず、日本の空は米軍に占領されたままになっている。東京には日本の空がない。
日本は未だにアメリカに半ば従属した属国なのかもしれない。『属国—米国の抱擁とアジアでの孤立』
ガバン・マコーマック著。このような本をオーストラリアの歴史学者が書いている。アジア近隣諸国は日本をアメリカの属国として見なしていると言う事のようだ。日本に住む日本人は自分たちを独立した国の主権者だと自負してみたところで隣近所にする外国人たちは日本人をアメリカに従属した属国人だと見なしているのかもしれない。
終戦直後から現在に至るまで若者はいつの時代にあってもカタカナ語が大好きだ。私が若かった頃もカタカナ語が多かった。今の若者もまたカタカナ語を多用する。最近の傾向は横文字をそのままカタカナ語として使用している。特にパソコン関係の言葉はすべてカタカナ語で表現されている。英単語そのものをカタカナ語で表現して大和言葉の中の一部にしていることは一種のピジン語になってきている。ピジン語とは植民地語である。Businessを中国人がpidginと理解したのがピジン語の始まりだという話を聞いたことがある。中国がイギリスの反植民地にされ、上海や香港で使用された英語と中国語のまじりあった言語がピジン語だ。
日本が終戦直後から現在に至るまでアメリカの反植民地であったが故に現在の日本語にカタカナ語の氾濫が後を絶たない。日本語は変わってきているのかもしれない。その変わりようは一種のピジン語化だ。日本語の英語化であっても文法構造は変わりようがない。豊かな美しい日本語を紡ぎ出す営みもまた一方において行われているようにも思われる。