徒然草第163号 太衝(たいしよう)の「太」の字
原文
太衝(たいしよう)の「太」の字、点打つ・打たずといふ事、陰陽(おんやう)の輩(ともがら)、相論(さうろん)の事ありけり。盛親入道(もりちかにふだう)申し侍りしは、「吉平(よしひら)が自筆の占文(せんもん)の裏に書かれたる御記(ぎょき)、近衛関白殿にあり。点打ちたるを書きたり」と申しき。
現代語訳
太衝(たいしよう)の「太」の字は、点を打つべきか、それとも打たなくともいいのか、陰陽(おんやう)道をしている人々が論じ合ったことがある。盛親入道(もりちかにふだう)がおっしゃったことによると「陰陽(おんやう)博士の吉平(よしひら)が自筆の占いの結果を書いた紙の裏に天皇が書いたものが近衛関白殿にある。そこには点を打っているのが書かれていた」という。
文字(漢字)の統一ということ 白井一道
秦の始皇帝が、宰相李斯に命じて漢字の書体を定めたという。その簡略体が隷書である。
戦国時代の漢字の変化
殷の甲骨文字や西周の金文の漢字は、祭りとしての占いを記した文字である。戦国時代は雄割拠の時代であり、漢字は地域ごとに独自の発達をした。さらに孔子、墨子を初めとする諸子百家が春秋時代から戦国時代にかけて活動し、盛んに書物を著述するようになると、漢字は象形のレベルを超えて人間の精神世界を表現する文字となった。
秦の漢字統一の本質
戦国各地で文字が字体だけでなく、使われ方が異なっていった。字形は言うに及ばず、言葉と漢字との配当関係を秦に合わせ、さらに語彙そのものや文章の書き方をも秦風にしたのが文字統一の本質であった。戦国時代には、各国で法令と行政文書による統治のシステムが整えられつつあった。文字が不統一であると行政に差し障りが生じる。秦は新たな領土を加える度に、秦の文字の使用を強制した。中国統一後に全国規模で行われた文字統一は、いわばその総仕上げであった。
秦の書体を継承した漢字
秦は短命に終わったが、「漢承秦制」と言われるように、漢は制度としての秦の文字表記体系を引き継いだ。このことが漢字の運命を決定づけた。後世「漢字」と呼ばれるようになったが、秦の文字としての漢字が伝承されたのである。秦の文字体系は厳格だった。 漢が秦の文字を継承した以上、政策としての文字統一を推進する必要があった。書記官には書類をきちんとした文字遣いで書くことが求められ、誤字があれば罰金が科せられた。朝廷に差し出す上奏文に誤字があれば刑罰に問われた。前漢の武帝の時代に九卿(高官)の一つである郎中令を務めた石建という人は、上奏文に書いた「馬」の字の足が三本しかないことに気づき、死刑になるのではないかと恐懼したという話が『史記』に伝わっている。
印鑑に篆書という古風な書体を用いて権威づけを行うのも秦の特徴で、他の国々では日常的な書体が印鑑に使われていた。その風習は、公印・実印に篆書を用いる現代の我々にも受け継がれている。
『康熙字典』(康煕字典、こうきじてん)は、清の康熙帝の勅撰により、漢代の『説文解字』以降の歴代の字書の集大成として編纂された。全42巻、収録文字数は49,030にのぼり、その音義(字音と字義)を解説している。字の配列順は「康熙字典順」という呼称が使われているようにのちの部首別漢字辞典の規範となっている。『康熙字典』は、現代日本では主に字体の基準となる正字を示した書物というとらえ方をされている。
『康熙字典』は近代以前に作られた最大規模の字書であり、字書の集大成ということができる。辞書史上極めて重要な書物である。最大の特徴はその収録文字の多さと解釈の詳細さにある。
『説文解字』以来のそれまでの中国の字典と同様、『康熙字典』は熟語を収録していない。この点は、日本の近代以降に編纂された漢和辞典とは大きく異なっている。したがって、すべての語義は字義に分解する形で解説されている。
為政者の統治に絶対必要なものが文字の統一であった。皇帝の命令を徹底させるためには文字が必要であり、文字は誰にとっても同じ意味を表現するものでなければならなかった。このようなことは明確に出てくるのが古代社会においてである。文字の統一が中国を統一した。秦の始皇帝が中国を統一した初めての王朝であった。ウィキペディア参照