徒然草第162段 遍照寺の承仕法師
原文
遍照寺(へんぜうじ)の承仕法師(じようじほふし)、池の鳥を日来(ひごろ)飼ひつけて、堂の内まで餌を撒きて、戸一つ開けたれば、数も知らず入り籠(こも)りける後、己れも入りて、たて籠めて、捕へつゝ殺しけるよそほひ、おどろおどろしく聞えけるを、草刈る童(わらは)聞きて、人に告げければ、村の男どもおこりて、入りて見るに、大雁(おほかり)どもふためき合へる中に、法師交りて、打ち伏せ、捩ぢ殺しければ、この法師を捕へて、所より使庁へ出したりけり。殺す所の鳥を頸に懸けさせて、禁獄せられにけり。
基俊大納言(もととしのだいなごん)、別当の時になん侍りける。
現代語訳
遍照寺(へんぜうじ)の雑役をしている承仕法師(じようじほふし)は、広沢池に集まる鳥を日頃餌付けをして、お堂の中まで餌をまき、戸を一つ開け、数知れないほど鳥が入った後、自分自身もお堂の中に入り、閉じ込め、捕らえ殺す様子が騒々しく聞こえるのを草刈をしていた童子が聞きとがめ、人に話したところ、村の男どもが怒り、お堂の中に入って見ると大きな雁が羽をバタバタさせている中に承仕法師(じようじほふし)が交じり合い、討ち伏せねじ殺しているので、この法師を捕らえて検非違使庁へ突き出した。殺した鳥を首に掛けさせて、投獄した。
基俊大納言(もととしのだいなごん)が検非違使庁の長官であった時の事である。
寺男の思い出 白井一道
じぃーさんと私は呼んでいた。おばさんもじぃーさんと呼んでいた。夏は毎朝5時になるとじぃーさんは梵鐘を鳴らした。私は本坊から礼堂に向かって走った。冬になるとじぃーさんは毎朝6時になると梵鐘を打った。礼堂でのお勤め、お経を4、50分あげる。礼堂には鎌倉時代に造られた釈迦如来像が祀られていた。夏は本坊に帰り、寺務所の掃除をした。廊下の雑巾がけと部屋を箒で掃き清めることであった。その後を朝食をいただいた。朝食はご飯とみそ汁、沢庵ととろろ昆布であった。一年中朝食のメニューが変わることはなかった。朝食のメンバーは和尚さん、小僧が三人、おばさんとじぃーさんの六人であった。私は小僧の中の三番目の席に座っていた。食事中、おしゃべりする人はいなかった。たまにおばさんが話すことはあったが、小僧は誰も話すことはなかった。ただ黙って黙々と食べるだけである。じぃーさんが食事中に話すことは一度もなかった。和尚さんが手を合わせ、祈りを捧げると朝食の終わりである。小僧たちは各々自分の茶碗と椀、箸を洗い、箸箱にいれ、自室に帰り、学校に行く用意をする。おばさんの作ってくれた弁当を「いただきます」と挨拶をして鞄の中にいれ、自転車に乗って中学校に向かった。高校生の兄弟子は定時制高校に通っていた。もう一人の兄弟子は京都の予備校に通っていた。和尚さんに「学校に行かせていただきます」と挨拶すると「早う帰ってきぃーや」と和尚さんはいつも言った。
じぃーさんは毎朝食事が終わると寺務所に来て、和尚さんに「今日はどこをやりまひょ」と聞く、和尚さんは「今日は東門の辺りを中心に掃除をしてくれ」と言われると一日中、午後五時近くまで掃除をしている。本坊に上がって来ると風呂の準備をして、火を付ける。午後6時、夕食が終わると、和尚さんが一番風呂に入る。その次が小僧の番である。次が塔頭にいる人が入り、おばさんが入り、最後がじぃーさんであった。そのことに子供だった私は当然のことのように受け入れていた。寺男のじぃーさんは大きな台所の隣の六畳間にいた。一年中、日が入ることのない部屋に一人でいた。真冬でも暖房設備は何もなかった。我々小僧にも暖房設備は何もなかった。我々小僧の部屋には日が射す事はあったが、外界を遮断するものは障子一枚のみだった。冷たい隙間風が入って来た。じぃーさんが不平を言うのを聞いたことがない。毎日、黙々と体を動かし、伽藍の掃除をしていた。じぃーさんの部屋にはもちろん電気製品は一つもなかった。なしぼれた衣類と布団があるだけだった。そんなじぃーさんに私は世話になったことがある。学校に来ていくシャツが無くなり、じぃーさんから新品のシャツを貸してもらったことが度々あった。夏場は毎日、洗濯しなければならないが、それをサボると学校に着ていくシャツが無くなり、じぃーさんからシャツを借りたのだ。何一つ言うことなくじぃーさんはシャツを貸してくれた。