醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1333号   白井一道  

2020-02-19 10:32:02 | 随筆・小説



   徒然草第158段 盃の底を捨つる事は、



原文
「盃の底を捨つる事は、いかゞ心得たる」と、或人の尋ねさせ給ひしに、「凝当(ぎやうだう)と申し侍れば、底に凝りたるを捨つるにや候ふらん」と申し侍りしかば、「さにはあらず。魚道(ぎよだう)なり。流れを残して、口の附きたる所を滌(すず)ぐなり」とぞ仰せられし。

現代語訳

 「自分の飲んだ盃を人に差し出す時、盃の底に少し残った酒を捨てることは、どういうことと了解しているのか」と、或る人がお尋ねになられた時に、「凝当(ぎやうだう)と申されることは盃の底に残ったものを捨てることではない」とおっしゃられたので「そうではない。魚道(ぎよだう)だ。少し飲み残し、自分の口の付いたところを洗い清めるためである」とおっしゃられた。

 酒の文化を知る – 酒の歳時記 月桂冠より
 春の宴は花見だけではない。「水口祭」(みなくちまつり)や「田遊び」、神の山への登山なども盛んに行われていたようで、各地の風土記には「遊楽」「宴遊」などの言葉がしばしば出てくる。
平安朝になると、宮廷貴族たちは、ことのほか詩歌管絃の遊びを好んだが、それは大抵酒宴を伴っていた。 11世紀初頭の『紫式部日記』には、藤原道長邸で催された後一条天皇誕生の祝い歌が自らの筆で記されている。
珍らしき 光さしそふ盃は
もちながらこそ 千代をめぐらめ
宮廷の女房たちも、貝合せを始め、絵合せ、物合せ、草花合せなど、優雅な遊びと芸術を生活の中にとけこませていった。詩人・大岡信によると、こうした貴族たちの美意識の根底には、常に「うたげ」があったのだと言う。
3月3日の節会には、庭を縫うように流れる遣水(やりみず)にうかべた酒盃が、汀(みぎわ)のところどころに座を占めた公卿たちの前へ流れてゆく。盃が自分の前を通り過ぎないうちに歌を詠みあげ、盃をとりあげて飲み干すといういとも風流な行事である。 これを人々は「曲水の宴」(ごくすいのえん)と呼んだ。もとはといえば、4世紀、中国の書聖・王羲之が始めた「流觴曲水」(りゅうしょうきょくすい)が起源、それを日本の風土と、日本人の美意識によって見事に再生された。
曲水の宴ばかりではない。春は花、夏は時鳥(ほととぎす)、秋は月、冬は雪という花鳥風月に恵まれた風土の中で、先人達が育て上げてきたすばらしい感性がいまも私たちの中で脈うち、日本の酒文化もきわめて洗練されたものになっている。      
 日本では酒というものは、もともと先祖の霊魂や、八百万(やおよろず)の神々をまつるたびに造られた。その祭りに集まった敬虔な人々にとって、酒は神々に献上し、神々と一緒になって飲むもので、決して一人で飲むものではなかった。また、酒に酩酊することで神がかりになり、神のお告げを人々に伝える人も現れた。 こうして、酒を造ること自体が神事となり、さらに神の嘗(な)めた酒を人々が共に飲み、神々に近づく「相嘗(あいなめ)の神事」が生れ、それが今も神社で行われる「直会」(なおらい)となって伝わっている。これが後世宴(うたげ)へと発展していった。「うたげ」とは、酒宴で手を打つことだったといわれるが、これも大切な神事であった。
3世紀初頭、中国の史書『三国志』「魏志東夷伝」倭人の項に「其ノ会同坐起ニハ、父子男女ノ別無ク、人性酒ヲ嗜ム」と記されており、当時の日本人は、中国人も驚くほどみんなで酒を飲んでいたようだ。何かというと山や海辺に集まり、男女が互いに歌を唄い合って交歓し、求婚も行ったという。この東アジア共通の習俗は、日本では「歌垣」と呼ばれ、奈良時代には「かがい」と呼ぶ宮廷の行事にまでなった。
春の宴は花見だけではない。「水口祭」(みなくちまつり)や「田遊び」、神の山への登山なども盛んに行われていたようで、各地の風土記には「遊楽」「宴遊」などの言葉がしばしば出てくる。
平安朝になると、宮廷貴族たちは、ことのほか詩歌管絃の遊びを好んだが、それは大抵酒宴を伴っていた。 11世紀初頭の『紫式部日記』には、藤原道長邸で催された後一条天皇誕生の祝い歌が自らの筆で記されている。
珍らしき 光さしそふ盃は
もちながらこそ 千代をめぐらめ
宮廷の女房たちも、貝合せを始め、絵合せ、物合せ、草花合せなど、優雅な遊びと芸術を生活の中にとけこませていった。詩人・大岡信によると、こうした貴族たちの美意識の根底には、常に「うたげ」があったのだと言う。
3月3日の節会には、庭を縫うように流れる遣水(やりみず)にうかべた酒盃が、汀(みぎわ)のところどころに座を占めた公卿たちの前へ流れてゆく。盃が自分の前を通り過ぎないうちに歌を詠みあげ、盃をとりあげて飲み干すといういとも風流な行事である。 これを人々は「曲水の宴」(ごくすいのえん)と呼んだ。もとはといえば、4世紀、中国の書聖・王羲之が始めた「流觴曲水」(りゅうしょうきょくすい)が起源、それを日本の風土と、日本人の美意識によって見事に再生された。

曲水の宴ばかりではない。春は花、夏は時鳥(ほととぎす)、秋は月、冬は雪という花鳥風月に恵まれた風土の中で、先人達が育て上げてきたすばらしい感性がいまも私たちの中で脈うち、日本の酒文化もきわめて洗練されたものになっている。