死生観
人それぞれが違う。
自分の死生観を他人に押し付けるつもりはありません。
あの世があるかどうかは分からない。
だから、生きている間にしたいことをする。その時に出来ることをする。
家族として協力する。
義母は60代でボケた。
ストレスが加わると進行が早まるそうです。
生活環境が変わるとストレスとなる。妻は幼い息子を連れ、実家に戻り、そこで実母を2年間介護した。
自分は週末朝に妻の実家に向かい、日曜夜に帰る生活となった。
ある夜のこと、義母はガラス戸に映る自分の姿に腰をかがめて挨拶していた。見慣れない自分を他人と錯覚したようです。
ボケの進行が相当に進んだことを裏付ける決定的な瞬間でした。
そこまでボケが進めば、どこで介護しても同じだろうと言う結論に達しました。
いつまでも家族が別に暮らすと言うのも不自然。こちらで引き取って介護することになった。
生まれた時から祖母と一緒だった息子は風呂にも一緒に入った。車椅子も押した。極自然な流れでした。
週に一度の医師の往診。看護師派遣も頼んだ。
25年前の当時、まだ介護保険制度もなく、金銭的な負担は大きかった。妻の実家からの全面的な介護費用負担があったから可能だった。
義母の介護があると言う理由で、家族は何も出来ないと言う言い訳はしなかった。
週末毎に車椅子の義母と小旅行。宿泊旅行もした。
結局、5年余りの介護だった。最後の3日間、妻は不眠不休の介護をした。
人によって置かれている状況は大きく異なる。
したいと思ってもできないこともある。
葬儀代、墓石代の費用に回すのなら、生きている内に使った方が、当人・家族のためではないか。
妻の乳ガンとの共棲生活は15年と長かった。最後の3年間は杖が手放せず、酸素ボンベも必要になった。
不自由な体になっても、恒例の京都・奈良・金沢・松本旅行は続けていた。息子は良く協力してくれた。
母の祖母への献身的な介護を見てきたので、極自然の流れだったのでしょう。
自治医大が出来た頃、義父・義母は献体を申し込んだ。
当時、献体は遺体を傷つける行為と世間では嫌がられていた。夫婦揃っての献体申し込みは珍しい例だったようです。
義母の遺体は教授が直々受け取りに来た。
義父は戦中の後遺症が退職後に出て、不自由な生活を過ごすことになった。療養のため、病院施設を転々とした。
加齢も加わり、体力が徐々に落ち、最終的には義弟長男夫婦が自宅介護で看取り、義父の希望通り献体した。
この陰では、義弟長男は転職する等、介護する家族の犠牲は少なくなかった。
義弟次男は独身だった。島に住み着き、漁船の修理をしていた。
胆管ガンに掛かった。修理に使う溶媒の影響もあったかもしれない。
病名が分かった時には、手術のできる状態ではなかった。
姉(つまり、私の妻)の家に居候して、色々な自然治癒療法を試した。
その効果はなく、痛みを抑えるためにガンセンターに入院し、最後を迎えた。入院日数は1週間に満たなかった。
死亡年は義父と同じであったが、少し早く旅立つ結果となってしまった。
義父の無念さは測り知りようがない。死期を早めたかもしれない。
義弟次男は、自ら整地し、一から手作りで家を建てた。従来軸組工法で建てられた家は素人離れした出来だった。
病名が分かった時点で、懇意にしていた若い漁師家族に無償で譲った。
地元漁民の信頼が高かったのでしょう。葬儀は漁協(漁民)葬による散骨でした。
義母・義父の遺骨は暫く妻の実家にあったが、散骨した。
自然に還るのが目的なら、土葬が良い。しかし、今はそれが許されない。
妻の遺骨は散骨と言う方向で考えていましたが、結論は先送りになっていました。
自分が生きている間はそれでも良いも考えましたが、自分が元気なうちに区切りを付けることにしました。
結局、散骨ではなく、樹木葬を選びました。
先祖代々の墓には入りたくないと言う遺言には叶っているでしょう。
樹木葬を希望する旨、息子に伝えておきます。
人それぞれが違う。
自分の死生観を他人に押し付けるつもりはありません。
あの世があるかどうかは分からない。
だから、生きている間にしたいことをする。その時に出来ることをする。
家族として協力する。
義母は60代でボケた。
ストレスが加わると進行が早まるそうです。
生活環境が変わるとストレスとなる。妻は幼い息子を連れ、実家に戻り、そこで実母を2年間介護した。
自分は週末朝に妻の実家に向かい、日曜夜に帰る生活となった。
ある夜のこと、義母はガラス戸に映る自分の姿に腰をかがめて挨拶していた。見慣れない自分を他人と錯覚したようです。
ボケの進行が相当に進んだことを裏付ける決定的な瞬間でした。
そこまでボケが進めば、どこで介護しても同じだろうと言う結論に達しました。
いつまでも家族が別に暮らすと言うのも不自然。こちらで引き取って介護することになった。
生まれた時から祖母と一緒だった息子は風呂にも一緒に入った。車椅子も押した。極自然な流れでした。
週に一度の医師の往診。看護師派遣も頼んだ。
25年前の当時、まだ介護保険制度もなく、金銭的な負担は大きかった。妻の実家からの全面的な介護費用負担があったから可能だった。
義母の介護があると言う理由で、家族は何も出来ないと言う言い訳はしなかった。
週末毎に車椅子の義母と小旅行。宿泊旅行もした。
結局、5年余りの介護だった。最後の3日間、妻は不眠不休の介護をした。
人によって置かれている状況は大きく異なる。
したいと思ってもできないこともある。
葬儀代、墓石代の費用に回すのなら、生きている内に使った方が、当人・家族のためではないか。
妻の乳ガンとの共棲生活は15年と長かった。最後の3年間は杖が手放せず、酸素ボンベも必要になった。
不自由な体になっても、恒例の京都・奈良・金沢・松本旅行は続けていた。息子は良く協力してくれた。
母の祖母への献身的な介護を見てきたので、極自然の流れだったのでしょう。
自治医大が出来た頃、義父・義母は献体を申し込んだ。
当時、献体は遺体を傷つける行為と世間では嫌がられていた。夫婦揃っての献体申し込みは珍しい例だったようです。
義母の遺体は教授が直々受け取りに来た。
義父は戦中の後遺症が退職後に出て、不自由な生活を過ごすことになった。療養のため、病院施設を転々とした。
加齢も加わり、体力が徐々に落ち、最終的には義弟長男夫婦が自宅介護で看取り、義父の希望通り献体した。
この陰では、義弟長男は転職する等、介護する家族の犠牲は少なくなかった。
義弟次男は独身だった。島に住み着き、漁船の修理をしていた。
胆管ガンに掛かった。修理に使う溶媒の影響もあったかもしれない。
病名が分かった時には、手術のできる状態ではなかった。
姉(つまり、私の妻)の家に居候して、色々な自然治癒療法を試した。
その効果はなく、痛みを抑えるためにガンセンターに入院し、最後を迎えた。入院日数は1週間に満たなかった。
死亡年は義父と同じであったが、少し早く旅立つ結果となってしまった。
義父の無念さは測り知りようがない。死期を早めたかもしれない。
義弟次男は、自ら整地し、一から手作りで家を建てた。従来軸組工法で建てられた家は素人離れした出来だった。
病名が分かった時点で、懇意にしていた若い漁師家族に無償で譲った。
地元漁民の信頼が高かったのでしょう。葬儀は漁協(漁民)葬による散骨でした。
義母・義父の遺骨は暫く妻の実家にあったが、散骨した。
自然に還るのが目的なら、土葬が良い。しかし、今はそれが許されない。
妻の遺骨は散骨と言う方向で考えていましたが、結論は先送りになっていました。
自分が生きている間はそれでも良いも考えましたが、自分が元気なうちに区切りを付けることにしました。
結局、散骨ではなく、樹木葬を選びました。
先祖代々の墓には入りたくないと言う遺言には叶っているでしょう。
樹木葬を希望する旨、息子に伝えておきます。
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