今日12月22日は父の55回目の忌日。
昭和45(1970)年のこの日に満63歳で亡くなった。
自分はその時、20歳。残された家族は母55歳、姉29歳、兄24歳、弟19歳、自分を含めて5人だった。
死因は胃癌で、文京区お茶の水の「三楽病院」に入院して胃の手術を受けようとしたが、開腹したら肝臓に転移しており、もう手術の効なしとしてそのまま閉じられた。
それは6月のことだったが、その後6ヶ月入院して12月のこの日に生涯を閉じた。
我慢強い患者で、弱音を吐いたのを見たことがなかった。この頑固さは父の性格でもあった。
父は明治40(1907)年の生まれ、生地は鹿児島県の奄美大島である。名瀬市内の奥まった平田町に生家があり、旧制中学校「大島中学」(5年制)を卒業するとすぐに代用教員になったと聞いている。
代用教員を1年か2年かして辞め、今度は鹿児島本土に渡り、正式な教員免許を取るべく師範学校の2部(夜間制)に学び、2年して大島に帰り、尋常小学校の教師になった。
ところが大島での教員では飽き足らず、上京して東京府の教員になった。はっきりした年代は分からないのだが、おそらく22,3才の頃だったと思われるから1929(昭和4)年か1930年であったようだ。
赴任した北区赤羽の学校で教員をしていた母と知り合い結婚したのが昭和14(1939)年で、共稼ぎをしつつ16(1941)年に長女の姉が生まれている。
長子の姉が生まれたのはまさに太平洋戦争が始まった年で、教員である父も母も今日でいうところの「エッセンシャルワーカー」というわけで、母などは「疎開」によって群馬県の伊香保に行かされたと言っていたが、その一方で父は戦時中に組織された「青年学校」の教員にシフトして、戦局が逼迫して来ても徴兵は免れている。
名瀬の父の生家に住んでいた伯父(父の兄で長男)は当時林業試験場に勤めていたようだが、赤紙で招集され中国大陸に渡って戦闘に従事したと言っていた。
父は結局応召することなく終戦を迎えた。これは当時としては珍しい存在だったかもしれない。とにかく戦時中も途切れることなく教員生活を送ったのであった。
そして戦後は昭和21年に兄が生まれ、25年に私が生まれ、26年には末子の弟が生まれ、家族は6人になった。
学徒動員によって師範学校の学生たちも招集されてかなりの犠牲者を出しており、終戦後は教員不足の状態であったから、母は我々3人の男兄弟を生んだ後もずっと教員としての勤務を続けていた。
父と母は次男次女のカップルであったので育児の手を祖父母に借りるわけにはいかず、人(住み込みの女中)を雇って家事育児を回していた。
昭和26年時点で子どもたちが4人になっても、その態勢は変わらなかった。
昭和16年生まれの姉に限って言えば、すぐ下の弟(私にとっては兄)の生まれが21年で姉は当時5歳になっていたからかなり手が離れ、そう負担にならず何とかやりくりして育児ができたのだが、兄の4年後の25年に私が生まれ、翌26年に弟が生まれると、そうは言っていられなくなった。
続けざまに生まれた3兄弟は特に母の手を必要としており、専業主婦の母であっても誰かの手(女中)を借りないと難しい育児だったが、ついに母は教職を離れることなく教員生活を続行した。
教員生活は当時としては珍しく男女平等の世界であった。給与も男女の差はなくただ最終学歴が短大か4年制かで開きがあるのだが、その後は勤務年数によってどちらも比例的に上がっていった。
この給与体系の実質的な平等が母にとっては居心地が良かったのか、母は「産前産後6週間」という出産時の休職をきちんと守って復職し、結局我々兄弟への寄り添い時間は大幅に限られてしまった。
これについて母だけを責めるのは酷だろう。父が母を離職させなかった可能性もある。おそらく父方、母方両生家からの援助が期待されなかったので、二人のダブルインカム(二重収入)に依存するほかなかったのかもしれない。
それは分からぬでもないが、戦後の東京であればもちろん教職もだが、あらゆる業態で人手が必要だった時代である、母が教職を離れて専業主婦になったとしても育児の合間、時に応じてパートなりを探せばいくらでもあったと思うのだ。
この流れの中で最大の過ちは、弟が中2に時(1965年)に起こした「長欠」(今で言う登校拒否)に対する両親の対応である。
この時が母の引退(離職)のタイミングだったのだ。ところが母は弟に寄り添わないまま教員を続け、結果として弟を精神障害にしてしまった。高校には行ったが2度の転校を繰り返し、やっと卒業はしたがすでに精神を病んでいた。(※その後、入退院を繰り返し32歳で他界した。)
父の話に戻るが、父は戦後は一時的に新制高校の教員になったあとは中学校の教頭になり、2年後の44歳の時に中学校の校長になった。そして5校の校長を経て60歳で退職し、退職の3年後に63歳で他界した。
ある意味で名校長だったらしく、他界と同時に政府から勲6等を受勲している。
家では明治時代の頑固おやじという側面が強く、これと決めたら梃でもという風であった(姉はよく父のことを封建的だと言っていた)。
また4兄弟のいずれも父の生地である奄美大島に連れて行ってもらったことはなかった。
それどころか父の口から奄美の家族、祖父・祖母の名前さえ聞いたことがなかったのだ。まことに不可解という他ない。祖父母の名は父が他界してから戸籍を大島から取り寄せて初めて知ることになったのだった。
我が家の鴨居には西郷隆盛の肖像画で額に入れたのを掲げてあったが、その理由について父から聞かされたことはなく、ただ「西郷さんの肖像画だ」とくらいにしか言われていなかったうえ、兄弟もそれ以上問いただすこともなかった。
ただ父が鹿児島出身であり、その郷土の偉人だからそうなんだろうという憶測に留まっていた。父が有無を言わせない雰囲気を感じさせる性格だったからだろうか。
またその額の掛かっている反対側の鴨居には国木田独歩の「山林に自由存す」という詩の表装されたのが横長の額に入れられて掛かっていた。
この詩の内容は子供心にもわかったが、なぜそこにかけられているのかについて、やはり問いただすことはなかった。
私も、自分の為すことに対して詳しくその理由を言うことはあまりしない方であるが、これは父譲りなのかもしれない。