大隅地区で紅葉の名所はそれほど多くないが、山間の清流流れる吾平山陵(天孫3代目のウガヤフキアエズノミコトの陵墓)に行くと深まる秋の色が感じられる。
昨日今日と二日続けて霜が降りたのだが、我が家の庭のモミジは葉の先端だけが少し赤くなった程度である。
そこで今朝出掛けてみたところ、やはりそれなりに紅葉が始まっていた。
吾平山陵の入り口には案内所があるが、その前面にある苔の生えた広場のモミジは半分ほど色づいていた。
あと3日も冷え込みが続けばきれいな紅葉が見られるに違いない。
宮内庁書陵部管轄の吾平山陵に入っていくと、2番目の橋の下を流れる清流の川岸周辺には数本のモミジが見られる。
川にせり出しているのは自然生の山モミジだろうか。こんなのはむしろ春の新緑の頃の方が水面に映って清々しい感じがする。
吾平山陵のモミジで最も美しいのは3番目の橋のたもとに生えているモミジだろう。
湾曲して流れる清流の先の崖は柱状節理という天然の崖で、これはこれで見事だが、一本のモミジがなお一層風情を添えている。
また河岸の火山噴出物由来の白い軽石の集まりも独特の味わいがある。
吾平山陵には入り口の橋を入れて3つの橋あり、どの橋も欄干は花崗岩を加工した重厚な造りで、足元も玉砂利を固めていて滑らないようになっている。
昭和47年に現上皇ご夫妻が親拝されて以来、御親拝は途絶えているが、御親拝の際はもちろん、毎年派遣される宮内庁職員による代拝の時にも、また一般参賀者にもこの配慮は必要だ。
吾平山陵(あいらさんりょう)とわれわれは普通に呼んでいるが、正確には「吾平山上陵(アイラヤマノウエノミササギ)」である。
だが面白いことに道路標識では「吾平山上陵」と表示されているにもかかわらず、ローマ字では「Aira-Sanryou」と、「上(jou)」の音がない場合が多い。
そもそも吾平山上陵は、「山上」にあるわけでもないのになぜそう呼ばれているのだろうか――が問われよう。
皇室の祖先である天孫第1代のニニギノミコトの陵墓は薩摩川内市の「可愛(エノ)山上陵」であり、2代目のホホデミノミコトの陵墓は霧島市溝辺町にある「高屋(タカヤ)山上陵」で、どちらも実際の山の上に比定されている。
ところがこちらの吾平山上陵は山上とは言いながら、「洞窟陵」なのだ。「高い山の上にある洞窟」ならまだしも、伊勢神宮の五十鈴川になぞらえられる姶良川の源流に近いとは言え、なだらかな流れの川の向こうに見える洞窟なのである。
この疑問については幕末の国学者・後醍院真柱という人が「山上という表現はこの地が姶良郷からかなりの距離の山間部にあるからそう名付けられたのだろう」という見解を出しており、明治以降も大筋でこれが認められている。
私の考えはそれとは違い、ウガヤフキアエズノミコトの子どもに当たるいわゆる「神武天皇(皇子時代はトヨミケヌ命)」が東征を果たす頃は大規模な火山活動など俗にいう天変地異が多発し、南九州を後にせざるを得なかった。
つまり父親の陵墓を山上に築くことができず、災害に強い洞窟の中に葬る必要性に迫られたからではないか、と考えている。
ところが日本書紀ではウガヤフキアエズの陵墓について「久しくましまして、西の洲の宮にかむあがりましぬ。よりて吾平山上の陵にはふりまつる。」(本文)とあり、この表現から「吾平山上陵」という名称が確定した。
初代の二ニギの陵墓が「可愛山上陵」であり、2代目のホホデミの陵墓が「高屋山上陵」であるから、その「山上陵」という名称を並称する意味合いもあったに違いない。
しかし現実には山の上の陵墓ではなく、洞窟陵だったのである。
この吾平山上陵が洞窟陵である理由については、私の見解以外にも言及されてしかるべきかと思う。