今年も終戦の日がやって来た。
日本武道館で行われた政府主催の戦没者追悼式は、この3年のコロナ禍の下では最大の参列者を得て、粛々と催された。
昭和20年(1945年)8月15日、前日の14日にポツダム宣言を受諾し、明けてこの日、昭和天皇自らが「終戦の詔勅」をラジオで読み上げられ、太平洋戦争は終わった。
それから77年、日本は幸いにも、「終戦」のお言葉通り、他国との戦争は一度もせずに日々を送って来た。
1945年をさかのぼること77年、1868年の9月、時代は明治となり、江戸城が天皇の住まいとなって、江戸幕府は崩壊した。(※ただし、幕府方の戊辰戦争の残党・榎本武揚が箱館五稜郭において降伏したのは、翌年の4月であった。)
今年は、ちょうどその明治の開始から数多の戦争を経て終戦の詔勅に至った年月と、戦後平和国家としてこれまで歩んで来た年月とが同じ長さになるという記念すべき年に当たっているのである。
思えば戦前の77年は戦争の時代であった。
戊辰戦争が終わって「明治維新」が完了し、近代国家が始まったのだが、10年すると「西南戦争」(1877年2月~9月)があった。これは内戦であったが、1894年には「日清戦争」が、1904年には「日露戦争」が起きている。
前者は福沢諭吉の唱えた「脱亜入欧」のモデルのような戦争で、西洋文明を素早く取り入れた日本が軍備にしろ軍隊にしろ格段に優れていたため圧勝した。後者は陸上では旅順後略をめぐって多大なる苦戦を強いられたが、対馬海峡の海戦でバルチック艦隊を破り、辛うじてロシア帝国に勝利した。
日清戦争によって清王朝は弱体化し、18年後の1912年、ついに王朝は滅び、中華民国が誕生した。また日露戦争によってロマノフ王朝は弱体化し、12年後の1917年、ついにロマノフ王朝のニコライ2世は退位してソビエトが生まれた。どちらの戦争も日本の勝利によって敗戦国では「革命」が起き、帝国は瓦解している。
また日本も勝利したことで、治外法権が撤廃され、関税の自主権を得ている。欧米から近代国家としての独立と主権が認められたのである。同時にまた日本は台湾を獲得し、朝鮮を併合した。これもほぼ同じ理由からだ。
(※ただ、どちらの国も欧米列強的な「植民地」ではなかった。現地に多大の資本を導入して産業の近代化を図り、現地人に必要な学校制度も整備している。韓国の女性大統領だったパク・クネの妹は、「日本に併合されていなかったら、教育などもっと遅れていた」と言っている。いま話題の旧統一神霊協会を創設した文鮮明(1920年生まれ)などもその恩恵を蒙っているはずだ。)
日清・日露戦争の勝利でやや天狗になった大日本帝国に対して、欧米列強は一種の人種差別的な脅威を感じ始めていた。俗に言う「黄禍論」である。
白人の欧米諸国の有色人種への人種差別は、植民地支配の内容を見てもすぐに了解されることで、これに対して異を唱えたのが、第1次大戦後に開かれたパリ講和(ベルサイユ)会議(1919年)において、日本の全権大使・西園寺公望に付いて行った副大使・牧野伸顕であった。
「人種差別を撤廃する条約を結んでもらえないか」と動議を出し、参加各国の賛否を問うたところ、賛成が多数を占めた。ところが議長だったアメリカ大統領のウイルソンは「全会一致でなければ、条約にはできない」と牧野の提議を葬ったのであった。(※ウイルソン自身が、アメリカ南部に黒人を奴隷的に使う農園を持っていたかららしい。)
これ以降、欧米、とくに英米は日本を仮想敵国と見做し始めた。カリフォルニア州の「排日土地法」(1920年)、ワシントン軍縮会議(1921年)、移民法の成立(1924年=排日条項あり)、パリ不戦条約(1928年=英米仏日ほか12か国)、ロンドン軍縮条約(英米日=1930年)など、日本及び日本人への締め付けが強められている。
この流れとは別に、ソビエト革命(1917年)による影響が中国にも拡大して行き、1919年にモスクワで創設されたコミンテルンがその影響を後押しした。一言でいえば革命の輸出である。マルクス・レーニン主義とも言うが、大正時代(1912年~1926年)の後半に入ると日本の産業はもとより学術文化層にも多大の影響を与えた。
中華民国によって曲がりなりにも独立国家となった中国でも、1921年には上海で共産党が産声を上げた。以降、共産党は各地で勢力を伸ばしながら、民国との軋轢を生んで行った。中国大陸ではこのほかに各地に「軍閥」があり、特に満州の軍閥・張作霖は有名である。彼は日本の特務機関によって爆殺されたとされるが、コミンテルンの差配だった可能性も指摘されている。
コミンテルンの差配する中国共産党にとって、一番都合の良いのは、中華民国と日本が戦い、中華民国の勢力が減殺されることであった。盧溝橋から始まった日中戦争(1937年7月7日開戦)だが、この事件の主導者はコミンテルンの指示による中国共産党員の「数発の銃声」だったという説がある。自分もそう考えている。まんまと泥沼の対中戦争に引き摺り込まれたのだと思う。
この4年後の1941年12月8日、真珠湾攻撃により、日米間の戦争の火ぶたが切られた。
そして4年後の1945年8月15日に終戦を迎えた。
太平洋戦争で戦没した日本人は軍人軍属が210万、一般市民が100万と言われる。
それまでの日清・日露・日中のそれぞれの戦争では、戦死者は軍人軍属だけだった(ただし、日中戦争下では日本人居留民が殺害されている)が、最後の日米戦争では、2発の原爆と都市の無差別爆撃、それに唯一の地上戦となった沖縄県民への攻撃によって100万もの犠牲者を生んでいる。
原爆投下はもとより、一般市民への攻撃は国際法上認められていないにもかかわらず、アメリカはそれをやってしまった。彼らによると「米軍の戦死者をこれ以上出さないため、日本の降伏を早くする手段だった」というが、一般国民への攻撃に対する陳謝はない。
原爆を製造し、爆撃機に乗って投下の指示を出し、挙句にはその投下とすさまじい爆発(炸裂)によるキノコ雲の撮影までしたという、アメリカの一科学者が戦後40年してから広島を訪れたというドキュメンタリー番組を見たが、彼は被爆者二人が「(一般市民へ投下したことを)謝って欲しい」と詰問するのを受けてこう答えた。「謝らない。戦争とはそういうものだ。リメンバーパールハーバーだよ」と。
卑怯な真珠湾攻撃のお返しさ――というわけだが、ちょっと待てよ、真珠湾攻撃では一般市民は標的にしていないぞ。
ここに彼等アメリカ人の人種の優越感を感じてしまうのだが、私だけか。米軍では「良い日本人とは、死んだ日本人だ」という、かつて北米の先住民インディアンと戦う時に、あとから入って来た白人が「良いインディアンは、死んだインディアンだ」と言って殺害していたのと軌を一にする。
いずれにしても、もう戦争はこりごりだし、する理由は全くない。
だが、「強固この上ない日米同盟」が結ばれている以上、台湾をめぐって米中が戦い始めたら日本も参戦しなければならなくなろう。こんなアメリカの指示を仰いで台湾や沖縄で中国軍と戦うなんてまっぴらだ。日本は早く「永世中立国宣言」をすべきだ。
世界はそれを待っている。中国もそれを待っている。(※本当はアメリカもそれを待っている。)
日本武道館で行われた政府主催の戦没者追悼式は、この3年のコロナ禍の下では最大の参列者を得て、粛々と催された。
昭和20年(1945年)8月15日、前日の14日にポツダム宣言を受諾し、明けてこの日、昭和天皇自らが「終戦の詔勅」をラジオで読み上げられ、太平洋戦争は終わった。
それから77年、日本は幸いにも、「終戦」のお言葉通り、他国との戦争は一度もせずに日々を送って来た。
1945年をさかのぼること77年、1868年の9月、時代は明治となり、江戸城が天皇の住まいとなって、江戸幕府は崩壊した。(※ただし、幕府方の戊辰戦争の残党・榎本武揚が箱館五稜郭において降伏したのは、翌年の4月であった。)
今年は、ちょうどその明治の開始から数多の戦争を経て終戦の詔勅に至った年月と、戦後平和国家としてこれまで歩んで来た年月とが同じ長さになるという記念すべき年に当たっているのである。
思えば戦前の77年は戦争の時代であった。
戊辰戦争が終わって「明治維新」が完了し、近代国家が始まったのだが、10年すると「西南戦争」(1877年2月~9月)があった。これは内戦であったが、1894年には「日清戦争」が、1904年には「日露戦争」が起きている。
前者は福沢諭吉の唱えた「脱亜入欧」のモデルのような戦争で、西洋文明を素早く取り入れた日本が軍備にしろ軍隊にしろ格段に優れていたため圧勝した。後者は陸上では旅順後略をめぐって多大なる苦戦を強いられたが、対馬海峡の海戦でバルチック艦隊を破り、辛うじてロシア帝国に勝利した。
日清戦争によって清王朝は弱体化し、18年後の1912年、ついに王朝は滅び、中華民国が誕生した。また日露戦争によってロマノフ王朝は弱体化し、12年後の1917年、ついにロマノフ王朝のニコライ2世は退位してソビエトが生まれた。どちらの戦争も日本の勝利によって敗戦国では「革命」が起き、帝国は瓦解している。
また日本も勝利したことで、治外法権が撤廃され、関税の自主権を得ている。欧米から近代国家としての独立と主権が認められたのである。同時にまた日本は台湾を獲得し、朝鮮を併合した。これもほぼ同じ理由からだ。
(※ただ、どちらの国も欧米列強的な「植民地」ではなかった。現地に多大の資本を導入して産業の近代化を図り、現地人に必要な学校制度も整備している。韓国の女性大統領だったパク・クネの妹は、「日本に併合されていなかったら、教育などもっと遅れていた」と言っている。いま話題の旧統一神霊協会を創設した文鮮明(1920年生まれ)などもその恩恵を蒙っているはずだ。)
日清・日露戦争の勝利でやや天狗になった大日本帝国に対して、欧米列強は一種の人種差別的な脅威を感じ始めていた。俗に言う「黄禍論」である。
白人の欧米諸国の有色人種への人種差別は、植民地支配の内容を見てもすぐに了解されることで、これに対して異を唱えたのが、第1次大戦後に開かれたパリ講和(ベルサイユ)会議(1919年)において、日本の全権大使・西園寺公望に付いて行った副大使・牧野伸顕であった。
「人種差別を撤廃する条約を結んでもらえないか」と動議を出し、参加各国の賛否を問うたところ、賛成が多数を占めた。ところが議長だったアメリカ大統領のウイルソンは「全会一致でなければ、条約にはできない」と牧野の提議を葬ったのであった。(※ウイルソン自身が、アメリカ南部に黒人を奴隷的に使う農園を持っていたかららしい。)
これ以降、欧米、とくに英米は日本を仮想敵国と見做し始めた。カリフォルニア州の「排日土地法」(1920年)、ワシントン軍縮会議(1921年)、移民法の成立(1924年=排日条項あり)、パリ不戦条約(1928年=英米仏日ほか12か国)、ロンドン軍縮条約(英米日=1930年)など、日本及び日本人への締め付けが強められている。
この流れとは別に、ソビエト革命(1917年)による影響が中国にも拡大して行き、1919年にモスクワで創設されたコミンテルンがその影響を後押しした。一言でいえば革命の輸出である。マルクス・レーニン主義とも言うが、大正時代(1912年~1926年)の後半に入ると日本の産業はもとより学術文化層にも多大の影響を与えた。
中華民国によって曲がりなりにも独立国家となった中国でも、1921年には上海で共産党が産声を上げた。以降、共産党は各地で勢力を伸ばしながら、民国との軋轢を生んで行った。中国大陸ではこのほかに各地に「軍閥」があり、特に満州の軍閥・張作霖は有名である。彼は日本の特務機関によって爆殺されたとされるが、コミンテルンの差配だった可能性も指摘されている。
コミンテルンの差配する中国共産党にとって、一番都合の良いのは、中華民国と日本が戦い、中華民国の勢力が減殺されることであった。盧溝橋から始まった日中戦争(1937年7月7日開戦)だが、この事件の主導者はコミンテルンの指示による中国共産党員の「数発の銃声」だったという説がある。自分もそう考えている。まんまと泥沼の対中戦争に引き摺り込まれたのだと思う。
この4年後の1941年12月8日、真珠湾攻撃により、日米間の戦争の火ぶたが切られた。
そして4年後の1945年8月15日に終戦を迎えた。
太平洋戦争で戦没した日本人は軍人軍属が210万、一般市民が100万と言われる。
それまでの日清・日露・日中のそれぞれの戦争では、戦死者は軍人軍属だけだった(ただし、日中戦争下では日本人居留民が殺害されている)が、最後の日米戦争では、2発の原爆と都市の無差別爆撃、それに唯一の地上戦となった沖縄県民への攻撃によって100万もの犠牲者を生んでいる。
原爆投下はもとより、一般市民への攻撃は国際法上認められていないにもかかわらず、アメリカはそれをやってしまった。彼らによると「米軍の戦死者をこれ以上出さないため、日本の降伏を早くする手段だった」というが、一般国民への攻撃に対する陳謝はない。
原爆を製造し、爆撃機に乗って投下の指示を出し、挙句にはその投下とすさまじい爆発(炸裂)によるキノコ雲の撮影までしたという、アメリカの一科学者が戦後40年してから広島を訪れたというドキュメンタリー番組を見たが、彼は被爆者二人が「(一般市民へ投下したことを)謝って欲しい」と詰問するのを受けてこう答えた。「謝らない。戦争とはそういうものだ。リメンバーパールハーバーだよ」と。
卑怯な真珠湾攻撃のお返しさ――というわけだが、ちょっと待てよ、真珠湾攻撃では一般市民は標的にしていないぞ。
ここに彼等アメリカ人の人種の優越感を感じてしまうのだが、私だけか。米軍では「良い日本人とは、死んだ日本人だ」という、かつて北米の先住民インディアンと戦う時に、あとから入って来た白人が「良いインディアンは、死んだインディアンだ」と言って殺害していたのと軌を一にする。
いずれにしても、もう戦争はこりごりだし、する理由は全くない。
だが、「強固この上ない日米同盟」が結ばれている以上、台湾をめぐって米中が戦い始めたら日本も参戦しなければならなくなろう。こんなアメリカの指示を仰いで台湾や沖縄で中国軍と戦うなんてまっぴらだ。日本は早く「永世中立国宣言」をすべきだ。
世界はそれを待っている。中国もそれを待っている。(※本当はアメリカもそれを待っている。)