鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

全国戦没者追悼式2022

2022-08-15 15:58:33 | 専守防衛力を有する永世中立国
今年も終戦の日がやって来た。

日本武道館で行われた政府主催の戦没者追悼式は、この3年のコロナ禍の下では最大の参列者を得て、粛々と催された。

昭和20年(1945年)8月15日、前日の14日にポツダム宣言を受諾し、明けてこの日、昭和天皇自らが「終戦の詔勅」をラジオで読み上げられ、太平洋戦争は終わった。

それから77年、日本は幸いにも、「終戦」のお言葉通り、他国との戦争は一度もせずに日々を送って来た。

1945年をさかのぼること77年、1868年の9月、時代は明治となり、江戸城が天皇の住まいとなって、江戸幕府は崩壊した。(※ただし、幕府方の戊辰戦争の残党・榎本武揚が箱館五稜郭において降伏したのは、翌年の4月であった。)

今年は、ちょうどその明治の開始から数多の戦争を経て終戦の詔勅に至った年月と、戦後平和国家としてこれまで歩んで来た年月とが同じ長さになるという記念すべき年に当たっているのである。

思えば戦前の77年は戦争の時代であった。

戊辰戦争が終わって「明治維新」が完了し、近代国家が始まったのだが、10年すると「西南戦争」(1877年2月~9月)があった。これは内戦であったが、1894年には「日清戦争」が、1904年には「日露戦争」が起きている。

前者は福沢諭吉の唱えた「脱亜入欧」のモデルのような戦争で、西洋文明を素早く取り入れた日本が軍備にしろ軍隊にしろ格段に優れていたため圧勝した。後者は陸上では旅順後略をめぐって多大なる苦戦を強いられたが、対馬海峡の海戦でバルチック艦隊を破り、辛うじてロシア帝国に勝利した。

日清戦争によって清王朝は弱体化し、18年後の1912年、ついに王朝は滅び、中華民国が誕生した。また日露戦争によってロマノフ王朝は弱体化し、12年後の1917年、ついにロマノフ王朝のニコライ2世は退位してソビエトが生まれた。どちらの戦争も日本の勝利によって敗戦国では「革命」が起き、帝国は瓦解している。

また日本も勝利したことで、治外法権が撤廃され、関税の自主権を得ている。欧米から近代国家としての独立と主権が認められたのである。同時にまた日本は台湾を獲得し、朝鮮を併合した。これもほぼ同じ理由からだ。

(※ただ、どちらの国も欧米列強的な「植民地」ではなかった。現地に多大の資本を導入して産業の近代化を図り、現地人に必要な学校制度も整備している。韓国の女性大統領だったパク・クネの妹は、「日本に併合されていなかったら、教育などもっと遅れていた」と言っている。いま話題の旧統一神霊協会を創設した文鮮明(1920年生まれ)などもその恩恵を蒙っているはずだ。)

日清・日露戦争の勝利でやや天狗になった大日本帝国に対して、欧米列強は一種の人種差別的な脅威を感じ始めていた。俗に言う「黄禍論」である。

白人の欧米諸国の有色人種への人種差別は、植民地支配の内容を見てもすぐに了解されることで、これに対して異を唱えたのが、第1次大戦後に開かれたパリ講和(ベルサイユ)会議(1919年)において、日本の全権大使・西園寺公望に付いて行った副大使・牧野伸顕であった。

「人種差別を撤廃する条約を結んでもらえないか」と動議を出し、参加各国の賛否を問うたところ、賛成が多数を占めた。ところが議長だったアメリカ大統領のウイルソンは「全会一致でなければ、条約にはできない」と牧野の提議を葬ったのであった。(※ウイルソン自身が、アメリカ南部に黒人を奴隷的に使う農園を持っていたかららしい。)

これ以降、欧米、とくに英米は日本を仮想敵国と見做し始めた。カリフォルニア州の「排日土地法」(1920年)、ワシントン軍縮会議(1921年)、移民法の成立(1924年=排日条項あり)、パリ不戦条約(1928年=英米仏日ほか12か国)、ロンドン軍縮条約(英米日=1930年)など、日本及び日本人への締め付けが強められている。

この流れとは別に、ソビエト革命(1917年)による影響が中国にも拡大して行き、1919年にモスクワで創設されたコミンテルンがその影響を後押しした。一言でいえば革命の輸出である。マルクス・レーニン主義とも言うが、大正時代(1912年~1926年)の後半に入ると日本の産業はもとより学術文化層にも多大の影響を与えた。

中華民国によって曲がりなりにも独立国家となった中国でも、1921年には上海で共産党が産声を上げた。以降、共産党は各地で勢力を伸ばしながら、民国との軋轢を生んで行った。中国大陸ではこのほかに各地に「軍閥」があり、特に満州の軍閥・張作霖は有名である。彼は日本の特務機関によって爆殺されたとされるが、コミンテルンの差配だった可能性も指摘されている。

コミンテルンの差配する中国共産党にとって、一番都合の良いのは、中華民国と日本が戦い、中華民国の勢力が減殺されることであった。盧溝橋から始まった日中戦争(1937年7月7日開戦)だが、この事件の主導者はコミンテルンの指示による中国共産党員の「数発の銃声」だったという説がある。自分もそう考えている。まんまと泥沼の対中戦争に引き摺り込まれたのだと思う。

この4年後の1941年12月8日、真珠湾攻撃により、日米間の戦争の火ぶたが切られた。

そして4年後の1945年8月15日に終戦を迎えた。

太平洋戦争で戦没した日本人は軍人軍属が210万、一般市民が100万と言われる。

それまでの日清・日露・日中のそれぞれの戦争では、戦死者は軍人軍属だけだった(ただし、日中戦争下では日本人居留民が殺害されている)が、最後の日米戦争では、2発の原爆と都市の無差別爆撃、それに唯一の地上戦となった沖縄県民への攻撃によって100万もの犠牲者を生んでいる。

原爆投下はもとより、一般市民への攻撃は国際法上認められていないにもかかわらず、アメリカはそれをやってしまった。彼らによると「米軍の戦死者をこれ以上出さないため、日本の降伏を早くする手段だった」というが、一般国民への攻撃に対する陳謝はない。

原爆を製造し、爆撃機に乗って投下の指示を出し、挙句にはその投下とすさまじい爆発(炸裂)によるキノコ雲の撮影までしたという、アメリカの一科学者が戦後40年してから広島を訪れたというドキュメンタリー番組を見たが、彼は被爆者二人が「(一般市民へ投下したことを)謝って欲しい」と詰問するのを受けてこう答えた。「謝らない。戦争とはそういうものだ。リメンバーパールハーバーだよ」と。

卑怯な真珠湾攻撃のお返しさ――というわけだが、ちょっと待てよ、真珠湾攻撃では一般市民は標的にしていないぞ。

ここに彼等アメリカ人の人種の優越感を感じてしまうのだが、私だけか。米軍では「良い日本人とは、死んだ日本人だ」という、かつて北米の先住民インディアンと戦う時に、あとから入って来た白人が「良いインディアンは、死んだインディアンだ」と言って殺害していたのと軌を一にする。

いずれにしても、もう戦争はこりごりだし、する理由は全くない。

だが、「強固この上ない日米同盟」が結ばれている以上、台湾をめぐって米中が戦い始めたら日本も参戦しなければならなくなろう。こんなアメリカの指示を仰いで台湾や沖縄で中国軍と戦うなんてまっぴらだ。日本は早く「永世中立国宣言」をすべきだ。

世界はそれを待っている。中国もそれを待っている。(※本当はアメリカもそれを待っている。)

Tシャツと背広

2022-07-08 09:47:28 | 専守防衛力を有する永世中立国
ロシアのウクライナ侵攻をめぐっては、現代の最先端の情報合戦が繰り広げられている。

何と言っても侵攻された側のウクライナのゼレンスキ―大統領が、毎日のようにインターネットを通して世界に向かって呼びかける姿が放映されているが、これはこれまでの戦争シーンでは全く考えられなかったことだ。

しかもその容姿が実に興味深い。常に半袖のモスグリーンのTシャツ姿なのだ。ロシア軍による侵攻が開始されたのは2月24日だったが、時を経ずしてゼレンスキー大統領の直接の声明が、およそ大統領らしからぬ姿でもって世界に向けて同時に発信されたのであった。

時折りミサイル等で破壊された街並みを放映するので、戦争開始を知らなかった人間から見たら、ゼレンスキ―氏はウクライナの放送局のニュースキャスターか何かに思われたろう。

もっとも、カメラの前のニュースキャスターなら半袖のTシャツ姿というのはまず考えられないから、同じ「ニュース」を見ている周りの人に疑問を投げれば、すぐにあれが本物の大統領だということに気付かされるに違いないが・・・。

いずれにしても画面に出るゼレンスキ―大統領の一張羅(?)の半袖Tシャツは、見る者の同情を誘うに十分である。外は雪の降っている開戦当初の寒い時期でも半袖だったということは、もちろん暖房の効いた部屋で映したのであろうが、おそらく当地では普遍的に造作された地下深くの核戦争に耐えられる避難所(大統領府の地下室)の内部だったに違いない。

それに比べると侵攻した側の大統領プーチンは常に背広姿で登場する。

プーチンはフランスのマクロン大統領と開戦前に2度ばかり大統領府のクレムリン宮殿で会談している。あの10メートルもあるような細長い人を喰ったような楕円のテーブルの端と端に座って両首脳が対談していたのだが、その時、プーチンはは外交上の礼儀でもあり、背広にネクタイ姿であった。

ところが開戦後に時折り放映されるプーチンの姿に目立った変化はなく、相変わらず地味な色の背広姿であった。自分としては戦時の大統領であり、少なくとも上着くらいは国防服のようなタイプのものを纏うと思っていたのである。

陸軍省とか空軍省の大臣や参謀長などとの会談では彼ら将帥たちはきらびやかなバッジを胸にたくさん付けた金モール仕立ての軍服姿だが、プーチン本人はやはり背広である。自分は文官のトップであり、戦争遂行の指示は出すが、実戦は将帥たちの責務に任せているという主張であろう。

この戦争の終結が敗戦か、停戦が、休戦か、いずれによるかは今のところ不透明だが、どっちにしても終結後に「ウクライナの一般市民殺害の戦争責任」の訴追は免れ得ず、その時には現場責任者である将帥たちに責任を転嫁できるという伏線に違いない。優秀だったKGB職員上がりのプーチンならお手のもののやり方だ。

KGBと言えば、プーチンが画面に現れ、すたすたと歩く映像を見て不可解に思うことが一つある。

彼は左手は思い切ってよく前後に振るのだが、右手は全くと言ってよいほど振らない。そのことに気付いた人は多いと思うが、右手が特に病的に不自由というわけではないのは、テーブルに座った際には普通に肘を曲げ手首も動いていることで分かる。

だが歩いている時、右手は不気味なくらい動いていない。その意味は何だろうか?

推測だが、背広の右内側に小型のピストルを隠し持っているからだろう。超小型・超薄型なら軽量であり、歩いても背広を不必要に揺らすことはなく、人には気づかれまい。ただ右手を勢いよく振るとさすがにばれるので振らないのだろう。もちろん防弾チョッキも着用しているはずである。

このあたりはKGBというかつてのスパイ活動ではお馴染みのことであり、大統領になってからは特に狙われそうな場面で過去のやり方を踏襲しているに違いない。

半袖Tシャツの大統領と背広にネクタイの大統領。勝敗は決せられていないが、この戦争に関する是非善悪(戦争責任)がどちらにあるかは明白である。

アメリカ銃社会の愚かさ

2022-07-06 22:48:46 | 専守防衛力を有する永世中立国
6月24日、18歳の少年が小学校に侵入して無差別発砲し、21人の子どもや教員の命が奪われてまだ悪夢の冷めやらぬうちにまたしても起きたアメリカ国内の無差別発砲事件。

7月4日のアメリカ独立記念日のパレードを見に集まった大衆に向けて発砲した容疑者は22歳の白人で、警察に追われたが殺されずに捕まったようだ。これが黒人だったら警察官によって容赦なく殺害されていたかもしれない。

事実、この4日の発砲事件と同じ頃に、場所は違うが、ある黒人の運転する車が交通違反を起こしたので止めようとしたが振り切って逃げた。そのうちに警察車両に追い詰められ、車から逃走しようとしたその黒人運転手は無残にも60発の銃弾を浴びて殺されている。

警察の言い分は、彼が振り向きざまに銃のような物を手にしたから撃った。正当防衛であるというのだ。

もちろんこういった交通違反や窃盗容疑などで逮捕されそうになり、逆に本物の銃で応酬をする容疑者は黒人だけではあるまい。したがってその際に警官の発砲を受ける「正当防衛」の被害者に白人と黒人の区別はないはずである。だが、現実問題として黒人への発砲の方が圧倒的に多いのではないか。

黒人層の方が刑事罰を犯す輩が多いからだ、という見方がないわけではないが、それに関する統計を知らないので何とも言えない。

それはそれとして、アメリではつい最近銃所持への規制を強めた法律が成立したばかりだ。その矢先に恐ろしい無差別発砲事件が起きてしまった。

もっともその法律はいわゆる「ザル法」であり、それまでの拳銃所持条件の要件で最低年齢が引き上げられたことと、精神障害などの障害要件、犯罪歴要件などが厳しくなった程度で、相変わらず「健常者で21歳以上の市民」は自由に所持ができるのである。

しかもそれが憲法条項に載せられている市民の根本的な権利だというのだから、取り付く島がない。全米ライフル協会という保守的で共和党のロビイスト的な団体がその条項(憲法修正第2条)を盾に大きな力を持っており、憲法改正はほとんど不可能だという。

世界ではアメリカを始め約20か国が銃の所持を認めているようだ。だがアメリカのように憲法に明記している国は多分無いだろう。

日本では「銃刀法」というのがあり、それによる規制では「狩猟と銃を使用する競技」以外の銃所持は認められず、しかも毎年の更新が必要である。ただ、暴力団などが抗争の際に銃を使うことがあるが、もちろんその銃は不法所持であり、二重の意味で処罰の対象となる。

アメリカの銃所持は伝統的なもので、1776年の東部13州独立以前のイギリスやインディアンとの戦いで普及している。インディアン居住地近くに入植したイギリスからの移民は、日本の明治初期に北海道であった制度である「屯田兵」に近い境遇に置かれた。

インディアンや南部に導入された黒人奴隷による叛乱に対処するというのも銃所持の大きな目的であった。要するに建国当時のアメリカ人各自が安心安全に暮らすための象徴が銃だったのである。

アメリカは独立してまだ240年余りと若く、その分歴史的事象の少ない国である。だからせめて建国当時を「古き良き時代」として回顧し、建国を導いた銃器に対しては寛容なのだろう。

新聞報道によると、今年に入って「4人以上の死傷者の出た発砲事件」はすでに300件を超えたという。最初に触れた痛ましい事件が毎日二件起きていることになる。

「4人未満の死傷者の出た発砲事件」については公表していないが、最低でもこの10倍くらいは起きているだろう。以前にアメリカでは一年に銃による死者は2万から3万人いる、と聞いたことがあったからだ。

今度のプーチンのウクライナ侵攻による無差別攻撃によって、一般市民に相当な死者が出ているが、兵士を除外すると1万人よりはるかに少ない数ではないか。

そうするとアメリカでは戦時でもないのに、一般市民の銃による死者は戦時並みかそれ以上だ。クワバラな国、愚かな国である。

※翻って日本人が銃を手にしたのは有名なポルトガル船の種子島漂着の時で、1543年のことであった。種子島の領主が複数の鉄砲を作らせ、島津氏がそれを手に入れ、岩剣城の戦い(1554年)で最初に実戦で使われたとされる。

その後、紀州の根来衆によって大量生産の道が開かれ、織田信長は鉄砲隊を組織して戦法に取り入れたのが長篠の戦(1575年)であった。しかし信長以後は戦法として普及せず、刀と槍、弓矢が主たる武器の時代が江戸期を貫いている。

アメリカ人よりもはるかに早い時代に手にした鉄砲も日本では武器としては普及せず、幕末から明治維新にかけて大砲とともにようやく攻撃用の武器になったのだが、その「近代兵器」を取り入れ刀を捨てさせたのが「アメリカの黒船」だったのは歴史の面白いところだ。

ウクライナと台湾

2022-06-26 15:06:07 | 専守防衛力を有する永世中立国
今日の午後視聴した「そこまで言って委員会」では五つの論点について参加者8人の意見を求めていたが、最後の質問は「日本国憲法改正は是か否か」であった。

参加者8人の意見は真っ二つに分かれ、賛成が4人、反対が4人。

改正の焦点はもちろん9条の改正で、反対派の論旨はほぼ「平和憲法は絶対変えてはいけない」というスタンスで、9条の言うように「交戦権は認められず(第一項)、そのための戦力は持たない(第二項)」つまり「戦争の放棄」を変えてはいけない、というものである。

現在の日本には「自衛隊」があるが、かつての9条遵守派は「自衛隊は戦力であり、憲法違反だ」と言ってはばからなかった。

しかし憲法9条が規定した「交戦権」の内容は、「国家間の戦争」(対外戦争)は放棄するということであり、国内の戦争(内戦)に対処する交戦権は否定されていない。そのためGHQは国内の争乱を取り締まるために「保安隊」を認め、やがて「警察予備隊」が発足し、それが今日の自衛隊(1954年創設)に繋がっている。

現実に戦後の日本で内乱が発生したことはないのだが、当時のGHQが恐れたのは共産党を筆頭にした勢力による日本国内の争乱であった。それを取り締まるための警察予備隊であり、その後の自衛隊創設であった(アメリカではかつてよく「州兵」が出動して「暴動」を取り締まっていた。それと同じである)。

したがって自衛隊の存在は「対外戦争」のためではなく、国内の争乱を鎮定するというのがそもそもの目的であった。憲法9条は第一項で「対外戦争」を否定している。つまり対外交戦権の放棄であり、それは自衛隊という造語の通りである。

また、およそ独立国である限り個別的自衛権は持っており、国土を守るための自衛戦力は否定されない。

これは9条第二項に抵触しているように見えるが、第二項は、対外戦争のための戦力は持たないが、内戦を防止し予防するための戦力を持つことまでは否定しないと解釈すべきである。

ただし、9条には「自衛隊」もしくは「国土防衛隊」という専守防衛戦力の文言が無いので、書き加えるべきだ。その程度の最小限度の改正は早急に行うべきだろう。


ただ「そこまで言って委員会」の9条改正派の一人が、「ウクライナへのロシア侵攻が現実に起きた。自衛戦力を格上げしてNATOのような集団的安全保障体制を作って攻撃に備えるべきだ」という委員がいたが、集団的安全保障体制の構築を言う前に、「日米安保体制はどうなるの?」という疑問が起きるが、その点どう考えるのか。

また今回のロシアによるウクライナ侵攻の脅威から連想するならば、日本が巻き込まれるという心配より、まずは「台湾問題」だろう。中国政府は国連に加盟した1972年からこの方、ずっと「台湾は中国の一省であるから、必ず統一しなければならない」と言ってきた。

ところがこれはまやかしである。

大陸が清王朝だった時代の明治6(1874)年、琉球の八重山島民が台湾に漂着したが、台湾の原住民であるパイワン族に襲われて54名が命を落とした事件があった。

明治政府は清国に官吏を派遣し善処を求めたが、清国は「台湾は清の王化には属していない」として補償を拒んだので、ついに明治政府は出兵することになった(台湾征討)。(※原住民のパイワン族を征伐したのだが、待ち構えていたのはマラリア等風土病の猛攻であったという。)

その後日清戦争の勝利によって1895年に台湾を日本領に組み入れた。その期間は1945年のポツダム宣言受諾までの60年間であった。台湾統治の間、日本は相当な人員と資本を以て数々の施策に取り組み、台湾の近代化を図っている。

今日でも台湾には親日家が多いが、それは日本のその60年間の統治が台湾に多大な恩恵をもたらしたからである。

その一方、台湾は太平洋戦争終焉後に毛沢東の共産軍に敗れた国民政府が渡ってくるまでは、大陸中国にとっては常に「化外の島」であり、一度たりとも大陸中国の施政権が及んだことはなかった。

したがって中国共産党政府のいう「台湾は本土と一体の国であり、台湾政府の存在は許されない」というのは全くのまやかしである。

この台湾が置かれた状態と一見して似ているのが今度ロシアから攻撃されているウクライナだが、ウクライナの場合、たしかにプーチンの言うように、1000年以上前からウクライナの「キエフ公国」とロシアの「モスコー公国」とは兄弟関係にあった。帝政ロシア時代も両者の関係は続いており、帝政崩壊後のソビエト連邦時代にはソ連邦の重要な一員であった。

1991年にソ連邦が崩壊し、ウクライナはじめ多くの独立国家が生まれたが、それら独立国家にはロシア語を話すロシア人が残っており、プーチンはそれらの「同朋」が迫害されているのを見て見ぬふりはできないと、大規模演習に名を借りて攻め込んだ。よく言われる「居留民保護」という「大義」である。

プーチンのやり方は全く承認できないが、これと同じことを中国共産党政府が台湾に対してやったら、ロシアに対する以上の大ブーイング(制裁)が国際社会で起きるだろう。下手をすると中国共産党政府そのものの瓦解を招くかもしれない。

上で見た台湾と大陸との関係からすれば当然のことである。

ましてや中国が日本に攻めて来るなど、有り得ない話だ。識者や政治家の中にはウクライナ問題を契機に危機感をあおる輩が多いが、歴史的に見れば全く心配することはない。

沖縄全戦没者慰霊の日(2022.06.23)

2022-06-23 21:08:47 | 専守防衛力を有する永世中立国
沖縄で行われた太平洋戦争初の地上戦は、日本軍10万、アメリカ軍1万2千、そして沖縄の一般住民約10万の犠牲を生み、1945年6月23日に終結した。(※帝国陸軍沖縄根拠地司令官の牛島満中将と同参謀長の長勇が自決したのは前日の22日であり、実質的には22日に戦闘は止んでいる。)。

日本軍の中には沖縄人が軍人軍属あわせて約3万人いたので、沖縄人だけに絞ると、当時、約13万の沖縄県民が命を落としたことになる。

当時の沖縄は人口が60万に満たない数であったから、よく言われるように「沖縄県民の4人に1人が犠牲になった」のである。

ほかの多くの都道府県でも米軍による無差別爆撃によって数千から10万くらいの一般市民の犠牲者を出しているが、それぞれの都道府県で沖縄のように25パーセントの人口が失われたという自治体はない。沖縄が突出して多い。

摩文仁の丘に設営された「平和の礎(いしじ)」には全戦没者の名前の刻まれた石の壁が建立されているが、今年も戦没者の追加があり、今や総数24万を数えるという。地上戦による戦死者13万人よりはるかに多いが、この中には沖縄県民で太平洋戦争に志願あるいは招集されて亡くなった人や、米軍の潜水艦によって沈没させられた学童疎開船「対馬丸」の犠牲者(生徒と引率の教師など1400名)なども含まれている。

太平洋戦争中の軍人・軍属の戦死では沖縄県人が突出して多いというわけではないが、一般住民や子供が犠牲になった点では全都道府県ではトップだろう。

米軍従属の報道関係者が撮影した沖縄戦における米軍の攻撃では「火炎放射器」を使用し、それを一般住民が立てこもったガマ(洞窟)に向けて放っている様子が生々しい。

今度のウクライナ戦争でも、ロシア側が一般住民の住む町にロケット砲を撃ち込む映像が流されるが、沖縄県民のみならず戦争の持つ非人道性に改めて心の痛みを覚える。

摩文仁の丘の会場で開催された沖縄全戦没者慰霊の式典では、小学2年生の女児がそんな沖縄戦の映像に触れた感想をたどたどしく語っていたが、誰しも思わず涙を催さざるを得なかっただろう。

沖縄県知事の玉城デニー氏は式辞の最後の方で、沖縄語と英語とで「ぬちどぅたから(命こそ宝)」と述べていたが、5月15日の沖縄施政権返還記念日の式典で全国知事会の会長である鳥取県知事の平井氏が「てぃんさぐぬ花」という沖縄の唄を口ずさんだのと同様、感銘を受けた。


玉城(たまき)デニー沖縄県知事。62歳で、父はアメリカ海兵隊員、母は沖縄人。翁長(おなが)前知事の死去を受けて後任として当選した。翁長前知事は元は自民党であったが、知事就任以降は自民党を離れた人だが、玉城氏は生粋の非自民である。もう一つ言うなら「非米」でもある。

母は父親が海兵隊除隊後にアメリカに帰る際、一緒に行かなかった。その事情は知る由もないが、デニー氏は母のいる沖縄に愛着を持ち続けているようだ。思うに「ぬちどぅたから党」だろう。非戦・不戦を貫く根本理念だ。

いっそのこと沖縄独立ではなく沖縄の永世中立を宣言したらよいと思う。非核宣言都市というのがあるのだから、永世中立宣言県というのがあってもよい。そうしたら米軍の存在は不用になる。米軍の基地問題はすべて解決するだろう。

ただし口を開けば「アメリカとのより一層強固な同盟関係を」と言う日本政府が許さないし、他県からはそのツケが回って来るのでいちゃもんを付けられるだろうが・・・。