※この巻頭言は2007年3月発行の大隅史談会誌「大隅」(第50号)に掲載されたものである(執筆者は当時の会長・松下高明)。
平成18年秋に退陣した小泉純一郎首相の靖国神社参拝に対して、中国共産党政府は「歴史認識上の問題があり、すぐにやめるべきだ」と譴責するのがつねであった。
彼らの歴史認識は、A級戦犯という中国を侵略し人民を蹂躙した日本軍の首謀者を祭ってある施設を、日本を代表する者が参拝するのは中国に対して非礼である、というものだ。
ところが、戦前・戦中を通して日本軍が戦った相手は蒋介石率いる国民党であって、各地の軍閥や当時は赤匪(せきひ)と呼ばれた共産党ではなかった。現在の共産党政府は戦後の国民党との内戦で勝利を収めた毛沢東政権の後裔であって、その当時の日本とは全く関係のない凄惨な権力闘争の果てに呱呱の声を上げている。
戦時中の日本軍との関わりにさかのぼって言えば、むしろ毛沢東の共産党は日本軍と国民党軍とを戦わせて消耗させ、自らは勢力を温存すべく地方に「疎開」し、虎視眈々と漁夫の利を狙うことさえできたのである。
その一方でアメリカは国民党に肩入れしていた。蒋介石が共産勢力ではないことと、これ以上日本が中国に関わり、万が一にでも日中が手を携えるようなことがあってはならぬ、との思惑からである。
この思惑の根底に〈黄禍論〉があることはあまり知られていない。黄色人種が白色人種の地球規模の植民地分割支配に割って入る、あるいはその支配から独立しようとすることを彼らの白人優位という人種差別観がそれらをかたくなに拒んでいたからだ。
これに果然として挑んだのが日本で、その証拠が(第一次世界大戦後の)パリ講和会議における日本の主張であった。
全権大使は西園寺公望、副使は英語の堪能な牧野伸顕(大久保利通の二男)で、本会議で堂々と「人種差別はもう撤廃しようではないか」と訴えて会議の採決にかけた。すると、何と賛成が反対を大幅に上回った。
驚いたのが議長をしていたアメリカ大統領ウィルソンで、彼は他の議案についてはほとんどを賛成多数で採択しながら、日本のこの議案については「全会一致でなければならぬ」と強弁し、採択から外してしまったのだ。しかもその後の抗議には耳を貸さずに議場から去り、早々に帰国してしまったのである。
何という傲慢さであろうか。この講和会議の後、アメリカは日本を完全に敵国とみなし始めた。この後、ワシントン軍縮会議、ロンドン軍縮会議などが開かれるが、明らかに日本の脅威の封じ込めを図っている。
パリ講和会議から21年後、日米(英仏蘭)は戦い、日本は敗れた。しかし人種差別的な植民地支配の桎梏は音を立てて崩れていった。
極東においてひとり日本のみが独立を維持し、欧米の白人優位の植民地支配に拮抗して立ち上がることができた。その結果、アジア・アフリカの解放を促したことは世界史的にいや人類史的に見て明らかなことである。
日本軍の残虐ということが戦後はよく言われるが、千人の兵士の中には一人か二人の乱暴者もいただろう。だがそれは実は日常生活における割合と変わらないのだ。
戦勝国側のプロパガンダに乗ってはなるまい。歴史を学ぶ者として先入主の色眼鏡を外し、勝ち負けを超えて冷静に過去を振り返る姿勢が必要だ。
ところで中国共産党政府はいつまで南京大虐殺30万人などと見え透いた嘘をついているのだろうか。許しがたいことである。
以上が私の執筆した「巻頭言」で、同誌発刊の2007年3月25日より2週間くらい前には書き終えていたと思う。
上の赤い部分はヘンリー・ストークスの「日本人は欧米の植民地支配を打破するという仕事をした。大いに誇りに思うべきだ」(要旨)に呼応する部分である。
ストークスが最も言いたいことは、このことともう一つ極東軍事法廷(東京裁判)という名の「戦勝国史観」に囚われてはならないということで、この裁判を象徴とした「戦勝国(アメリカ)はすべて正しく、戦敗国(日本)はすべて間違っていた」とする考え方は誤りだということである。