「史話の会」2月例会を開く。
「魏志倭人伝」を読み終わり、今回から『邪馬台国真論』第2部に掲載の「韓伝」の解読に入るのだが、その前に第1部のおさらいをした。
邪馬台国論の肝中の肝は邪馬台国の位置であるが、実は伊都国の位置が確定されなければ邪馬台国の所在地は決まらないのである。伊都国は第二の肝と言ってよい。
この伊都国は普通の論者は「いとこく」と読む。そして福岡県の糸島市(合併前は前原町と志摩町であった)をその比定地としている。だが、自分は「いつこく」と読み、佐賀県の松浦川上流部にある「厳木町」を比定地とする。
それが確かかどうか、倭人伝の邪馬台国への行程記事で追ってみよう。以下の資料は2月例会で配布したものである。行程記事のうち水行千里とか距離表記および所要日数表記のある部分だけを抽出してある(下線を引いた部分)。
(資料のタイトル)【一時間でわかる邪馬台国・投馬国・伊都国】
(副題)ー倭人伝における邪馬台国jへの行程記事―
倭人は帯方の東南海の中に在り、山島に拠りて国邑を為す。旧(もと)、百余国。
漢の時、朝見する者あり。今、使訳の通ずる所は三十国。
郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓国を経て、南し、東しながら、その北岸、狗邪韓国に到る、7千余里(1)。
はじめて一海を渡ること千余里(2)、対馬国に至る。・・・(以下省略)
また南へ一海を渡ること千余里(3)、名付けて瀚海といい、一大国(壱岐国)に至る。・・・(以下省略)
また一海を渡ること千余里(4)、末盧国に至る。・・・草木の茂るや盛んにして、行くに前人を見ず。・・・(以下省略)
東南陸行5百里(5)にして伊都国に到る。・・・千余戸あり。世に王あるも、みな女王国に統属す。郡使の往来するに、常に駐まる所なり。
東南、奴国に至る百里(6)・・・二万余戸あり。
東、不彌国に至る、百里(7)・・・千余家あり。
南、投馬国に至る、水行20日(8)。官を彌彌(みみ)といい、副を彌彌那利(みみなり)という。五万戸あるべし。
南、邪馬台国、女王の都する所に至る。水行10日、陸行1月(9)。・・・七万戸余りなるべし。(以下に女王国連盟傘下の21か国が斯馬国(しまこく)から始まって全部紹介されているが省略。21か国目は連盟の最南部の奴国で、この奴国は伊都国から東南陸行百里の奴国とは別の国である。)
其の南に狗奴国あり。男子(卑弥弓呼=ひこみこ)を王と為す。その官に狗古智卑狗(きくちひこ)あり。女王には属さず。
郡より女王国に至る、万二千余里(10)。
【 邪馬台国の位置 】
行程記事では、距離表記および所要日数表記は(1)から(10)まであるのだが、まずは距離表記に注目したい。
距離表記は水行(航海)では(1)、(2)、(3)、(4)の4か所。陸行(徒歩)では(5)、(6)、(7)の3か所。そして最後の(10)は帯方郡から邪馬台国の総距離表記で1万2千里(「余」は省略する。以下同じ)とある。
これにより帯方郡から邪馬台国までの総距離表記1万2千里は、帯方郡から水行して九州北岸の末盧国までの合計距離表記すなわち7千+1千+1千+1千=1万里(水行部分)及び末盧国に上陸してからの陸行部分5百里+百里+百里=7百里をあと1千3百里上回ることがわかる。
つまり邪馬台国は帯方郡から水行1万里して末盧国に上陸したら、あとは東南方向に徒歩で7百里行った所にある不彌国からさらに徒歩で1千3百里の場所にあるこということである。これで邪馬台国は九州島の内部にしか存在せず、畿内大和説は全く成り立たないことになる。
もう一つ悩ましい表記が「所要日数表記」である。この表記は下線部の(8)と(9)にある。
多くの論者は(8)を不彌国からの表記と考え、投馬国を「不彌国から南へ水行20日」と捉える。まず畿内大和説はこの中の「南」を「東」に置き換えてしまうので論外である。
九州説の論者でも不彌国の位置を九州北岸に比定しているので、そこから「南へ水行20日」と捉えるから、かの宮崎康平すら福岡県宇美町に比定した不彌国から南に「かつては運河があったから、それを南へ有明海に抜けた。それが水行20日なのだ」などと在りもしなかった運河を想像するという「我田引水」を地で行くような見解に陥ってしまった。
また遠賀川を南に船を走らせるという見解の論者も多い。遠賀川を20日も船行したら英彦山という1000mもの山に登る他ないではないか。
そこで帯方郡から末盧国までの水行1万里に戻って考えてみよう。
ここの水行では帯方郡から半島南部の狗邪韓国(今日の金海市。かつての金官伽耶)まではいわゆる「沿岸航法」で陸地を左手に見ながらの航海で、その距離表記は7千里。
狗邪韓国からは朝鮮(対馬)海峡を渡ることになる。金海(狗邪韓国)~対馬~壱岐~唐津(末盧国)のコースで、各地点間はすべて距離表記で同じ千里とある。
ところがこの三地点間の実距離はそれぞれ全く違い、金海~対馬間を100とすると、対馬~壱岐間は70、壱岐~唐津間は50くらいの比率でしかない。この全く違う実距離を同じ千里で表したとはどういうことだろうか?
「沿岸航法」で航海した場合、天候の悪化や漕ぎ手の体調悪化があった場合、すぐに航路を短縮して岸に着けることができるが、海峡を渡っている最中ではそうは行かない。
このことに気付くと、三地点間の距離表記がすべて同じ千里なのは、所要日数が同じということで、その所要日数とは一日だと分かる。なぜなら海峡を渡る途中で船を「停泊」させるわけにはいかないからである。つまり一日のうちに(日のあるうちに)渡り切ってしまわなければならないのである。
これを「海峡渡海所要日数一日説」と名付けてもいいが、ここから「水行千里は所要日数が一日」と導き出される。すなわち三海峡(3千里)の渡海所要日数は合計で3日。そしてこれをその前の帯方郡から狗邪韓国間の7千里に援用すれば、その間の所要日数は7日となり、7日プラス3日の10日が、帯方郡から末盧国(唐津)までの所要日数ということになる。
これによって(10)の「郡より女王国まで1万2千里」のうちの1万里が「帯方郡から末盧国までの距離表記合計1万里」であり、その水行による所要日数は10日とでる。
そうなると(9)の「南、邪馬台国、女王の都する所に至る、水行10日、陸行1月」に書かれた「水行10日」がこれに該当することが分かる。そう、すなわち、(9)と(10)は全くの同値なのである。記事の頭の「南」の前に(10)と同様「郡より」を入れてしかるべきところである。
帯方郡から唐津までの水行距離表記の1万里は、所要日数表記では10日と解明できたが、それでは残りの距離表記は2千里しかないが、それを陸行で1か月もかかるのは解せないかもしれない。
しかし陸行(徒歩)は水行(航海)と違いけた違いに時間がかかる。一般的に言って徒歩では4キロ歩くのに1時間かかる。ところが船は漕ぎ手の力量にもよるが、起伏も何もない平らな水面を走るわけで、おそらく時速20キロくらいは出る。単純に比較すると、陸行は水行の5分の1程度の速度であり、かつ雨天は避けるであろうからさらに時間がかかるだろう。
以上から邪馬台国は唐津市から東南に松浦川を遡行し、厳木町に比定できる「伊都国」(私は「いつ国」と読む)を過ぎて佐賀平野の西部に位置する「奴国」と「不彌国」までの7百里のあと二倍ほどの距離にあるとしてよい。私はそこを八女市と比定した。
(※八女邪馬台国へは佐賀平野西部の奴国・不彌国から佐賀市の北部を通り(当時佐賀市はまだ干潟の中であった)、東へ東へと歩き、途中で著名な「吉野ケ里遺跡」を通過する。ここは女王国連盟21か国の中の「華奴蘇奴(かなさな)国」(神崎国)であった可能性が高い。卑弥呼の時代(200年代前半)はすでに衰退していたと思われる。その後さらに東へ歩いて筑後川を渡り、南下すれば久留米を経て筑後八女の女王国に至る。)
【 投馬国の位置 】
投馬国への行程に関しては(8)に「南、投馬国に至る、水行20日」しかない。
多くの論者はすぐ前には不彌国の記事があるものだから、その不彌国から南へ水行20日の所だ、と思い込むがそれは誤りである。
その理由は邪馬台国の(9)の解釈と同じなのだが、この点に関して正月元旦のNHK特別番組で邪馬台国論争が放映された時に、ある出演者(女性の考古学者だった)が、「邪馬台国への行程記事では距離で出ているところに、今度は日数で出ていたりしています。混ざっているのは何か意味があるのではないか」というような見解を述べていたが、そこまで気付いておきながらあと一歩の気付きが不足していたのである。
要するに(9)と(10)が同値内容だということに気付けばよい。投馬国もこれと同じで、距離表記の中に急に日数表記が出て来るのは、距離表記の流れと同列に考えてはいけないということである。
私は先にも触れたが、距離表記と所要日数表記の混在を首をかしげて考えているうちに、「海峡渡海は一日で済まさねばならない」ということに気付き、「水行千里=所要日数1日」ということに辿り着いたのである。そうしたらするすると解釈が進んで行った。
邪馬台国はその考えのもとで、唐津から東南へ1か月歩いた所「八女市」に辿り着いた。これに対して「水行20日」の投馬国は帯方郡から唐津までの水行1万里(所要日数10日)に、さらに水行10日、合計20日で行けるところと考えられ、九州北岸から西海岸を回って10日ほどで辿り着ける南九州と比定できたのである。
戸数が5万戸とは単独の国としては抜群に多い戸数である。このことを考えると、南九州全域(三国分立前の古日向)であれば問題はない。しかも官の名が彌彌(みみ)であり、副官が彌彌那利(みみなり)という他に読みようがない官名(王名)と同じ「タギシミミ」「キスミミ」がそこで生まれたと記紀に記載されており、投馬国が古日向であることの証左にもなっている。
【 伊都国の位置 】
伊都国に関しては「伊都国問題」としたいところだ。
伊都国を通常「いとこく」と読んで、福岡県糸島市に比定するのだが、ここは
①末盧国が唐津であれば、唐津から糸島市への方角は東北であって東南ではないこと。
②糸島はかつて郡制の時代はたしかに怡土(いと)郡ではあったが、それよりもはるかに古い筑前国風土記の時代や仲哀天皇の時代は「伊蘇国」「五十国」(どちらも「いそこく」)であった。それがいつの間にか「いとこく」とされたとあり、邪馬台国時代はもちろん「いそこく」の方であったこと。
③伊都国が糸島市なら壱岐国から末盧国(唐津市)に船を着けず、直接糸島へ船を回せばよい。何も唐津で下船して海岸伝いの隘路を歩いて糸島へ向かう必要は全くないこと。
以上の三点から伊都国糸島説は完全に否定される。この糸島には豪華絢爛たる副葬品を持った弥生王墓群があるので「ここで決まり」とされやすいのだが、これらの王墓群は卑弥呼の時代より100年以上前のものである。
筑前風土記と仲哀天皇紀からここは「五十(いそ)王国」があったとしてよい。その王は「五十迹手(いそとて)」(五十の王)であり、この人の祖先は半島の「意呂(おろ)山」に天下ったとされ、崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号に共通の「五十(いそ)」からして同族だろう。
これはこれで糸島特有の半島との交流史が垣間見られるのだが、とにかく糸島市が「伊都国」では有り得ない。糸島市には「伊都国歴史博物館」という立派な施設が造られてしまっているが、あれは「五十(いそ)国歴史博物館」とし、弥生王墓群と五十迹手の同族である崇神天皇の王権を考察する施設にしてほしいものである。
因みに、旧前原町に鎮座する「高祖神社」の主祭神は「高磯姫」であり、「磯(いそ)」の名を今に残している。
伊都国を「いとこく」と読み、同音から糸島に比定されて以来、邪馬台国の比定地は混迷を極め、江戸の昔からもう200年以上も論争が続いている原因がここにあり、もう論争は終わりにしたい。
では私見の「伊都国」であるが、私はこれを「いつこく」と読む。「都」を「つ」と読むのは日本の古典に多い読みであり、無理な読みではない。
唐津市の末盧国から東南陸行500里とは、東南から流れ下っている松浦川沿いの道を遡って歩くということである。上流部の盆地に「厳木(きうらぎ)町」があるが、私はここを「いつき」と読む。「厳」を「いつ」と読むのは「厳島神社」の例がある。
したがって伊都国は「いつ国」であり、その比定地を「厳木町」とする。「いつき」と読めば「伊都城」となり、王城の地を思わせる名称となる。戸数が千戸というのも、この地にふさわしい数だ。
(※以上が拙著『邪馬台国真論』第1部「倭人伝」における邪馬台国・投馬国・伊都国論のまとめ。)
【最後に狗奴国の位置について】
狗奴国の位置については行程記事のうちに距離表記も所要日数表記もない。あるのは上の倭人伝抽出記事の中の番号を振っていない下線部「其の南に狗奴国あり」という箇所だけである。
この下線部で注目しなければならないのが、「其の南」と「其の」が付いていることである。この「其の」は当然直前に書かれている「奴国(この奴国は女王国連盟21か国のうち極南界=最南部の奴国であり、佐賀平野の最西部にある奴国とは別国)の南」と限定される。私はこの最南部の奴国を現在の玉名市に比定するので、「其の南」とは菊池川を境にしてその南側ということになり、したがって狗奴国とは菊池川以南の熊本県の領域であると結論付けられるのである。
※下線部分の(8)にしろ(9)にしろ、「南」の前に「其の」が付いていないことも、投馬国・邪馬台国の行程が直前の文言に続けて解釈してはならないないことを示している。
続いて、これから読んでいく第2部「韓伝」の紹介をした。
『魏書東夷伝』は「夫余」「高句麗」「濊(ワイ)」「東沃沮(ヨクソ)」「挹婁(ユウロウ)」「韓」「倭人」の各条からなり、そのうちの「魏志韓伝」は今の南朝鮮に存在した「馬韓」「弁韓」「辰韓」の三国の様子を記した貴重なものである。
「倭人伝」のみならず「韓伝」まで視野に入れておきたい。当時の半島情勢を捉えないと、倭人の姿も明瞭に浮かび上がらないという意味で、非常に価値ある学習になるだろう。
「魏志倭人伝」を読み終わり、今回から『邪馬台国真論』第2部に掲載の「韓伝」の解読に入るのだが、その前に第1部のおさらいをした。
邪馬台国論の肝中の肝は邪馬台国の位置であるが、実は伊都国の位置が確定されなければ邪馬台国の所在地は決まらないのである。伊都国は第二の肝と言ってよい。
この伊都国は普通の論者は「いとこく」と読む。そして福岡県の糸島市(合併前は前原町と志摩町であった)をその比定地としている。だが、自分は「いつこく」と読み、佐賀県の松浦川上流部にある「厳木町」を比定地とする。
それが確かかどうか、倭人伝の邪馬台国への行程記事で追ってみよう。以下の資料は2月例会で配布したものである。行程記事のうち水行千里とか距離表記および所要日数表記のある部分だけを抽出してある(下線を引いた部分)。
(資料のタイトル)【一時間でわかる邪馬台国・投馬国・伊都国】
(副題)ー倭人伝における邪馬台国jへの行程記事―
倭人は帯方の東南海の中に在り、山島に拠りて国邑を為す。旧(もと)、百余国。
漢の時、朝見する者あり。今、使訳の通ずる所は三十国。
郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓国を経て、南し、東しながら、その北岸、狗邪韓国に到る、7千余里(1)。
はじめて一海を渡ること千余里(2)、対馬国に至る。・・・(以下省略)
また南へ一海を渡ること千余里(3)、名付けて瀚海といい、一大国(壱岐国)に至る。・・・(以下省略)
また一海を渡ること千余里(4)、末盧国に至る。・・・草木の茂るや盛んにして、行くに前人を見ず。・・・(以下省略)
東南陸行5百里(5)にして伊都国に到る。・・・千余戸あり。世に王あるも、みな女王国に統属す。郡使の往来するに、常に駐まる所なり。
東南、奴国に至る百里(6)・・・二万余戸あり。
東、不彌国に至る、百里(7)・・・千余家あり。
南、投馬国に至る、水行20日(8)。官を彌彌(みみ)といい、副を彌彌那利(みみなり)という。五万戸あるべし。
南、邪馬台国、女王の都する所に至る。水行10日、陸行1月(9)。・・・七万戸余りなるべし。(以下に女王国連盟傘下の21か国が斯馬国(しまこく)から始まって全部紹介されているが省略。21か国目は連盟の最南部の奴国で、この奴国は伊都国から東南陸行百里の奴国とは別の国である。)
其の南に狗奴国あり。男子(卑弥弓呼=ひこみこ)を王と為す。その官に狗古智卑狗(きくちひこ)あり。女王には属さず。
郡より女王国に至る、万二千余里(10)。
【 邪馬台国の位置 】
行程記事では、距離表記および所要日数表記は(1)から(10)まであるのだが、まずは距離表記に注目したい。
距離表記は水行(航海)では(1)、(2)、(3)、(4)の4か所。陸行(徒歩)では(5)、(6)、(7)の3か所。そして最後の(10)は帯方郡から邪馬台国の総距離表記で1万2千里(「余」は省略する。以下同じ)とある。
これにより帯方郡から邪馬台国までの総距離表記1万2千里は、帯方郡から水行して九州北岸の末盧国までの合計距離表記すなわち7千+1千+1千+1千=1万里(水行部分)及び末盧国に上陸してからの陸行部分5百里+百里+百里=7百里をあと1千3百里上回ることがわかる。
つまり邪馬台国は帯方郡から水行1万里して末盧国に上陸したら、あとは東南方向に徒歩で7百里行った所にある不彌国からさらに徒歩で1千3百里の場所にあるこということである。これで邪馬台国は九州島の内部にしか存在せず、畿内大和説は全く成り立たないことになる。
もう一つ悩ましい表記が「所要日数表記」である。この表記は下線部の(8)と(9)にある。
多くの論者は(8)を不彌国からの表記と考え、投馬国を「不彌国から南へ水行20日」と捉える。まず畿内大和説はこの中の「南」を「東」に置き換えてしまうので論外である。
九州説の論者でも不彌国の位置を九州北岸に比定しているので、そこから「南へ水行20日」と捉えるから、かの宮崎康平すら福岡県宇美町に比定した不彌国から南に「かつては運河があったから、それを南へ有明海に抜けた。それが水行20日なのだ」などと在りもしなかった運河を想像するという「我田引水」を地で行くような見解に陥ってしまった。
また遠賀川を南に船を走らせるという見解の論者も多い。遠賀川を20日も船行したら英彦山という1000mもの山に登る他ないではないか。
そこで帯方郡から末盧国までの水行1万里に戻って考えてみよう。
ここの水行では帯方郡から半島南部の狗邪韓国(今日の金海市。かつての金官伽耶)まではいわゆる「沿岸航法」で陸地を左手に見ながらの航海で、その距離表記は7千里。
狗邪韓国からは朝鮮(対馬)海峡を渡ることになる。金海(狗邪韓国)~対馬~壱岐~唐津(末盧国)のコースで、各地点間はすべて距離表記で同じ千里とある。
ところがこの三地点間の実距離はそれぞれ全く違い、金海~対馬間を100とすると、対馬~壱岐間は70、壱岐~唐津間は50くらいの比率でしかない。この全く違う実距離を同じ千里で表したとはどういうことだろうか?
「沿岸航法」で航海した場合、天候の悪化や漕ぎ手の体調悪化があった場合、すぐに航路を短縮して岸に着けることができるが、海峡を渡っている最中ではそうは行かない。
このことに気付くと、三地点間の距離表記がすべて同じ千里なのは、所要日数が同じということで、その所要日数とは一日だと分かる。なぜなら海峡を渡る途中で船を「停泊」させるわけにはいかないからである。つまり一日のうちに(日のあるうちに)渡り切ってしまわなければならないのである。
これを「海峡渡海所要日数一日説」と名付けてもいいが、ここから「水行千里は所要日数が一日」と導き出される。すなわち三海峡(3千里)の渡海所要日数は合計で3日。そしてこれをその前の帯方郡から狗邪韓国間の7千里に援用すれば、その間の所要日数は7日となり、7日プラス3日の10日が、帯方郡から末盧国(唐津)までの所要日数ということになる。
これによって(10)の「郡より女王国まで1万2千里」のうちの1万里が「帯方郡から末盧国までの距離表記合計1万里」であり、その水行による所要日数は10日とでる。
そうなると(9)の「南、邪馬台国、女王の都する所に至る、水行10日、陸行1月」に書かれた「水行10日」がこれに該当することが分かる。そう、すなわち、(9)と(10)は全くの同値なのである。記事の頭の「南」の前に(10)と同様「郡より」を入れてしかるべきところである。
帯方郡から唐津までの水行距離表記の1万里は、所要日数表記では10日と解明できたが、それでは残りの距離表記は2千里しかないが、それを陸行で1か月もかかるのは解せないかもしれない。
しかし陸行(徒歩)は水行(航海)と違いけた違いに時間がかかる。一般的に言って徒歩では4キロ歩くのに1時間かかる。ところが船は漕ぎ手の力量にもよるが、起伏も何もない平らな水面を走るわけで、おそらく時速20キロくらいは出る。単純に比較すると、陸行は水行の5分の1程度の速度であり、かつ雨天は避けるであろうからさらに時間がかかるだろう。
以上から邪馬台国は唐津市から東南に松浦川を遡行し、厳木町に比定できる「伊都国」(私は「いつ国」と読む)を過ぎて佐賀平野の西部に位置する「奴国」と「不彌国」までの7百里のあと二倍ほどの距離にあるとしてよい。私はそこを八女市と比定した。
(※八女邪馬台国へは佐賀平野西部の奴国・不彌国から佐賀市の北部を通り(当時佐賀市はまだ干潟の中であった)、東へ東へと歩き、途中で著名な「吉野ケ里遺跡」を通過する。ここは女王国連盟21か国の中の「華奴蘇奴(かなさな)国」(神崎国)であった可能性が高い。卑弥呼の時代(200年代前半)はすでに衰退していたと思われる。その後さらに東へ歩いて筑後川を渡り、南下すれば久留米を経て筑後八女の女王国に至る。)
【 投馬国の位置 】
投馬国への行程に関しては(8)に「南、投馬国に至る、水行20日」しかない。
多くの論者はすぐ前には不彌国の記事があるものだから、その不彌国から南へ水行20日の所だ、と思い込むがそれは誤りである。
その理由は邪馬台国の(9)の解釈と同じなのだが、この点に関して正月元旦のNHK特別番組で邪馬台国論争が放映された時に、ある出演者(女性の考古学者だった)が、「邪馬台国への行程記事では距離で出ているところに、今度は日数で出ていたりしています。混ざっているのは何か意味があるのではないか」というような見解を述べていたが、そこまで気付いておきながらあと一歩の気付きが不足していたのである。
要するに(9)と(10)が同値内容だということに気付けばよい。投馬国もこれと同じで、距離表記の中に急に日数表記が出て来るのは、距離表記の流れと同列に考えてはいけないということである。
私は先にも触れたが、距離表記と所要日数表記の混在を首をかしげて考えているうちに、「海峡渡海は一日で済まさねばならない」ということに気付き、「水行千里=所要日数1日」ということに辿り着いたのである。そうしたらするすると解釈が進んで行った。
邪馬台国はその考えのもとで、唐津から東南へ1か月歩いた所「八女市」に辿り着いた。これに対して「水行20日」の投馬国は帯方郡から唐津までの水行1万里(所要日数10日)に、さらに水行10日、合計20日で行けるところと考えられ、九州北岸から西海岸を回って10日ほどで辿り着ける南九州と比定できたのである。
戸数が5万戸とは単独の国としては抜群に多い戸数である。このことを考えると、南九州全域(三国分立前の古日向)であれば問題はない。しかも官の名が彌彌(みみ)であり、副官が彌彌那利(みみなり)という他に読みようがない官名(王名)と同じ「タギシミミ」「キスミミ」がそこで生まれたと記紀に記載されており、投馬国が古日向であることの証左にもなっている。
【 伊都国の位置 】
伊都国に関しては「伊都国問題」としたいところだ。
伊都国を通常「いとこく」と読んで、福岡県糸島市に比定するのだが、ここは
①末盧国が唐津であれば、唐津から糸島市への方角は東北であって東南ではないこと。
②糸島はかつて郡制の時代はたしかに怡土(いと)郡ではあったが、それよりもはるかに古い筑前国風土記の時代や仲哀天皇の時代は「伊蘇国」「五十国」(どちらも「いそこく」)であった。それがいつの間にか「いとこく」とされたとあり、邪馬台国時代はもちろん「いそこく」の方であったこと。
③伊都国が糸島市なら壱岐国から末盧国(唐津市)に船を着けず、直接糸島へ船を回せばよい。何も唐津で下船して海岸伝いの隘路を歩いて糸島へ向かう必要は全くないこと。
以上の三点から伊都国糸島説は完全に否定される。この糸島には豪華絢爛たる副葬品を持った弥生王墓群があるので「ここで決まり」とされやすいのだが、これらの王墓群は卑弥呼の時代より100年以上前のものである。
筑前風土記と仲哀天皇紀からここは「五十(いそ)王国」があったとしてよい。その王は「五十迹手(いそとて)」(五十の王)であり、この人の祖先は半島の「意呂(おろ)山」に天下ったとされ、崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号に共通の「五十(いそ)」からして同族だろう。
これはこれで糸島特有の半島との交流史が垣間見られるのだが、とにかく糸島市が「伊都国」では有り得ない。糸島市には「伊都国歴史博物館」という立派な施設が造られてしまっているが、あれは「五十(いそ)国歴史博物館」とし、弥生王墓群と五十迹手の同族である崇神天皇の王権を考察する施設にしてほしいものである。
因みに、旧前原町に鎮座する「高祖神社」の主祭神は「高磯姫」であり、「磯(いそ)」の名を今に残している。
伊都国を「いとこく」と読み、同音から糸島に比定されて以来、邪馬台国の比定地は混迷を極め、江戸の昔からもう200年以上も論争が続いている原因がここにあり、もう論争は終わりにしたい。
では私見の「伊都国」であるが、私はこれを「いつこく」と読む。「都」を「つ」と読むのは日本の古典に多い読みであり、無理な読みではない。
唐津市の末盧国から東南陸行500里とは、東南から流れ下っている松浦川沿いの道を遡って歩くということである。上流部の盆地に「厳木(きうらぎ)町」があるが、私はここを「いつき」と読む。「厳」を「いつ」と読むのは「厳島神社」の例がある。
したがって伊都国は「いつ国」であり、その比定地を「厳木町」とする。「いつき」と読めば「伊都城」となり、王城の地を思わせる名称となる。戸数が千戸というのも、この地にふさわしい数だ。
(※以上が拙著『邪馬台国真論』第1部「倭人伝」における邪馬台国・投馬国・伊都国論のまとめ。)
【最後に狗奴国の位置について】
狗奴国の位置については行程記事のうちに距離表記も所要日数表記もない。あるのは上の倭人伝抽出記事の中の番号を振っていない下線部「其の南に狗奴国あり」という箇所だけである。
この下線部で注目しなければならないのが、「其の南」と「其の」が付いていることである。この「其の」は当然直前に書かれている「奴国(この奴国は女王国連盟21か国のうち極南界=最南部の奴国であり、佐賀平野の最西部にある奴国とは別国)の南」と限定される。私はこの最南部の奴国を現在の玉名市に比定するので、「其の南」とは菊池川を境にしてその南側ということになり、したがって狗奴国とは菊池川以南の熊本県の領域であると結論付けられるのである。
※下線部分の(8)にしろ(9)にしろ、「南」の前に「其の」が付いていないことも、投馬国・邪馬台国の行程が直前の文言に続けて解釈してはならないないことを示している。
続いて、これから読んでいく第2部「韓伝」の紹介をした。
『魏書東夷伝』は「夫余」「高句麗」「濊(ワイ)」「東沃沮(ヨクソ)」「挹婁(ユウロウ)」「韓」「倭人」の各条からなり、そのうちの「魏志韓伝」は今の南朝鮮に存在した「馬韓」「弁韓」「辰韓」の三国の様子を記した貴重なものである。
「倭人伝」のみならず「韓伝」まで視野に入れておきたい。当時の半島情勢を捉えないと、倭人の姿も明瞭に浮かび上がらないという意味で、非常に価値ある学習になるだろう。