東京五輪組織委員会会長人事は男女8人の理事裁定で、本命の橋本聖子五輪大臣に決まった。
アスリートであり、オリンピック出場回数も断トツであり、政治経験もあり、また全国的にも国際的にも知名度は抜群だ。
誰もが納得する人事ではあるが、ちと待てよと思う点がある。それは森前会長との関係だ。
そもそも橋本氏が政界に入ったのは森氏の慫慂によるところ大なのだ。そのことについては橋本氏自身がみずから「師匠であり、お父さんのような存在」と語っていることでも間違いはない。
そうなると話は手放しでは聞けない。つまり橋本氏は「女性蔑視発言をして辞めさせられた人物」を師と仰ぎ、しかもその後釜に座るというのである。この人選に何のクレームもつかないのはどうしてなんだろう――と訝る女性はいないのか。
ある週刊誌では、橋本氏がかつて冬季オリンピック選手団団長の時に、打ち上げパーティ会場でフィギュアスケートの高橋大輔選手に詰め寄ってキスを強要した(実際にキスをしているところの写真が出ている)ことを取り上げて、セクハラ(パワハラ?)をしているから適任者かどうなのかと書いているが、これに対して森氏を譴責した女性たちはどういう意見を持つのだろうか。
上の二点についてメディアは黙したままだが、これも時勢か。男が上に立つことを好まない女性が増えていることの表れなのだろう。
何しろ今(戦後)の女性は男女同権・男女共学が当たり前で、「勉強では男に負けない」女性がエリート層に入ってきている。その割合が日本の場合、先進国の中でビリに近いなどと常に報道されるから、女性の方も「洗脳」されて、ややヒステリック(トラウマ)になっているきらいがある。
あの森・前会長の発言という種火に、報道によって火吹き竹で息を吹き込まれ、さらに油が注がれたような塩梅になったのには、そういう下地があったのだ。
森氏の発言を、私は決して「女性蔑視だ」とは思っていない。そのような蔑視型の人物が、女性である橋本氏を政界に送り込むだろうか。冷静に考えたら有り得ないだろう。
ところでこの「蔑視」は「別視」と置き換えられるかもしれない。
鹿児島では「男尊女卑だ」「封建的だ」とよく言われるが、確かに女がしゃしゃり出ることは好まれていない。今時はもう過去のものだが、物干しざおに男竿と女竿の明確な区別があったりした。
男女平等観からはこのような点を「差別だ」「封建的だ」と突っ込まれたりするが、そこにはそれ相応の合理性があり、単なる「区別」であることが多い。例えば洗濯では汗臭い男物と女物は区別され、竿に干す時も勢い別々になるのだが、これは差別とは言えまい。
会合などでも男は男同士の付き合いの方が何でも気楽に話せるし、女は女同士の方があけすけにものが言えるだろう。いったんは男同士、女同士で議論をし、その後に両者の代表同士で議論を摺り合わせるのが両性の属性に適っているのではないかと思ったりする。
日本の女性は平等から疎外されている――とは、諸外国、特に男女平等が進んでいるとされる欧米から指摘を受けることだが、私が昨年11月に書いたブログ『エンディングノート』の中で指摘したのが、日本で百年以上続いて発行されている雑誌7種(中央公論・週刊東洋経済・婦人之友・新潮・婦人画報・週刊ダイヤモンド・婦人公論)のうち3種が婦人つまり女性向けの雑誌だったことだ。これを知ったら、かの国の人たちは何と言うだろうか。
「婦人」などという名称からしてそもそも女性差別用語な上に、女性も中央公論や新潮などの中性的な雑誌があるのだからそっちを読めばいいのよ、わざわざ「婦人」向けの雑誌なんか要らないわ――とでもいうのだろうか?
それは違うだろう。女性には女性の知りたい特有な分野への欲求があり、そのための読者がたくさんいるのである。いなければ婦人物の雑誌などとっくに消滅しているだろう。もちろん女性読者の中には中央公論や新潮を読む人たちも多いし、けっして遠ざけられているわけではなく、そこに差別はない。
要するに日本では「文化」においては、一つの例としていま指摘したような「女性向けの雑誌」という別枠の分野が旺盛に存在していることが大きな特徴なのだ。これは女性を蔑視していては成り立たない現象であり、女性を特別視した「別視」の観点から差別問題を捉える必要もあるだろう。
ところで、東京オリンピックは無事に開催されれば、組織委員会会長橋本聖子)・五輪担当大臣(丸川珠代)・主催都市東京都知事(小池百合子)の三者がすべて女性という、おそらくオリンピック史上初の「女三羽烏大会」になる。驚くべきことだ。
辞任させられた森・前組織委員会会長も、政治上の愛弟子である橋本聖子氏がその一翼を担うわけだから、以て瞑すべきだろう。
アスリートであり、オリンピック出場回数も断トツであり、政治経験もあり、また全国的にも国際的にも知名度は抜群だ。
誰もが納得する人事ではあるが、ちと待てよと思う点がある。それは森前会長との関係だ。
そもそも橋本氏が政界に入ったのは森氏の慫慂によるところ大なのだ。そのことについては橋本氏自身がみずから「師匠であり、お父さんのような存在」と語っていることでも間違いはない。
そうなると話は手放しでは聞けない。つまり橋本氏は「女性蔑視発言をして辞めさせられた人物」を師と仰ぎ、しかもその後釜に座るというのである。この人選に何のクレームもつかないのはどうしてなんだろう――と訝る女性はいないのか。
ある週刊誌では、橋本氏がかつて冬季オリンピック選手団団長の時に、打ち上げパーティ会場でフィギュアスケートの高橋大輔選手に詰め寄ってキスを強要した(実際にキスをしているところの写真が出ている)ことを取り上げて、セクハラ(パワハラ?)をしているから適任者かどうなのかと書いているが、これに対して森氏を譴責した女性たちはどういう意見を持つのだろうか。
上の二点についてメディアは黙したままだが、これも時勢か。男が上に立つことを好まない女性が増えていることの表れなのだろう。
何しろ今(戦後)の女性は男女同権・男女共学が当たり前で、「勉強では男に負けない」女性がエリート層に入ってきている。その割合が日本の場合、先進国の中でビリに近いなどと常に報道されるから、女性の方も「洗脳」されて、ややヒステリック(トラウマ)になっているきらいがある。
あの森・前会長の発言という種火に、報道によって火吹き竹で息を吹き込まれ、さらに油が注がれたような塩梅になったのには、そういう下地があったのだ。
森氏の発言を、私は決して「女性蔑視だ」とは思っていない。そのような蔑視型の人物が、女性である橋本氏を政界に送り込むだろうか。冷静に考えたら有り得ないだろう。
ところでこの「蔑視」は「別視」と置き換えられるかもしれない。
鹿児島では「男尊女卑だ」「封建的だ」とよく言われるが、確かに女がしゃしゃり出ることは好まれていない。今時はもう過去のものだが、物干しざおに男竿と女竿の明確な区別があったりした。
男女平等観からはこのような点を「差別だ」「封建的だ」と突っ込まれたりするが、そこにはそれ相応の合理性があり、単なる「区別」であることが多い。例えば洗濯では汗臭い男物と女物は区別され、竿に干す時も勢い別々になるのだが、これは差別とは言えまい。
会合などでも男は男同士の付き合いの方が何でも気楽に話せるし、女は女同士の方があけすけにものが言えるだろう。いったんは男同士、女同士で議論をし、その後に両者の代表同士で議論を摺り合わせるのが両性の属性に適っているのではないかと思ったりする。
日本の女性は平等から疎外されている――とは、諸外国、特に男女平等が進んでいるとされる欧米から指摘を受けることだが、私が昨年11月に書いたブログ『エンディングノート』の中で指摘したのが、日本で百年以上続いて発行されている雑誌7種(中央公論・週刊東洋経済・婦人之友・新潮・婦人画報・週刊ダイヤモンド・婦人公論)のうち3種が婦人つまり女性向けの雑誌だったことだ。これを知ったら、かの国の人たちは何と言うだろうか。
「婦人」などという名称からしてそもそも女性差別用語な上に、女性も中央公論や新潮などの中性的な雑誌があるのだからそっちを読めばいいのよ、わざわざ「婦人」向けの雑誌なんか要らないわ――とでもいうのだろうか?
それは違うだろう。女性には女性の知りたい特有な分野への欲求があり、そのための読者がたくさんいるのである。いなければ婦人物の雑誌などとっくに消滅しているだろう。もちろん女性読者の中には中央公論や新潮を読む人たちも多いし、けっして遠ざけられているわけではなく、そこに差別はない。
要するに日本では「文化」においては、一つの例としていま指摘したような「女性向けの雑誌」という別枠の分野が旺盛に存在していることが大きな特徴なのだ。これは女性を蔑視していては成り立たない現象であり、女性を特別視した「別視」の観点から差別問題を捉える必要もあるだろう。
ところで、東京オリンピックは無事に開催されれば、組織委員会会長橋本聖子)・五輪担当大臣(丸川珠代)・主催都市東京都知事(小池百合子)の三者がすべて女性という、おそらくオリンピック史上初の「女三羽烏大会」になる。驚くべきことだ。
辞任させられた森・前組織委員会会長も、政治上の愛弟子である橋本聖子氏がその一翼を担うわけだから、以て瞑すべきだろう。