森五輪組織委員会会長はついに辞任する羽目になった。
おまけに辞任の意向を固めてから、森氏は日本サッカー協会理事長の川淵三郎氏に後任を託そうとしたのだが、これも「密談によるものだ。公明性がない」として蹴られ、川淵氏の組織委員会会長人事も白紙に戻ってしまった。
森氏の「女性理事が多い会合は時間がかかる」発言に端を発した問題はなかなか根っこが深いようだ。
マスコミではこれが「女性蔑視発言」だと叩くのだが、私は「蔑視」は言い過ぎだと思っている。
「蔑視」とは訓でいえば「さげすむ」ことであり、「これだから(男に比べ)女性はダメなんだ」などと言うことであるが、森氏が日常的に政治の場でそう言ったことがあったのだろうか。自分は聞いたことがない。
今回の「問題発言」を全部聞いてみればわかることだが、森氏は五輪組織委員会内部の女性理事に対してはそんな発言をしてはいない。
一般論として多くの会合において女性の話は長いきらいがある――と言われていることに対して、彼なりのコメントを付したに過ぎないのではないだろうか。
多くの政府主催の委員会などで招致委員は報酬を貰う以上、何も言わなかったら税金(報酬)ドロボー的な人物として「蔑視」されかねないから、何かを言うのだろうが、その内容が必ずしも当該委員会にふさわしくない(的を射ていない)内容であったら、聴く方はうんざりするだろう。
「政府委員の30パーセントは女性で」などという当世のルールに沿うべく事務方は四苦八苦して頭数を集めてやれやれなのだろうが、その道の専門家の招致委員の方こそ「やれやれ」なのが実情ではないか。
森氏はそのあたりのことに「苦言」を呈したのだろう。しかし「理事会では発言を簡単明瞭に時間厳守でやってもらいたい」とでも言えばよいところを、直接に「女性(理事)が多いと」と表現してしまったのは口を滑らせたという他ない。
それでも「蔑視」はいただけない。「その道のプロでもない女性が、学識経験者という肩書で委員(もしくは理事)になるのは、委員会そのものに対する侮辱だ」という憤りが森氏の内心にはあったのかもしれない。
そう言う胸の内を忖度してみると、「プロの会合に素人は入れるな」という職人気質のような気質が垣間見える。つまりプロの世界に素人を入れるというのは、プロを「軽視」していることの表れでもあろう。これに対する「苦言」なのだ。
「女性蔑視」ではないとすると「女性軽視」ということになるのか。「軽視」は日常に比較的ありふれた現象である。
しかし「蔑視」よりも「軽視」よりも怖いのが「無視」である。
人は「蔑視」でも「軽視」でも、とにかくそこに存在していることに気付かれている、あるいは気を掛けられている限りは、自分の立ち位置が了解でき、そのことによって次の行動に移れるのだが、「無視」されてはどうしようもない。
気付かれず、気にも留められなかったら、相手に対する自分の立ち位置が分からず、相手が何をするのかも、自分が何をしたらいいのかも分からない。
これが一番の不安の原因である。
この「無視」の最大の被害者は、実は「子ども」なのだ。
「大人の話に口を出すな」と言われたり、「子どもはあっちへ行け」と排除されたりする。
周りにたくさんの子どもがいる時代はそれでも良かったが、当世の少子化時代、子どもの立ち位置(居場所)は相当に狭められている。
少なくとも子どもとの対話は意識して儲けるようにしないと、子どもの「無視されることへの不安」は大きくなる一方だ。
おまけに辞任の意向を固めてから、森氏は日本サッカー協会理事長の川淵三郎氏に後任を託そうとしたのだが、これも「密談によるものだ。公明性がない」として蹴られ、川淵氏の組織委員会会長人事も白紙に戻ってしまった。
森氏の「女性理事が多い会合は時間がかかる」発言に端を発した問題はなかなか根っこが深いようだ。
マスコミではこれが「女性蔑視発言」だと叩くのだが、私は「蔑視」は言い過ぎだと思っている。
「蔑視」とは訓でいえば「さげすむ」ことであり、「これだから(男に比べ)女性はダメなんだ」などと言うことであるが、森氏が日常的に政治の場でそう言ったことがあったのだろうか。自分は聞いたことがない。
今回の「問題発言」を全部聞いてみればわかることだが、森氏は五輪組織委員会内部の女性理事に対してはそんな発言をしてはいない。
一般論として多くの会合において女性の話は長いきらいがある――と言われていることに対して、彼なりのコメントを付したに過ぎないのではないだろうか。
多くの政府主催の委員会などで招致委員は報酬を貰う以上、何も言わなかったら税金(報酬)ドロボー的な人物として「蔑視」されかねないから、何かを言うのだろうが、その内容が必ずしも当該委員会にふさわしくない(的を射ていない)内容であったら、聴く方はうんざりするだろう。
「政府委員の30パーセントは女性で」などという当世のルールに沿うべく事務方は四苦八苦して頭数を集めてやれやれなのだろうが、その道の専門家の招致委員の方こそ「やれやれ」なのが実情ではないか。
森氏はそのあたりのことに「苦言」を呈したのだろう。しかし「理事会では発言を簡単明瞭に時間厳守でやってもらいたい」とでも言えばよいところを、直接に「女性(理事)が多いと」と表現してしまったのは口を滑らせたという他ない。
それでも「蔑視」はいただけない。「その道のプロでもない女性が、学識経験者という肩書で委員(もしくは理事)になるのは、委員会そのものに対する侮辱だ」という憤りが森氏の内心にはあったのかもしれない。
そう言う胸の内を忖度してみると、「プロの会合に素人は入れるな」という職人気質のような気質が垣間見える。つまりプロの世界に素人を入れるというのは、プロを「軽視」していることの表れでもあろう。これに対する「苦言」なのだ。
「女性蔑視」ではないとすると「女性軽視」ということになるのか。「軽視」は日常に比較的ありふれた現象である。
しかし「蔑視」よりも「軽視」よりも怖いのが「無視」である。
人は「蔑視」でも「軽視」でも、とにかくそこに存在していることに気付かれている、あるいは気を掛けられている限りは、自分の立ち位置が了解でき、そのことによって次の行動に移れるのだが、「無視」されてはどうしようもない。
気付かれず、気にも留められなかったら、相手に対する自分の立ち位置が分からず、相手が何をするのかも、自分が何をしたらいいのかも分からない。
これが一番の不安の原因である。
この「無視」の最大の被害者は、実は「子ども」なのだ。
「大人の話に口を出すな」と言われたり、「子どもはあっちへ行け」と排除されたりする。
周りにたくさんの子どもがいる時代はそれでも良かったが、当世の少子化時代、子どもの立ち位置(居場所)は相当に狭められている。
少なくとも子どもとの対話は意識して儲けるようにしないと、子どもの「無視されることへの不安」は大きくなる一方だ。