鴨着く島

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「自立への不安」とは

2021-07-21 14:52:50 | 母性
先日の南日本新聞の『論点』「社会的養護に医療の支援を」(著者:上薗昭二郎氏)は人としての自立をめぐって、私の肺腑に響くものだった。

氏はこう書いている。

〈私は特に自立に関する不安は、子どもを最大の精神的危機状態に陥らせることがあると感じている。いくら言葉で、「私たちはずっとあなたを見守るよ」と伝えても、得体のしれない不安感が、子どもを襲っているようにみえるのである。〉

〈(中略)自立は、子どもの発達に必要な愛着と基本的信頼感の確立抜きに語ることはできない。愛着は、子どもからの一方的な寄りかかりではなく、大人との相互の関係の中にしかない。それは、「あなたに出会えて良かった」と相互に感じ合えることに他ならない。この関係を抜きにして、穏やかに子どもたちと暮らし、彼らを自立へと導いていくことはできないのである。〉

上薗氏は某「子どもの家」を主宰され、親から虐待されたりしてそこに身を寄せる子どもたちを保護・養護して以上の考え方に到達されたのだが、誠に鋭い指摘と言わなければならない。

同時にまた、一般家庭においても肝に命じなくてはならない親子関係の要諦を示しておられる。

思うに、子どもの自立には3つの段階がある。

肉体的自立、精神的自立、そして社会的自立、である。

①肉体的自立・・・これは母胎から生れ落ちれば、いやおうなしに自立を果たす。それまで10か月間、まさに「同体」だったのが、出産によって母と子に分離する。つまり母子といえども「他人同士」になるわけである。

映画「男はつらいよ」で、寅さんが、寅さんを慕い一緒にテキヤ稼業に連れて行ってくれと頼むのぼるに、「馬鹿を言うな。お前と俺とは所詮他人じゃねえか。例えば、俺が芋を喰ったらお前が屁をするか? しないだろ。それ見ろ、だから俺とお前とは他人だ。とっとと故郷へ帰れ!」と捨て台詞を吐く場面があるが、母と乳飲み子も同じだ。母親が好きな芋をどれだけ食べても、子が芋の屁をすることはない。(※ついこの間久しぶりに鑑賞した「男はつらいよ」第一話の最大の見せ場を思い出してしまった・・・。)

②精神的自立・・・乳飲み子で生まれた子は、当初は乳で、一年ほど経つと離乳食で、そして言葉でも何でも母親や外部からの働きかけで修得し、徐々に行動及び精神領域を広げていく。

人が最も成長して行くのが幼少年期で、この期間の長さは他の哺乳動物をはるかにしのぐ。この間は家庭や近隣、学校などで人間特有の成長を果たし、産み育ての環境から次第に離脱して行く。

③社会的自立・・・これが人としての自立の目標である。社会に出て人との交わりの中で、自分らしさを否定せずに他者ともつながりながら、社会生活に自分の居場所を見つけ出す。必ずしも安穏な居場所ではないかもしれないが、他者に寄り添い、時に寄り添われながら人生軌道を修正しつつ暮らしていけるようになる。

以上が自分の考える3段階の自立だが、上薗氏の預かっている子どもたちは、最後の社会的自立の前に「最大の精神的危機状態」に陥ることが多いようである。①の肉体的自立は生れ落ちる以上、誰でも平等に持つのだが、問題は②の精神的自立が果たせていないケースが多いということである。

両親が不仲で喧嘩が絶えなかったり、ちょっとしたことで殴られたり、罵倒されたり、そういった家庭環境で育った子どもは、よく言われるように「承認の欲求が満たされないので、自己肯定感が弱い」上に、本来なら親から見習うべき礼儀作法なども身に付いていない。

特に自己肯定感は精神的自立へのパスポートである。

「僕(私)のような人間を誰が認めてくれるのか。親でさえ認めてくれなかったんだ・・・」――このような自己否定感情が先に立ち、社会に出て自立など思いもよらないのだ。それが「自立への不安」の中身だろう。たとえ高学歴でも、自己肯定感というパスポートが無ければ、結果として社会的自立は果たせない。


【追記】

以上のように書いて来た私自身も「自立への不安」に苛まされた一人である。

その拠って来るところは、一言でいえば「母親不在」で、母親がいなかったわけでも、長らく病気で入院していたというわけでもない。それどころか十分に元気な人であった。

核家族で子供が四人の6人家族だが、両親ともに教員の共働きだった。(※住み込みの家政婦を雇い、家事などをこなしていたので、正確には7人暮らしである。)

母の勤務先は我が家から歩いて行けるくらい近かったのだが、それでも子供が学校に行くときにはすでに出勤しており、我々兄弟は一度たりと「行ってらっしゃい。忘れ物はないね」と言ってもらったことはなく、また下校して我が家に帰っても「お帰り。おやつがあるよ」などと、これも一度もなかった。

極め付けは、入学式にも卒業式にも参列してもらったことがなかったことだ。母の勤務先の学校は同じ区内にある学校なので、入学式も卒業式も兄弟の通学先と同じ日に行われるからである。(※母が学校の事務職員だったら担任を持たないので、当日、或いは休みが取れたかのもしれないが。)

学校参観にも顔は出さず、午後から雨が降って来たなどという場合でも、校門で傘を持って待っていてくれるなんてこともなかった。

運動会や学芸会も同じ区内の学校では同じ日に行われることが多い。たまたま違う日になったこともあったとは思うが、母を運動場や講堂(当時はホールというような施設はなく講堂で学芸会や各種の式典が行われた)で見たことはなかった。

おしなべて「ないない尽くし」の母子関係であった。そこには寄り添ってくれる母の姿はなかった。教員だから夏休みがあっただろうと言われそうだが、それは大人の考え方で、子どもにとっては毎日の継続的な母子関係こそが精神的には重要なのである。

保護されて養護施設に入る子供たちの多くは、親からの暴力(体罰)や育児放棄による生存への脅威といった「ハードな虐待」が原因だと思うが、我が家の場合は「育児や保護に放棄傾向のあるソフトな虐待」と言えるかもしれない。

こうして育つと、ハードな虐待と同じようにやはり「承認への欲求」が満たされず、「自己肯定感」の薄い性格に陥ってしまう。それによって人生本来の目的である社会的な自立も、阻害されてしまう。これが私の「自立への不安」の大きな要因であった。

四人兄弟のうちの末子である弟は、中学2年の時に「不登校」に陥り、心療内科の診察を受けたりしながら、紆余曲折の末、20歳までに定時制高校を卒業したのだが、「社会的な自立」の前提である「精神的自立」さえ果たすことなく、精神病院で不帰の客となってしまった。

不登校を始めた時に、母が我が家の専業主婦になって弟に寄り添えば、まだ中学生だったわけだから、立ち直りの機会はいくらでも作れたはずで、歴史に「if」は許されぬというが、返す返すも残念であった。私を含む他の兄弟の社会的自立にも、必ずや良い影響を与えたに違いない。

今どきは「母親にばかり責任を押し付けるな」との声が強いのだが、やはり母親は我が子を産んだ以上、寄り添うことが本分である。いかにAI化が進んでも、子産みロボットや子育てロボットはできない。何兆円積んでも母親は作れないし、子どもも生まれないのだ。母親の存在の大きさがこれで分かろうというものだ。

子どもの成長は待ったなし。母親よ子どもに寄り添ってくれ。