私は史論で日向(日向国)を使用する場合は、奈良時代の和銅6(713年)に古代の日向国から大隅国が分立される前までの古代日向国は「古日向」と呼んでいる。
専門用語を使うと、一般的に今日の宮崎県を指して使う日向(日向国)は律令制制定以後の「日向令制国」で、この「日向令制国」には大隅国も薩摩国も含まない。
「日向令制国」という同じ使い方をすると、大隅国は「大隅令制国」であり、薩摩国は「薩摩令制国」となる。
「日向令制国」はほぼ今日の宮崎県であり、「大隅令制国」と「薩摩令制国」はともに今日の鹿児島県である。
「大隅令制国」と「薩摩令制国」とはもともと古代日向国に属していた。そして無論「日向令制国」も古代日向国の内にあった。
つまり「古代日向国=大隅令制国+薩摩令制国+日向令制国」ということである。
ただ、大隅国が古代日向から分離したことは『続日本紀』元明天皇の和銅6(713)年4月3日の条にはっきりと記されているのだが、薩摩国の分離独立については明確な記述はない。
(※薩摩国の独立は多禰国=種子島と同時だったらしいことが、元明天皇和銅2(709)年6月条に両国の国名が記述されているのが確認され、少なくとも大隅国の独立よりは早かったことが分かっている。)
上の等式で示したように、もともとあった古代日向国は今日の宮崎県と鹿児島県を併せ持った広大な国であったのだが、薩摩(令制)国と大隅(令制)国が分離したあとの宮崎県の領域が「日向国」として古代からの日向の名乗りをそのまま継続したため、歴史を学ぶ際に誤解を生んでいるケースが多い。
もっとも誤解を生むのは神話であり、特にその中でも天孫降臨神話が別名「日向神話」と呼ばれる場合である。
この神話に登場する「日向」は宮崎県と鹿児島県を併せた古代の日向であるのだが、律令制制定以後の「日向国」つまり宮崎県の神話と矮小化されてしまうことが多い。これは意外と根強い先入観であり、神話の解釈を複雑にしている。
端的に言うと「日向神話って宮崎県の話なんだ」という誤解である。
ニニギノミコトの天孫降臨の場所が鹿児島県の霧島山だったり、宮崎県の高千穂町だったり、神武天皇の父とされるウガヤフキアエズノミコトの御陵が鹿児島県鹿屋市吾平町の吾平山上陵だったり、宮崎県日南市の鵜戸神宮裏手の吾平山だったり、と鹿児島県と宮崎県で張り合っているようにも見える。
日向神話のニニギノミコト以下3代の生まれた場所も葬られた場所も、両県で何か所もあり、旅行者はもとより研究者も手古摺っている状況である。
しかしいずれにせよこの論争は鹿児島県か宮崎県かの両県に限定されるので、次のような考え方をすれば解決になるだろうと思う。
要するに両県は律令制制定以前は単にまとめて「日向」と称されていたのだが、律令制以降は3か国に分離独立し「日向・大隅・薩摩」となった。この際、新しい生まれた日向(令制)国を「新日向国」と改称すればややこしいことは何も起こらなかったはずだ。
しかし今さら「新日向国」と言うには「日向国」が長く使われ過ぎているので変えるのは至難の業である。そこで私は律令制制定以前の広大な「日向」を「古日向」と称して使うことにした。
この「古日向」とは今日の鹿児島県と宮崎県を併せた領域であるが、実は南九州のこの古日向こそが私の邪馬台国論の中では戸数5万戸の「投馬(つま)国」そのものであった。
『魏志倭人伝』によると、投馬国では王名を「彌彌(ミミ)」といい、女王を「彌彌那利(ミミナリ)」と言ったが、『記紀』によれば古日向生まれの神武の皇子たちがタギシミミといい、キスミミといい、また「神武東征」後の大和で生まれた皇子たちがカムヤイミミと言い、カムヌマカワミミと言ったとある。
投馬国を南九州古日向と比定したら、中国の史書と日本の歴史書の両書で極めて特徴のある王名に一致を見ることになった。これによって南九州古日向に投馬国が実在し、「神武東征説話は嘘ではない」ことの確信を得たのであった。
和銅6(713)年4月3日に古日向は完全に令制国の「日向・薩摩・大隅」の3か国に分割され、時の大和王権に隷属してしまうのだが、古日向時代の南九州の歴史には栄光ただならぬものがあったことも確信できたのである。
専門用語を使うと、一般的に今日の宮崎県を指して使う日向(日向国)は律令制制定以後の「日向令制国」で、この「日向令制国」には大隅国も薩摩国も含まない。
「日向令制国」という同じ使い方をすると、大隅国は「大隅令制国」であり、薩摩国は「薩摩令制国」となる。
「日向令制国」はほぼ今日の宮崎県であり、「大隅令制国」と「薩摩令制国」はともに今日の鹿児島県である。
「大隅令制国」と「薩摩令制国」とはもともと古代日向国に属していた。そして無論「日向令制国」も古代日向国の内にあった。
つまり「古代日向国=大隅令制国+薩摩令制国+日向令制国」ということである。
ただ、大隅国が古代日向から分離したことは『続日本紀』元明天皇の和銅6(713)年4月3日の条にはっきりと記されているのだが、薩摩国の分離独立については明確な記述はない。
(※薩摩国の独立は多禰国=種子島と同時だったらしいことが、元明天皇和銅2(709)年6月条に両国の国名が記述されているのが確認され、少なくとも大隅国の独立よりは早かったことが分かっている。)
上の等式で示したように、もともとあった古代日向国は今日の宮崎県と鹿児島県を併せ持った広大な国であったのだが、薩摩(令制)国と大隅(令制)国が分離したあとの宮崎県の領域が「日向国」として古代からの日向の名乗りをそのまま継続したため、歴史を学ぶ際に誤解を生んでいるケースが多い。
もっとも誤解を生むのは神話であり、特にその中でも天孫降臨神話が別名「日向神話」と呼ばれる場合である。
この神話に登場する「日向」は宮崎県と鹿児島県を併せた古代の日向であるのだが、律令制制定以後の「日向国」つまり宮崎県の神話と矮小化されてしまうことが多い。これは意外と根強い先入観であり、神話の解釈を複雑にしている。
端的に言うと「日向神話って宮崎県の話なんだ」という誤解である。
ニニギノミコトの天孫降臨の場所が鹿児島県の霧島山だったり、宮崎県の高千穂町だったり、神武天皇の父とされるウガヤフキアエズノミコトの御陵が鹿児島県鹿屋市吾平町の吾平山上陵だったり、宮崎県日南市の鵜戸神宮裏手の吾平山だったり、と鹿児島県と宮崎県で張り合っているようにも見える。
日向神話のニニギノミコト以下3代の生まれた場所も葬られた場所も、両県で何か所もあり、旅行者はもとより研究者も手古摺っている状況である。
しかしいずれにせよこの論争は鹿児島県か宮崎県かの両県に限定されるので、次のような考え方をすれば解決になるだろうと思う。
要するに両県は律令制制定以前は単にまとめて「日向」と称されていたのだが、律令制以降は3か国に分離独立し「日向・大隅・薩摩」となった。この際、新しい生まれた日向(令制)国を「新日向国」と改称すればややこしいことは何も起こらなかったはずだ。
しかし今さら「新日向国」と言うには「日向国」が長く使われ過ぎているので変えるのは至難の業である。そこで私は律令制制定以前の広大な「日向」を「古日向」と称して使うことにした。
この「古日向」とは今日の鹿児島県と宮崎県を併せた領域であるが、実は南九州のこの古日向こそが私の邪馬台国論の中では戸数5万戸の「投馬(つま)国」そのものであった。
『魏志倭人伝』によると、投馬国では王名を「彌彌(ミミ)」といい、女王を「彌彌那利(ミミナリ)」と言ったが、『記紀』によれば古日向生まれの神武の皇子たちがタギシミミといい、キスミミといい、また「神武東征」後の大和で生まれた皇子たちがカムヤイミミと言い、カムヌマカワミミと言ったとある。
投馬国を南九州古日向と比定したら、中国の史書と日本の歴史書の両書で極めて特徴のある王名に一致を見ることになった。これによって南九州古日向に投馬国が実在し、「神武東征説話は嘘ではない」ことの確信を得たのであった。
和銅6(713)年4月3日に古日向は完全に令制国の「日向・薩摩・大隅」の3か国に分割され、時の大和王権に隷属してしまうのだが、古日向時代の南九州の歴史には栄光ただならぬものがあったことも確信できたのである。
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