【吉備の児島と吉備海部直(あまべのあたい)】
ブログ「記紀点描㉚」では、敏達天皇の12年(583年)に百済の最高級官僚であった達率の日羅(にちら)を招こうとして「吉備海部直羽嶋(きびのあまべのあたい・はしま)」を派遣したことを書いたが、吉備は5世紀後半に「造山古墳」という全長が350メートルもあるような巨大古墳(全国で第4位の規模)を作るほどの大国であった。
吉備(のちの岡山県全域と広島県の東部)には東から吉井川、旭川、高梁川、芦田川という大きな川が、おおむね北から南に向かって流れており、水田の開発に適した地域である。
この吉備の記紀における初出は、古事記のいわゆる国生み神話で、「吉備児島」として登場する。そしてこの児島の古名を「建日方別(たけひかたわけ)」といった。
「建日別」とは筑紫(九州島)の4国のうち「熊曽国」の別名(古名)であったから、単純に演繹すれば「建日方別」とは「建日別」の「方分け」要するに「片割れ」であったことになる。
こんなことが有り得るだろうか?
私見では「神武東征」すなわち「南九州(クマソ国)に所在した投馬国の王タギシミミの東遷」は史実であったとしており、瀬戸内海を東へ移動した先に辿り着き、8年を過ごした吉備児島(当時は本当の島だった)を南九州(クマソ国)の片割れ(方別)とみなして名付けられたのが「建日方別」であって何ら齟齬はない。
この吉備児島は当然ながら海上に浮かぶ島であったから、住民は海民と言ってよく、「吉備海部直羽嶋(きびのあまべのあたい・はしま)」は吉備児島を領有した航海系の首長であったに違いない。
吉備海部直家からは羽嶋のほかにも難波や赤尾など、航海に習熟した首長がその役割を果たしている。
吉備海部直の一族、もしくは先祖の墓と思われる古墳が、児島半島の尾根筋に残されている。また吉井川の河口付近の牛窓地域には、天神山・鹿歩山・二塚山の古墳群があり、これも一族のものだろう。
吉備国は平野部では豊かな実りがあり、北部の山間地帯から産出される砂鉄による製鉄があり、さらにこの吉備海部直の航海(海運)業によって経済状況は全国でも屈指であったと思われる。
【吉備国豪族の系譜】
日本書紀では、最初に登場する吉備は第7代孝霊天皇の時で、天皇の妃ハエイロドの子として産まれた稚武彦(ワカタケヒコ)が、吉備臣の始祖であるという。(※一方、古事記ではその前の第6代孝安天皇の二皇子のひとりに「大吉備諸進(おおきびもろすす)命」が生まれていると書かれるが、この皇子の経歴については不明である。)
その後、第10代崇神天皇の時代になり、全国平定の武将として派遣されたいわ四道将軍の中に「吉備津彦」があらわれる。吉備津彦はいましがた述べた孝霊天皇時代に、天皇の子として生まれた「五十狭芹彦(いそさせりひこ)命」の別名であるが、西道(西海道)に派遣されている。
稚武彦(ワカタケヒコ)も五十狭芹彦(いそさせりひこ)も、私見では筑紫(九州島)に縁があり、前者は「武(たけ)」を持つことから南九州クマソ(建日別)とは近縁であり、後者は「五十(いそ)」を持つことから北部九州糸島郡(五十王国)との近縁である。
そのために西道(西海道)に派遣されたのだろう。
(※古事記によるとワカタケヒコ(若建吉備津彦)は下道臣・笠臣(備中)の祖で、吉備津彦(大吉備津彦)は上道臣(備前)の祖であるとされる。そして二人のキビツヒコが共に「吉備を言向け和した」と書くが、ワカタケヒコが最初に吉備を統治していた中に、あとから大吉備津彦が備前の方を分割統治した可能性が高い。)
この次はぐっと飛んで、応神天皇時代となるが、応神天皇の妃の一人に「兄媛(エヒメ)」がいたが、この人は吉備の出身であった(割注によると吉備の御友別の妹)。
このヒメが難波から海を眺め、ため息をついた。天皇がそのわけを聞くと、「父母が懐かしいので、ふるさとの吉備に帰りたい」とのこと。天皇は「嫁に来て何年も経つが、そういえば吉備には一度も帰らなかったな」と、帰省を許した(応神天皇22年3~4月条)。
諸天皇に関する記事で、嫁(皇后・妃)がホームシックに罹り、そのため天皇が実家に帰ることを許すなどという記事はここのほかに無い。それだけ稀有なことなのだろうが、この記事が堂々と載せられたのは、いかに吉備の勢力が強かったかを示唆する意味があるようだ。
同じ年の9月、応神天皇は淡路島に狩に出かけたが、その際に吉備に立ち寄ったという。ここで天皇が吉備の実家に帰った兄媛(エヒメ)を見舞う(?)かと思いきや、エヒメの兄の御友別(みともわけ)が饗応しただけで、肝心のエヒメの姿は現れないのだ。
では天皇はどうしたかというと、吉備を御友別の子供たちに分割支配させるようにしたのである。
吉備を六つの領域に分けて治めさせたと書く。それぞれの領有地によって下道臣、上道臣、香屋臣、三野臣、笠臣、苑臣という名の豪族の始祖になったという。そして、最後に何とエヒメが登場し、織部(はたおりべ)が授けられたのであった。
エヒメの吉備への里帰りが、結局、応神天皇の吉備分割政策につながるという記事なのだが、この分割政策に対して吉備側は抵抗をしていない。エヒメが実家に帰ることができたことを悦べばこそなのか、それとも実家に逃げ帰った嫁の実家が、かたじけないから天皇の思し召しのままにということなのか、分割統治になんら異議を唱えなかった理由は一体何なのか?
そのヒントが笠臣の始祖になった御友別の弟の「鴨別」の存在にあった。
鴨別(かもわけ)は実は神功皇后が夫の仲哀天皇が亡くなった後、神意を悟らなかったため夫が急逝したわけを知りたくて神がかりになっていろいろな神を下ろしたあと、クマソ征伐に派遣されている。
その結果は「いまだ時を経ずして、クマソは自ずから恭順した」というのである。ここは首をかしげるところだが、鴨別が吉備つまり「建日方別」の出身であれば、クマソすなわち「建日別」とは同族の関係になる。したがって戦わずして向こうから恭順して来たのだろう。
このことはまた、南九州(クマソ国)に本拠地のある応神天皇への恭順にもつながるのである。だから吉備最大の豪族御友別は分割統治を受け入れたのである。
次に雄略天皇の時代に吉備国を巡って注目に値する出来事が二つあった。
二つの事件は同じ年(雄略天皇7年=463年)に起きているが、一つは吉備下道臣前津屋(さきつや)一族の没落事変であり、もう一つは吉備上道臣田狭(たさ)の左遷事件である。
最初の前津屋は、少女たちを闘わせ、雄略天皇とみなした小さいほうの少女が勝つとこれを殺し、また闘鶏で、やはり小さい雄鶏を天皇とみなし、小さい方が勝つとこれを殺したという。このことが天皇に知れ渡ることになり、物部の兵士を30人派遣して、一族を皆殺しにした。
次の田狭は、田狭の妻自慢が天皇の耳に入り、天皇はその妻を我が物にしようと、田狭を「任那国司」に任命して赴任させ、その間に田狭の妻ワカヒメを略奪されたという。
田狭はそのことを聞き、任那にとっては敵であった新羅に救援を頼もうとした。天皇はさらに田狭の子弟君を半島に送り新羅を討たせようとしたが、弟君は百済に行き、新羅を討とうとしなかった。そのため弟君は殺害されてしまう。
田狭のその後は情報がないが、おそらく任那にそのまま居着いたのだろう。
この二つの事件は雄略天皇の吉備弱体化政策の一環を示すものだ。吉備の国力は最初に触れたように陸海の活力がともに高く、特に「真金(まがね)吹く吉備」と言われるように製鉄が盛んであり、塩をはじめとする海産・農産に富んでおり、天皇家もうかうかとしていられないほどの実力があった。
巨大古墳である「造山古墳」(350メートル)「作山古墳」(280メートル)などは、ひそかに雄略天皇と覇を争った下道臣前津屋一族の残したものではないかと思われる。
ブログ「記紀点描㉚」では、敏達天皇の12年(583年)に百済の最高級官僚であった達率の日羅(にちら)を招こうとして「吉備海部直羽嶋(きびのあまべのあたい・はしま)」を派遣したことを書いたが、吉備は5世紀後半に「造山古墳」という全長が350メートルもあるような巨大古墳(全国で第4位の規模)を作るほどの大国であった。
吉備(のちの岡山県全域と広島県の東部)には東から吉井川、旭川、高梁川、芦田川という大きな川が、おおむね北から南に向かって流れており、水田の開発に適した地域である。
この吉備の記紀における初出は、古事記のいわゆる国生み神話で、「吉備児島」として登場する。そしてこの児島の古名を「建日方別(たけひかたわけ)」といった。
「建日別」とは筑紫(九州島)の4国のうち「熊曽国」の別名(古名)であったから、単純に演繹すれば「建日方別」とは「建日別」の「方分け」要するに「片割れ」であったことになる。
こんなことが有り得るだろうか?
私見では「神武東征」すなわち「南九州(クマソ国)に所在した投馬国の王タギシミミの東遷」は史実であったとしており、瀬戸内海を東へ移動した先に辿り着き、8年を過ごした吉備児島(当時は本当の島だった)を南九州(クマソ国)の片割れ(方別)とみなして名付けられたのが「建日方別」であって何ら齟齬はない。
この吉備児島は当然ながら海上に浮かぶ島であったから、住民は海民と言ってよく、「吉備海部直羽嶋(きびのあまべのあたい・はしま)」は吉備児島を領有した航海系の首長であったに違いない。
吉備海部直家からは羽嶋のほかにも難波や赤尾など、航海に習熟した首長がその役割を果たしている。
吉備海部直の一族、もしくは先祖の墓と思われる古墳が、児島半島の尾根筋に残されている。また吉井川の河口付近の牛窓地域には、天神山・鹿歩山・二塚山の古墳群があり、これも一族のものだろう。
吉備国は平野部では豊かな実りがあり、北部の山間地帯から産出される砂鉄による製鉄があり、さらにこの吉備海部直の航海(海運)業によって経済状況は全国でも屈指であったと思われる。
【吉備国豪族の系譜】
日本書紀では、最初に登場する吉備は第7代孝霊天皇の時で、天皇の妃ハエイロドの子として産まれた稚武彦(ワカタケヒコ)が、吉備臣の始祖であるという。(※一方、古事記ではその前の第6代孝安天皇の二皇子のひとりに「大吉備諸進(おおきびもろすす)命」が生まれていると書かれるが、この皇子の経歴については不明である。)
その後、第10代崇神天皇の時代になり、全国平定の武将として派遣されたいわ四道将軍の中に「吉備津彦」があらわれる。吉備津彦はいましがた述べた孝霊天皇時代に、天皇の子として生まれた「五十狭芹彦(いそさせりひこ)命」の別名であるが、西道(西海道)に派遣されている。
稚武彦(ワカタケヒコ)も五十狭芹彦(いそさせりひこ)も、私見では筑紫(九州島)に縁があり、前者は「武(たけ)」を持つことから南九州クマソ(建日別)とは近縁であり、後者は「五十(いそ)」を持つことから北部九州糸島郡(五十王国)との近縁である。
そのために西道(西海道)に派遣されたのだろう。
(※古事記によるとワカタケヒコ(若建吉備津彦)は下道臣・笠臣(備中)の祖で、吉備津彦(大吉備津彦)は上道臣(備前)の祖であるとされる。そして二人のキビツヒコが共に「吉備を言向け和した」と書くが、ワカタケヒコが最初に吉備を統治していた中に、あとから大吉備津彦が備前の方を分割統治した可能性が高い。)
この次はぐっと飛んで、応神天皇時代となるが、応神天皇の妃の一人に「兄媛(エヒメ)」がいたが、この人は吉備の出身であった(割注によると吉備の御友別の妹)。
このヒメが難波から海を眺め、ため息をついた。天皇がそのわけを聞くと、「父母が懐かしいので、ふるさとの吉備に帰りたい」とのこと。天皇は「嫁に来て何年も経つが、そういえば吉備には一度も帰らなかったな」と、帰省を許した(応神天皇22年3~4月条)。
諸天皇に関する記事で、嫁(皇后・妃)がホームシックに罹り、そのため天皇が実家に帰ることを許すなどという記事はここのほかに無い。それだけ稀有なことなのだろうが、この記事が堂々と載せられたのは、いかに吉備の勢力が強かったかを示唆する意味があるようだ。
同じ年の9月、応神天皇は淡路島に狩に出かけたが、その際に吉備に立ち寄ったという。ここで天皇が吉備の実家に帰った兄媛(エヒメ)を見舞う(?)かと思いきや、エヒメの兄の御友別(みともわけ)が饗応しただけで、肝心のエヒメの姿は現れないのだ。
では天皇はどうしたかというと、吉備を御友別の子供たちに分割支配させるようにしたのである。
吉備を六つの領域に分けて治めさせたと書く。それぞれの領有地によって下道臣、上道臣、香屋臣、三野臣、笠臣、苑臣という名の豪族の始祖になったという。そして、最後に何とエヒメが登場し、織部(はたおりべ)が授けられたのであった。
エヒメの吉備への里帰りが、結局、応神天皇の吉備分割政策につながるという記事なのだが、この分割政策に対して吉備側は抵抗をしていない。エヒメが実家に帰ることができたことを悦べばこそなのか、それとも実家に逃げ帰った嫁の実家が、かたじけないから天皇の思し召しのままにということなのか、分割統治になんら異議を唱えなかった理由は一体何なのか?
そのヒントが笠臣の始祖になった御友別の弟の「鴨別」の存在にあった。
鴨別(かもわけ)は実は神功皇后が夫の仲哀天皇が亡くなった後、神意を悟らなかったため夫が急逝したわけを知りたくて神がかりになっていろいろな神を下ろしたあと、クマソ征伐に派遣されている。
その結果は「いまだ時を経ずして、クマソは自ずから恭順した」というのである。ここは首をかしげるところだが、鴨別が吉備つまり「建日方別」の出身であれば、クマソすなわち「建日別」とは同族の関係になる。したがって戦わずして向こうから恭順して来たのだろう。
このことはまた、南九州(クマソ国)に本拠地のある応神天皇への恭順にもつながるのである。だから吉備最大の豪族御友別は分割統治を受け入れたのである。
次に雄略天皇の時代に吉備国を巡って注目に値する出来事が二つあった。
二つの事件は同じ年(雄略天皇7年=463年)に起きているが、一つは吉備下道臣前津屋(さきつや)一族の没落事変であり、もう一つは吉備上道臣田狭(たさ)の左遷事件である。
最初の前津屋は、少女たちを闘わせ、雄略天皇とみなした小さいほうの少女が勝つとこれを殺し、また闘鶏で、やはり小さい雄鶏を天皇とみなし、小さい方が勝つとこれを殺したという。このことが天皇に知れ渡ることになり、物部の兵士を30人派遣して、一族を皆殺しにした。
次の田狭は、田狭の妻自慢が天皇の耳に入り、天皇はその妻を我が物にしようと、田狭を「任那国司」に任命して赴任させ、その間に田狭の妻ワカヒメを略奪されたという。
田狭はそのことを聞き、任那にとっては敵であった新羅に救援を頼もうとした。天皇はさらに田狭の子弟君を半島に送り新羅を討たせようとしたが、弟君は百済に行き、新羅を討とうとしなかった。そのため弟君は殺害されてしまう。
田狭のその後は情報がないが、おそらく任那にそのまま居着いたのだろう。
この二つの事件は雄略天皇の吉備弱体化政策の一環を示すものだ。吉備の国力は最初に触れたように陸海の活力がともに高く、特に「真金(まがね)吹く吉備」と言われるように製鉄が盛んであり、塩をはじめとする海産・農産に富んでおり、天皇家もうかうかとしていられないほどの実力があった。
巨大古墳である「造山古墳」(350メートル)「作山古墳」(280メートル)などは、ひそかに雄略天皇と覇を争った下道臣前津屋一族の残したものではないかと思われる。
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