【漢字漢文習熟後の上表文】
当ブログ『漢字の到来と使用』(記紀点描㉚)において、漢字・漢籍が公式に列島に到来し、それに初めて習熟した人物は応神天皇の皇子ウジノワキイラツコであり、西暦でおよそ405年頃であるとした。
その後漢文が公式に文書に取り入れらたのは、おそらく「隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡」にレリーフされた文字列(漢文)に見るように、443年頃ではなかったかと考えた。
つまり、漢籍が学ばれるようになり、公式の文書として普及し始めたのは、列島に漢字・漢籍が渡来してから、30年位あとのこととと思うのである。
『宋書』に見える倭国王「讃」による遣使貢献の最初は、武帝の永初2(421)年のことであり、次の貢献は文帝の元嘉2(425)年のことであったから、使者の司馬曹達が漢籍に習熟していた渡来人であることを勘案しても、430年前後には倭人でも漢文を読み書きできる者は少なからずいたとしてよいだろう。
倭王「讃」の遣使貢献から、「珍」「済」「興」「武」の宋王朝への除正(爵号賜与)を求める遣使には上表文が付き物で、当然それは正式な漢文で書かれたものであった。特に最後の倭王武の478年に順帝に上表した文は華麗な「四六駢儷体」とよばれる長文の漢語で書かれており、倭人側の漢字・漢籍の習熟が並々ならぬレベルに達していたことをいかんなく示している。
しかしながら、その後の漢文を使用した大陸王朝への、以上のような倭人による上表文の類は史書には残されておらず、7世紀初頭の遣隋使の派遣まで待たなければならなかった。
『隋書』によれば、大業3(607)年の遣隋使が持参した国書(上表文)には「日出処天子、致書日没処天子、無恙(也)・・・」(日出づる処の天子が、日没する処の天子に書を致す。つつがなしや)と書いてあったので、皇帝煬帝はこれを悦ばず、臣下に「無礼な書きぶりだな。もう向こうの言うことは聞くな」と言ったとある。
これを見れば、7世紀の初頭には倭人も漢文の読み書きに習熟していたことが分かる。紙も墨も筆もすでに国産のものがあったのだろう。
(※ただし、440年頃に漢字が使われ始めてから、この国書(上表文)が書かれた600年代初頭までの160年ほどの間に、大陸中国および朝鮮半島との交渉において使われたであろう文書については全く残されていない。)
【朝鮮半島との口語による交渉】
上述のように列島では440年代に漢字・漢文(漢籍)に習熟した者が少なからず現れ、列島倭人と半島諸国の内でも任那(旧弁韓)と百済の間では頻繁な往来があったのだが、450年位からあとは何らかの文書が使われるようになったと思われる。それが原始的な紙によるのか、木片によるものなのか、証拠品の出土は今のところはない。
したがって文書以前の対外交渉は口語によるものと考えるほかないのである。
ではどのような口語、すなわち話し言葉が使われていたのだろうか。
記紀の内、とくに日本書紀には神功皇后・応神天皇時代はもとより雄略天皇時代を経て、任那が新羅に滅ぼされる欽明天皇の時代(562年)まで約200年の間、大量の外交交渉記事があり、その分、倭人にしろ任那人にしろ百済人にしろ新羅人にしろ、枚挙にいとまないほどの交渉人(武人を含む)が登場するのだが、「言語不通だった」という記事は一か所もない。
ところが欽明天皇の次の敏達天皇の時に、不可解な記事が見える。敏達天皇の12年(583年)に、562年に滅ぼされた任那の再興を図ろうとして、百済から達率(タッソツ)の「日羅」を呼び寄せて再興についての意見を聞こうとした――という記事である。
<この年、また再び、吉備海部直羽嶋(きびのあまべのあたい・はしま)を遣わし、日羅を百済に召す。羽嶋すでに百済にゆきて、まずひそかに日羅を見んとして、ひとり自ら家の門に向かう。しばらくして家の裡より来る韓婦あり。
韓語を用いて曰く「汝が根を、我が根の内に入れよ」といひて、即ち家に入り去りぬ。羽嶋たちまちにその意を覚りて、後ろに随いて入る。ここに日羅、迎え来りて手を取りて座に座らしむ。>(敏達天皇12年条)
日羅という人物だが、この人は父が熊本の葦北国造であったが、半島に渡ったのちに生まれ、その後は百済に仕え、百済の官僚として最高位の「恩率(オンソツ)」に次ぐ「達率(タッソツ)」にまで上り詰めた人である。
父親がどのような経緯で半島にわたり、百済にまで行ったのかは何ら情報がないので、眉唾と言えば眉唾なのだが、しかし九州島からは早くは紀元前から、航海民系の倭人が渡っているはずで、「魏志韓伝」が明らかにしているように、半島南部の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の内、弁韓と辰韓には航海民系の「文身(いれずみ)した倭人」が多数いて、しかも弁韓と辰韓の住民同士は「雑居」していた、とある。
(※この「雑居」性は、弁韓12国と辰韓12国の国名の類似からも証明される。)
つまり弁韓(のちの任那)と辰韓との間には国境の類はなく、互いに自由に行き来していたということである。
日羅の父の葦北国造も半島にわたるまでは倭語を使用していたことは疑いないが、では半島に行ってからはどんな言語を使用したのだろうか。
子の日羅は向こうで生まれ育ち、百済の言葉を使用していたからこそ、百済の高級官僚にまで出世したのだろう。
その日羅が列島に来ても言葉に不自由してはいないのはどうしてだろうか。
もうすこし広く言って、神功皇后・応神天皇時代以降の度重なる半島との交渉(武将の派遣を含む)において倭人と半島人との間で使用した共通の言語があった可能性はないのか――ということが提起されるのである。
そこでここに挙げた書紀資料を見ると、下線部にあるように日羅を迎えに行った羽嶋が日羅の家を訪ねた時に、応対に出て来た韓婦(おそらく使用人の女中)が、「韓語」(カンゴ)を使ったという。
この韓語は現地百済で使われたわけだから「百済語」と置き換えていいと思うのだが、わざわざ韓語と書いてある。羽嶋は聴き慣れないながらもその意味は分かり、女中に従って屋敷に入り、日羅と対面したのであった。
羽嶋は当然「韓語(百済語)」には習熟していないので、日羅との会話は困ったと思うのだが、この記事を読む限り、日羅は羽嶋と同じ倭語を使っているように見える。日羅の倭国行きに反対する百済王をうまく躱して列島に招聘しようという密儀であり、通訳を介したようには思われないのである。
こう考えると百済生まれの日羅が普通に話せた倭語こそが、当時の共通語ではなかったかと思い至る。ただそれは任那が滅ぶ前までのことだった可能性が高い。いわば任那(弁韓)こそが「倭語センター」の役割をしていたのではないか。
西暦562年に新羅によって任那が滅ぼされると、半島は北から高句麗、百済、新羅の三国体制になるのだが、倭語センターたる任那が衰亡すると、百済(馬韓)にせよ、新羅(辰韓)にせよ独自の言葉(倭語からすれば方言)が発達し始めるのは道理だろう。その方言のことを「韓語」と記したのではないだろうか。
【半島における「倭語」】
『三国志』の「魏書」の30巻目にある「烏丸鮮卑東夷伝」は、北から「夫余(フヨ)」「高句麗」「東沃沮(ヨクソ)」「挹婁(ユウロウ)」「濊(ワイ)」「韓」「倭人」の7つの国を網羅しており、このうちで高句麗は「夫余の別種」であり、「言語や諸事において多くは夫余と同じ」と書かれており、夫余と高句麗は同じような言語であったことが分かっている。
さらに夫余の記述の最後の部分で、夫余には「濊城」と名付けられた城があり、また官庫には「濊王之印」というのがあり、古老は「我々の先祖は亡命者だ」と言っていることから、「思うに、濊貊の地は夫余王がかつてその中に居たのだ。古老が亡命して来たというのも、そういうことだったに違いない」と結論している。
以上のことから夫余と高句麗と濊(ワイ)はあたかも一卵性三生児(三つ子)の趣があり、夫余も高句麗も本貫は朝鮮北半の大国だった濊(ワイ)だったのだ。そしてそこに漢王朝(前漢)が楽浪郡を設置して植民地化した時に、さらに北へ落ち延びた濊人が居着いた国々が高句麗であり、夫余だったということができよう。
したがって夫余と高句麗と濊(ワイ)に共通する言語は「濊語」だったとして大過ないだろう。
ところが韓についての同様の言語状況は「韓伝」には全く書かれていないのである。弁韓と辰韓は雑居していると書きながら、「弁韓と辰韓の言語は似ている」あるいは「同じである」という記述はないのだ。のちに百済となる馬韓についても54か国ある国家群の名称や、その首長である「臣智」と次官クラスの「邑借」の名称や、風俗習慣などは克明に記しながら、肝心の言語については書いていない。
馬韓・弁韓・辰韓を一括りにして「韓伝」にまとめているのなら、余計にそれら三韓の使用言語の異同を記してもよさそうなものなのだが、それは無視されている。ということは同じ言語で統一されていたとみてよいのではないか。だからわざわざ書く必要がなかったのだろう。
では何語が共通言語であったのか?
韓伝の中の馬韓の条に次のような一文らしきものがあるのに注目したい。それは馬韓の一国「月支(ツクシ)国」を統治する辰王(のちに辰韓12国を開いた殷王朝の末裔)のことを、他の国々の臣智(首長)が次のように呼んでいるというのだ。
<臣雲遣支報、安邪踧支、濆臣離児不例、拘邪・蓁支廉>
万葉仮名風に読むと、どうにか意味が取れるのだが、それでもかなり難しい。四苦八苦してまず次のように読んでみた。
<シウ・クシフ、アヤシキ、ヒジリニフレ、伽耶・蓁(辰韓)シレ(ル)>
意訳で<辰王、偉大な(ク)辰王は、綾なる聖として天から降り、伽耶(弁韓)と辰韓を知る(お方)>となり、弁韓と辰韓は雑居しているという一文の内容は、両韓を偉大な辰王が支配していることの意味だったことになる。
注目すべきはこの一文には主語「シウ・クシフ」の次に補語「ヒジリニ」が続き、「フレ(降る)」という動詞があり、さらに「伽耶・蓁」が目的語になったうえで、最後に「シレ(知る)」という動詞で終わっていることである。
この「主語+目的語(補語)+動詞」という語順はまさに倭語(広く言えば東アジア膠着語のひとつ)の姿そのものであり、当時の半島南部ではこのような倭語が話されていたことが垣間見える一文である。
そうであればこそ、記紀の記す対半島外交交渉において「言葉が通じなかった」「意思の疎通に難儀した」などという記事が皆無なのも了解できよう。
しかしながら共通言語たる倭語も、562年(欽明天皇23年)に倭語センターともいうべき任那が新羅によって滅ぼされると、新羅でも百済でも倭語離れが始まり、敏達天皇の12年(583年)条にあるように、百済では書紀の言葉で「韓語」という、倭語から派生した方言的な百済語に取って代わられて行きつつあったのだ。
任那が滅亡してわずか20年後のことであった。
さらに言えば、百済が660年に唐・新羅連合軍に敗れて滅亡し、高句麗が668年に同じく滅亡して後は、新羅語が朝鮮半島全体を覆う言語になり、その後は、倭語の方言化がますます進み、語順等の東アジア膠着(テニヲハ)語の特徴は維持しつつも、倭語(日本語)と新羅語とはお互いに似ても似つかぬ言語同士に変容していった。
(※したがって、白村江の戦役(663年)以後の日本と新羅との間の外交交渉は、すべて漢文で行われることになったわけである。)
〈追 記〉
欽明天皇の23年(562年)7月条に、新羅から使いが来て貢献したとあり、その使いが任那を滅ぼした本国のやり方が許せないと言って帰らずにそのまま河内国に定住したという記事がある。この時も、特に通訳の役目の別の使いが一緒で、ともに河内に留まったというようなことは書かれていない。倭語が標準語として使われていたことを示唆する。
また、同じ23年7月には大将軍・紀男麿宿祢(きのおまろのすくね)と副将・河辺臣瓊缶(かわべのおみ・にへ)を派遣して新羅を討たせたというきじがあるが、新羅の闘将が言ったという面白い言葉を記録している。
河辺臣瓊缶が騎馬戦を指揮して新羅軍と闘ったのだが、先鋒に居た倭国造手彦(やまとのくにのみやつこ・てひと)が新羅の闘将の追撃を受け、追われながら城塞の溝(堀)を馬で飛び越えて難を逃れた際に、新羅の闘将が残念そうに「久須尼自利」(クスニジリ)と叫んだとある。
この「クスニジリ」だが、注釈では意味不明としている。だが、これは状況から推測して「糞がにじむ」つまり「くそったれ!」ということだろう。今日では失敗をしたり、何かを失ったりした時に単に「くそっ!」というが、この「くそ」は糞のことで、緊張が度を超すと糞尿をちびることがあるのは、古今変わらない生理現象でもある。
このクスニジリ(糞ったれ)は倭語そのものと言ってよく、この記事は、半島における倭語センターたる任那が滅びる562年まで、このような倭語が共通語であった可能性を示す証拠になる。
当ブログ『漢字の到来と使用』(記紀点描㉚)において、漢字・漢籍が公式に列島に到来し、それに初めて習熟した人物は応神天皇の皇子ウジノワキイラツコであり、西暦でおよそ405年頃であるとした。
その後漢文が公式に文書に取り入れらたのは、おそらく「隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡」にレリーフされた文字列(漢文)に見るように、443年頃ではなかったかと考えた。
つまり、漢籍が学ばれるようになり、公式の文書として普及し始めたのは、列島に漢字・漢籍が渡来してから、30年位あとのこととと思うのである。
『宋書』に見える倭国王「讃」による遣使貢献の最初は、武帝の永初2(421)年のことであり、次の貢献は文帝の元嘉2(425)年のことであったから、使者の司馬曹達が漢籍に習熟していた渡来人であることを勘案しても、430年前後には倭人でも漢文を読み書きできる者は少なからずいたとしてよいだろう。
倭王「讃」の遣使貢献から、「珍」「済」「興」「武」の宋王朝への除正(爵号賜与)を求める遣使には上表文が付き物で、当然それは正式な漢文で書かれたものであった。特に最後の倭王武の478年に順帝に上表した文は華麗な「四六駢儷体」とよばれる長文の漢語で書かれており、倭人側の漢字・漢籍の習熟が並々ならぬレベルに達していたことをいかんなく示している。
しかしながら、その後の漢文を使用した大陸王朝への、以上のような倭人による上表文の類は史書には残されておらず、7世紀初頭の遣隋使の派遣まで待たなければならなかった。
『隋書』によれば、大業3(607)年の遣隋使が持参した国書(上表文)には「日出処天子、致書日没処天子、無恙(也)・・・」(日出づる処の天子が、日没する処の天子に書を致す。つつがなしや)と書いてあったので、皇帝煬帝はこれを悦ばず、臣下に「無礼な書きぶりだな。もう向こうの言うことは聞くな」と言ったとある。
これを見れば、7世紀の初頭には倭人も漢文の読み書きに習熟していたことが分かる。紙も墨も筆もすでに国産のものがあったのだろう。
(※ただし、440年頃に漢字が使われ始めてから、この国書(上表文)が書かれた600年代初頭までの160年ほどの間に、大陸中国および朝鮮半島との交渉において使われたであろう文書については全く残されていない。)
【朝鮮半島との口語による交渉】
上述のように列島では440年代に漢字・漢文(漢籍)に習熟した者が少なからず現れ、列島倭人と半島諸国の内でも任那(旧弁韓)と百済の間では頻繁な往来があったのだが、450年位からあとは何らかの文書が使われるようになったと思われる。それが原始的な紙によるのか、木片によるものなのか、証拠品の出土は今のところはない。
したがって文書以前の対外交渉は口語によるものと考えるほかないのである。
ではどのような口語、すなわち話し言葉が使われていたのだろうか。
記紀の内、とくに日本書紀には神功皇后・応神天皇時代はもとより雄略天皇時代を経て、任那が新羅に滅ぼされる欽明天皇の時代(562年)まで約200年の間、大量の外交交渉記事があり、その分、倭人にしろ任那人にしろ百済人にしろ新羅人にしろ、枚挙にいとまないほどの交渉人(武人を含む)が登場するのだが、「言語不通だった」という記事は一か所もない。
ところが欽明天皇の次の敏達天皇の時に、不可解な記事が見える。敏達天皇の12年(583年)に、562年に滅ぼされた任那の再興を図ろうとして、百済から達率(タッソツ)の「日羅」を呼び寄せて再興についての意見を聞こうとした――という記事である。
<この年、また再び、吉備海部直羽嶋(きびのあまべのあたい・はしま)を遣わし、日羅を百済に召す。羽嶋すでに百済にゆきて、まずひそかに日羅を見んとして、ひとり自ら家の門に向かう。しばらくして家の裡より来る韓婦あり。
韓語を用いて曰く「汝が根を、我が根の内に入れよ」といひて、即ち家に入り去りぬ。羽嶋たちまちにその意を覚りて、後ろに随いて入る。ここに日羅、迎え来りて手を取りて座に座らしむ。>(敏達天皇12年条)
日羅という人物だが、この人は父が熊本の葦北国造であったが、半島に渡ったのちに生まれ、その後は百済に仕え、百済の官僚として最高位の「恩率(オンソツ)」に次ぐ「達率(タッソツ)」にまで上り詰めた人である。
父親がどのような経緯で半島にわたり、百済にまで行ったのかは何ら情報がないので、眉唾と言えば眉唾なのだが、しかし九州島からは早くは紀元前から、航海民系の倭人が渡っているはずで、「魏志韓伝」が明らかにしているように、半島南部の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の内、弁韓と辰韓には航海民系の「文身(いれずみ)した倭人」が多数いて、しかも弁韓と辰韓の住民同士は「雑居」していた、とある。
(※この「雑居」性は、弁韓12国と辰韓12国の国名の類似からも証明される。)
つまり弁韓(のちの任那)と辰韓との間には国境の類はなく、互いに自由に行き来していたということである。
日羅の父の葦北国造も半島にわたるまでは倭語を使用していたことは疑いないが、では半島に行ってからはどんな言語を使用したのだろうか。
子の日羅は向こうで生まれ育ち、百済の言葉を使用していたからこそ、百済の高級官僚にまで出世したのだろう。
その日羅が列島に来ても言葉に不自由してはいないのはどうしてだろうか。
もうすこし広く言って、神功皇后・応神天皇時代以降の度重なる半島との交渉(武将の派遣を含む)において倭人と半島人との間で使用した共通の言語があった可能性はないのか――ということが提起されるのである。
そこでここに挙げた書紀資料を見ると、下線部にあるように日羅を迎えに行った羽嶋が日羅の家を訪ねた時に、応対に出て来た韓婦(おそらく使用人の女中)が、「韓語」(カンゴ)を使ったという。
この韓語は現地百済で使われたわけだから「百済語」と置き換えていいと思うのだが、わざわざ韓語と書いてある。羽嶋は聴き慣れないながらもその意味は分かり、女中に従って屋敷に入り、日羅と対面したのであった。
羽嶋は当然「韓語(百済語)」には習熟していないので、日羅との会話は困ったと思うのだが、この記事を読む限り、日羅は羽嶋と同じ倭語を使っているように見える。日羅の倭国行きに反対する百済王をうまく躱して列島に招聘しようという密儀であり、通訳を介したようには思われないのである。
こう考えると百済生まれの日羅が普通に話せた倭語こそが、当時の共通語ではなかったかと思い至る。ただそれは任那が滅ぶ前までのことだった可能性が高い。いわば任那(弁韓)こそが「倭語センター」の役割をしていたのではないか。
西暦562年に新羅によって任那が滅ぼされると、半島は北から高句麗、百済、新羅の三国体制になるのだが、倭語センターたる任那が衰亡すると、百済(馬韓)にせよ、新羅(辰韓)にせよ独自の言葉(倭語からすれば方言)が発達し始めるのは道理だろう。その方言のことを「韓語」と記したのではないだろうか。
【半島における「倭語」】
『三国志』の「魏書」の30巻目にある「烏丸鮮卑東夷伝」は、北から「夫余(フヨ)」「高句麗」「東沃沮(ヨクソ)」「挹婁(ユウロウ)」「濊(ワイ)」「韓」「倭人」の7つの国を網羅しており、このうちで高句麗は「夫余の別種」であり、「言語や諸事において多くは夫余と同じ」と書かれており、夫余と高句麗は同じような言語であったことが分かっている。
さらに夫余の記述の最後の部分で、夫余には「濊城」と名付けられた城があり、また官庫には「濊王之印」というのがあり、古老は「我々の先祖は亡命者だ」と言っていることから、「思うに、濊貊の地は夫余王がかつてその中に居たのだ。古老が亡命して来たというのも、そういうことだったに違いない」と結論している。
以上のことから夫余と高句麗と濊(ワイ)はあたかも一卵性三生児(三つ子)の趣があり、夫余も高句麗も本貫は朝鮮北半の大国だった濊(ワイ)だったのだ。そしてそこに漢王朝(前漢)が楽浪郡を設置して植民地化した時に、さらに北へ落ち延びた濊人が居着いた国々が高句麗であり、夫余だったということができよう。
したがって夫余と高句麗と濊(ワイ)に共通する言語は「濊語」だったとして大過ないだろう。
ところが韓についての同様の言語状況は「韓伝」には全く書かれていないのである。弁韓と辰韓は雑居していると書きながら、「弁韓と辰韓の言語は似ている」あるいは「同じである」という記述はないのだ。のちに百済となる馬韓についても54か国ある国家群の名称や、その首長である「臣智」と次官クラスの「邑借」の名称や、風俗習慣などは克明に記しながら、肝心の言語については書いていない。
馬韓・弁韓・辰韓を一括りにして「韓伝」にまとめているのなら、余計にそれら三韓の使用言語の異同を記してもよさそうなものなのだが、それは無視されている。ということは同じ言語で統一されていたとみてよいのではないか。だからわざわざ書く必要がなかったのだろう。
では何語が共通言語であったのか?
韓伝の中の馬韓の条に次のような一文らしきものがあるのに注目したい。それは馬韓の一国「月支(ツクシ)国」を統治する辰王(のちに辰韓12国を開いた殷王朝の末裔)のことを、他の国々の臣智(首長)が次のように呼んでいるというのだ。
<臣雲遣支報、安邪踧支、濆臣離児不例、拘邪・蓁支廉>
万葉仮名風に読むと、どうにか意味が取れるのだが、それでもかなり難しい。四苦八苦してまず次のように読んでみた。
<シウ・クシフ、アヤシキ、ヒジリニフレ、伽耶・蓁(辰韓)シレ(ル)>
意訳で<辰王、偉大な(ク)辰王は、綾なる聖として天から降り、伽耶(弁韓)と辰韓を知る(お方)>となり、弁韓と辰韓は雑居しているという一文の内容は、両韓を偉大な辰王が支配していることの意味だったことになる。
注目すべきはこの一文には主語「シウ・クシフ」の次に補語「ヒジリニ」が続き、「フレ(降る)」という動詞があり、さらに「伽耶・蓁」が目的語になったうえで、最後に「シレ(知る)」という動詞で終わっていることである。
この「主語+目的語(補語)+動詞」という語順はまさに倭語(広く言えば東アジア膠着語のひとつ)の姿そのものであり、当時の半島南部ではこのような倭語が話されていたことが垣間見える一文である。
そうであればこそ、記紀の記す対半島外交交渉において「言葉が通じなかった」「意思の疎通に難儀した」などという記事が皆無なのも了解できよう。
しかしながら共通言語たる倭語も、562年(欽明天皇23年)に倭語センターともいうべき任那が新羅によって滅ぼされると、新羅でも百済でも倭語離れが始まり、敏達天皇の12年(583年)条にあるように、百済では書紀の言葉で「韓語」という、倭語から派生した方言的な百済語に取って代わられて行きつつあったのだ。
任那が滅亡してわずか20年後のことであった。
さらに言えば、百済が660年に唐・新羅連合軍に敗れて滅亡し、高句麗が668年に同じく滅亡して後は、新羅語が朝鮮半島全体を覆う言語になり、その後は、倭語の方言化がますます進み、語順等の東アジア膠着(テニヲハ)語の特徴は維持しつつも、倭語(日本語)と新羅語とはお互いに似ても似つかぬ言語同士に変容していった。
(※したがって、白村江の戦役(663年)以後の日本と新羅との間の外交交渉は、すべて漢文で行われることになったわけである。)
〈追 記〉
欽明天皇の23年(562年)7月条に、新羅から使いが来て貢献したとあり、その使いが任那を滅ぼした本国のやり方が許せないと言って帰らずにそのまま河内国に定住したという記事がある。この時も、特に通訳の役目の別の使いが一緒で、ともに河内に留まったというようなことは書かれていない。倭語が標準語として使われていたことを示唆する。
また、同じ23年7月には大将軍・紀男麿宿祢(きのおまろのすくね)と副将・河辺臣瓊缶(かわべのおみ・にへ)を派遣して新羅を討たせたというきじがあるが、新羅の闘将が言ったという面白い言葉を記録している。
河辺臣瓊缶が騎馬戦を指揮して新羅軍と闘ったのだが、先鋒に居た倭国造手彦(やまとのくにのみやつこ・てひと)が新羅の闘将の追撃を受け、追われながら城塞の溝(堀)を馬で飛び越えて難を逃れた際に、新羅の闘将が残念そうに「久須尼自利」(クスニジリ)と叫んだとある。
この「クスニジリ」だが、注釈では意味不明としている。だが、これは状況から推測して「糞がにじむ」つまり「くそったれ!」ということだろう。今日では失敗をしたり、何かを失ったりした時に単に「くそっ!」というが、この「くそ」は糞のことで、緊張が度を超すと糞尿をちびることがあるのは、古今変わらない生理現象でもある。
このクスニジリ(糞ったれ)は倭語そのものと言ってよく、この記事は、半島における倭語センターたる任那が滅びる562年まで、このような倭語が共通語であった可能性を示す証拠になる。
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