今年もやって来た真夏の追悼式典。
戦陣であるいは戦火の下で亡くなった戦没者の数は310万人とされている。
この310万という数字に原爆投下の後遺症によって数か月後、数年後に亡くなった人たちも含まれているのだろうか、いささか少ない気がする。
とにかく太平洋戦争では多くの民間人が犠牲になった。通常の戦争観で言えば、米軍の民間人殺害は原子爆弾によるものであれ、機銃掃射によるものであれ、立派な「戦争犯罪」である。
この点についてあの「国際極東軍事法廷」通称の「東京裁判」では、連合国側のそのような戦争犯罪は全く不問に付された。
東京裁判は直前に開廷されていた「ニュルンベルク国際軍事法廷(ニュルンベルク裁判)」に倣って連合軍占領下で行われた戦勝国が戦敗国を断罪する「見せしめ裁判」の類であった。
東京裁判ではニュルンベルクと同じ「通常の戦争犯罪」「平和に対する罪」「人道に対する罪」が被告人起訴の根拠となったが、後者の「平和に対する罪」「人道に対する罪」はいわゆる「事後法」(後付け法)であって、起訴する法的な根拠ではなかった。
このあたりのことが詳しく、しかも東京裁判に招かれた11人の判事それぞれの個性を通して描かれたドキュメンタリー風ドラマ「東京裁判」(NHK他)を観る機会を得た。(※このドラマはNHKと海外数局の共同制作で、2016年12月に放映されたものの再放送である。)
11人の判事の日本側A級戦犯28人の被告に対する判決では、3人の判事が少数意見の「被告人全員無罪」か「共同謀議は成り立たないので、7名への死刑判決は不当」というもので、3人の中のインド人判事パール博士の「無罪論」は知る人ぞ知る有名な判決だ。
あとはフランス人判事ベルナールとオランダ人判事レーリンクが「死刑は不当」組だが、後者のレーリンク判事について、ドラマではほぼ主役的な扱いで描いていた。
彼が11人の中では最も若く、しかも音楽(バイオリン)家でもあり、日本に来てあの『ビルマの竪琴』の作者でドイツ文学者の竹山道雄の知己を得たことと、かなりの量のメモを残していたことによるのだろう。
この3人以外では英米系の4名(アメリカ・イギリス・カナダ・ニュージーランド)は当然死刑推進派で、中華民国の判事も熱烈な反日、またフィリピンからの判事もアメリカの植民地(被侵略地)であったにもかかわらず、日本軍が侵略したことに対してだけ鬱憤をぶちまけていた。
ソ連の判事は多数意見に従っていたが、「天皇を起訴するのは反対だ」との立場だったのは意外に思われた。(※可能性としてはシベリアに強制連行して重労働をさせた日本人兵士たちが従順によく従って働いたのは、天皇の軍隊としての規律と誇りがあったためだと、気付いたか。)
裁判長はこれまたイギリス連邦の大国オーストラリア出身のウェッブで、オーストラリアは「天皇を裁判にかけろ」という強硬派であった。このことを知っていてマッカーサーが選任したのは、裁判の始まった1946年5月3日の時点ではまだマッカーサーには天皇を訴追しようという腹があったのかもしれない。
ところが裁判が始まってわずか1か月後の6月には、訴追担当の首席検事キーナンが早々と「天皇は訴追せず」の声明を発表しているのである。これはどうしたわけなのか。裁判長ウェッブの余りにも強い天皇戦犯論に対して待ったをかけたのかもしれない。
同じ1946年の1月26日に「人間宣言」を発表し、日本各地を巡幸し始めた天皇が、各地で民衆から熱烈な歓迎を受けこそすれ、決して天皇を否定・拒否するような場面が見られなかったことに、マッカーサーが「これは絶対に訴追できない。訴追したら民衆が連合軍に歯向かう事態になる」と考えを変えたのだろうか。
東京裁判は連合国側の「敵国日本潰し・弱体化」のための2年半(1946年5月3日~1948年11月12日)にわたる「見せしめ裁判」であり、最高司令官の意向の多くを反映したものだった。結審した同じ11月3日に「日本国憲法」が発布されたのも同じ経緯であったこと言うまでもない。
戦陣であるいは戦火の下で亡くなった戦没者の数は310万人とされている。
この310万という数字に原爆投下の後遺症によって数か月後、数年後に亡くなった人たちも含まれているのだろうか、いささか少ない気がする。
とにかく太平洋戦争では多くの民間人が犠牲になった。通常の戦争観で言えば、米軍の民間人殺害は原子爆弾によるものであれ、機銃掃射によるものであれ、立派な「戦争犯罪」である。
この点についてあの「国際極東軍事法廷」通称の「東京裁判」では、連合国側のそのような戦争犯罪は全く不問に付された。
東京裁判は直前に開廷されていた「ニュルンベルク国際軍事法廷(ニュルンベルク裁判)」に倣って連合軍占領下で行われた戦勝国が戦敗国を断罪する「見せしめ裁判」の類であった。
東京裁判ではニュルンベルクと同じ「通常の戦争犯罪」「平和に対する罪」「人道に対する罪」が被告人起訴の根拠となったが、後者の「平和に対する罪」「人道に対する罪」はいわゆる「事後法」(後付け法)であって、起訴する法的な根拠ではなかった。
このあたりのことが詳しく、しかも東京裁判に招かれた11人の判事それぞれの個性を通して描かれたドキュメンタリー風ドラマ「東京裁判」(NHK他)を観る機会を得た。(※このドラマはNHKと海外数局の共同制作で、2016年12月に放映されたものの再放送である。)
11人の判事の日本側A級戦犯28人の被告に対する判決では、3人の判事が少数意見の「被告人全員無罪」か「共同謀議は成り立たないので、7名への死刑判決は不当」というもので、3人の中のインド人判事パール博士の「無罪論」は知る人ぞ知る有名な判決だ。
あとはフランス人判事ベルナールとオランダ人判事レーリンクが「死刑は不当」組だが、後者のレーリンク判事について、ドラマではほぼ主役的な扱いで描いていた。
彼が11人の中では最も若く、しかも音楽(バイオリン)家でもあり、日本に来てあの『ビルマの竪琴』の作者でドイツ文学者の竹山道雄の知己を得たことと、かなりの量のメモを残していたことによるのだろう。
この3人以外では英米系の4名(アメリカ・イギリス・カナダ・ニュージーランド)は当然死刑推進派で、中華民国の判事も熱烈な反日、またフィリピンからの判事もアメリカの植民地(被侵略地)であったにもかかわらず、日本軍が侵略したことに対してだけ鬱憤をぶちまけていた。
ソ連の判事は多数意見に従っていたが、「天皇を起訴するのは反対だ」との立場だったのは意外に思われた。(※可能性としてはシベリアに強制連行して重労働をさせた日本人兵士たちが従順によく従って働いたのは、天皇の軍隊としての規律と誇りがあったためだと、気付いたか。)
裁判長はこれまたイギリス連邦の大国オーストラリア出身のウェッブで、オーストラリアは「天皇を裁判にかけろ」という強硬派であった。このことを知っていてマッカーサーが選任したのは、裁判の始まった1946年5月3日の時点ではまだマッカーサーには天皇を訴追しようという腹があったのかもしれない。
ところが裁判が始まってわずか1か月後の6月には、訴追担当の首席検事キーナンが早々と「天皇は訴追せず」の声明を発表しているのである。これはどうしたわけなのか。裁判長ウェッブの余りにも強い天皇戦犯論に対して待ったをかけたのかもしれない。
同じ1946年の1月26日に「人間宣言」を発表し、日本各地を巡幸し始めた天皇が、各地で民衆から熱烈な歓迎を受けこそすれ、決して天皇を否定・拒否するような場面が見られなかったことに、マッカーサーが「これは絶対に訴追できない。訴追したら民衆が連合軍に歯向かう事態になる」と考えを変えたのだろうか。
東京裁判は連合国側の「敵国日本潰し・弱体化」のための2年半(1946年5月3日~1948年11月12日)にわたる「見せしめ裁判」であり、最高司令官の意向の多くを反映したものだった。結審した同じ11月3日に「日本国憲法」が発布されたのも同じ経緯であったこと言うまでもない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます