鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

南海はまた大揺れ

2021-12-14 23:01:32 | 災害
鹿児島県の南海上にあるトカラ列島の近海で、また群発地震が起きている。

12月4日に始まった揺れは14日現在、震度1から5強まで総計で297 回となった。

特に9日の11時頃に発生したマグニチュード6.1、震度5強を観測した悪石島では避難騒ぎとなった。

トカラ列島では今年の4月にも、群発地震が9日から24日までの15日間で290回の地震が起きており、同じ年にまた同じような群発地震が発生したことになる。

震度5強という強い揺れは実は2000年にも発生しているので経験済みだが、1年のうちに2回も震度5強(М6.1)を含む群発地震に見舞われたのは初めてだろう。

それだけ地震の頻度が高まっているということである。

9日の震度5強の時、悪石島の西隣りの小宝島では震度4、さらに北隣りの諏訪之瀬島では震度3だったという。

この諏訪之瀬島が曲者だ。この島は近海を発生源とする群発地震が起きる前の10月ころから活発な噴火を起こし、時おり火砕流を四周に流している。有人島なので、これ以上活動が活発になれば無人島になりかねない。

同じ1年内に2度も群発地震が発生し、しかもすぐ北にある(といっても30キロは離れているが)諏訪之瀬島の噴火が活発化している。専門家は悪石島近海を震源とする群発地震と、諏訪之瀬島の噴火の活発な活動はリンクしたものではないという見解だが、自分はそうは思わない。

20年前の震度5強を生んだ群発地震はその後は鳴りを潜めたが、20年後の現在の群発地震は同じ年に2回あり、しかも北隣りにある諏訪之瀬島の御岳火山が活発化しているのである。関連性はないという常識を疑わなくてはならないと思うのだ。

いくら「小噴火は大噴火に至らないためのガス抜きだ。地層の動き(断層)はプレート間の力学的な減衰反応だ」と言われても、どこまでが大災害につながらない小噴火なのか、大地震につながらない減衰反応なのか、が曖昧なのである。

来年の干支は「五黄の寅」で、「金運上昇する年」などと解釈する星占いがあるようだが、実は五黄の年に起きた超特大の災害は多い。

典型が関東大震災だ。98年前の1923年9月1日午前11時58分に発生しているのだが、1923年はまさに五黄の年(亥の年)であった。

来年2022年は「五黄の寅」で、五黄の年の中でも最強の年回りである。何事もなければよいが・・・。

【追記】

新聞記事によると、今度最大震度を観測した悪石島とその南西側に隣り合う小宝島との間の海底には「トカラギャップ」と呼ぶ水深1000メートルの「海峡」があり、そこが地殻変動の活発化しているところで「地震の巣」だという。

「海峡」(海の中だから「おぼれ谷」と言うべきか)ができたのは、ユーラシアプレートとそれに潜り込むフィリピン海プレートの力関係によるものだというが、この谷の地層が年々崩れて(断層して)深く、もしくは広くなっていくのだろうか。

この「おぼれ谷」の地層の変動が地上では地震をもたらし、地下ではマグマに影響を与えているとすれば、やはり火山の活発化につながるのではないだろうか。

プレートの動きは100年単位くらいで見ないと明確にはならないが、地層の動き(断層)やマグマの噴き出し(火山噴火)は一瞬にして起きるので怖い。

交通事故災害は「不注意一秒、ケガ一生」というが、地震と噴火による災害は「注意100年すれども、死は一日」だ。

天が落ちてくることはないが、明日、いや今日「地が大揺れになる」可能性があると思っていた方がよい。

越前の大王(記紀点描㉞)

2021-12-11 22:40:00 | 記紀点描
【九州以外からは初めての大和王権】

武烈天皇で断絶した「河内王朝」と言われる仁徳王朝の系譜。

それを補ったのが、越前福井の大王だった「オホドノミコト」こと継体天皇であった。

オホドを古事記では「袁本杼」、書紀では「男大迹」と書くが、どちらにしても一般的には読み難い。そこに若干の編集者による創作があったように感じるのだが、そのことは置いておく。

さて継体天皇は父が彦主人王(ひこぬしのみこ)、母は振媛(ふるひめ)で、彦主人王は応神天皇の5世孫であり、母は垂仁天皇の7世孫だという。

父方の応神天皇のほうは応神天皇の皇子「わかぬけふたまた皇子」から始まる系譜であることが書かれているのだが、母方の振媛のほうは系譜が不明である。書紀の記述では越前三国の出身である。

ところが彦主人王が若くして亡くなったので、振媛は我が子を連れて越前に帰って育てたという。

そして越前の大王となり、九頭竜川他の河川が集まって沼地のようになっていた地域から、排水事業を起こして今日の越前平野を造成した。

足羽山の麓に建てられた「継体天皇像」をインターネットで見ることができるが、その姿はオオクニヌシを彷彿とさせる。オオクニヌシは「大名持(オオナモチ)」であり、大きな土地を持っっているという意味で、広大な平野を生み出したオホド王(継体天皇)にふさわしい。

天皇の候補としてオホド王が挙げられ、当時の大和王権の大連・大伴金村が尽力してようやく後継者として受け入れたのだが、大和にはなかなか入れなかった。おそらく大和地方の豪族たちが難色を示していたからだろう。

天皇位を継いでから、最初の宮殿「河内楠葉宮」で5年、次に「山城筒城宮」で7年、そして「山背弟国宮」に8年を過ごし、合計20年の後にようやく大和入りし、「磐余玉穂宮」を築いた。この時、西暦526年であった。

私見では、よそから大和に入って王朝を築いたのは、西暦170年頃の南九州からの橿原王朝、270年頃の北部九州からの崇神王朝に次いで3例目である。

【筑紫君磐井の叛乱】

継体天皇が大和の磐余玉穂宮に入った翌年の527年、九州で反乱が起こった。

「筑紫君磐井(いわい)」が新羅征討のために九州に遠征して来た近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)率いる軍に抵抗したのである。

この反乱の陰に磐井と新羅との共謀があったと書紀は記述するが、百済の領土要求(4県割譲)にすんなりと応じてしまった継体王権に対する反感が根底にあり、筑紫君の持つ半島の利権が損なわれるとの危惧が新羅との接近を生んだと思われる。

近江毛野臣が引き連れて来た6万という新羅征討軍と対峙し、さらに大和から遣わされた物部麁鹿火(もののべのあらかび)将軍と戦った磐井は敗れるのだが、書紀と筑後風土記ではその最期に大きな違いがある。

書紀では翌528年に、<11月、大将軍・物部麁鹿火、みずから賊帥・磐井と筑紫の御井郡にて交戦す。(中略)ついに磐井を斬りて、果たして彊場を定む。12月、筑紫君葛子、父の罪によりて誅せられむことを恐れ、糟屋屯倉を献り、死罪を贖うことを求む。>

とあり、磐井は官軍と戦って死んだことになっている。

ところが筑後風土記逸文では、<(官軍の)勢い勝つまじきを知りて、ひとり豊前国の上膳の県に逃れて、南の山の峻しき峰の曲に見失せき。>

とあり、豊前方面の山中に逃れてしまったというのである。

戦死したのか、戦死はせず落ち延びたのかの両論併記だが、息子・葛子の「糟屋屯倉献上」まで書いてあることから、書紀の戦死説を採りたい。

【磐井は岩戸山古墳には眠っていない】

ところで、筑後風土記は磐井が山中に姿をくらましたことで官軍側が怒り狂い、磐井が生前に築いていた岩戸山古墳の周囲に立てられていた石人・石馬を打ち壊したと書いており、その描写はまさに今日の岩戸山古墳の様相を示している。この風土記の記述によって「岩戸山古墳は磐井の墓」という俗説が生まれたのであった。

しかし果たして岩戸山古墳に磐井が埋葬されているのだろうか?

まず筑後風土記説は矛盾を抱えている。岩戸山古墳はたしかに磐井が生前に築いたのだが、官軍と戦う前に絶対の不利を悟って山中に逃げたと言っているのだから、磐井の遺体も当然行方不明であり、岩戸山古墳に埋葬されることは有り得ないのである。

次に書紀の説では、磐井を筑後御井郡(小郡市)の戦いで斬殺しており、その遺体を生前に築いた墓があるからそこに埋葬しようなどということは一切考えられない。反逆者の遺体はバラバラにされて無造作にそこかしこに埋められるのが一般である。

また筑後風土記の記す「官軍が磐井を取り逃がしたので腹立ちまぎれに生前墓の周りの石人・石馬を打ち壊した」くらいでは済まず、墓そのものを破壊したであろう。

墓は今に見るように立派な姿を留めているのである。(※全長150mの前方後円墳は、6世紀前半の当時、九州では最大、全国的に見ても最高ランクに入る規模である。)

【岩戸山古墳は卑弥呼の墓】

私のように邪馬台国八女説を採る場合、ネックというか弱点というか、一つだけ不問に付してしまったのが卑弥呼の墓である。

倭人伝には、西暦247年に魏王朝の「証書と黄幡(コウドウ)」すなわち皇帝から賜与された黄幡(戦旗)を持参した張政が邪馬台国の高官である「難升米」(なしおみ)に告諭(命令を下す)したあと、卑弥呼は命を絶つのだが、遺体は「径百余歩」の円墳状の墓を築いて葬った――とある。

この記述に従えば、邪馬台国内部に卑弥呼の円墳が無ければならないのだが、それを「これだ」と比定できなかったのが弱点であった。

ところが反逆者・磐井が築いた生前墓が主がいないままなぜ今日まで1500年近くもそのままの姿を留めているのかを考え、実際に訪ねて行った時、後円部に「伊勢神社旧跡」という表示を見て、あっと思ったのである。

伊勢神社と言えば御祭神はアマテラスオオミカミである。すると後円部には天照大神に比肩できるような人物が眠っているのではないか、大巫女である卑弥呼ならそれにふさわしいのではないか、と思い至ったのである。

しかしそう考えると、岩戸山古墳が磐井によって築かれたのは6世紀の前半で卑弥呼の死は247年であるから、築造年代が全く合わない。

そこで次のように考えた。

磐井は実は後円部(円墳)に卑弥呼が埋葬されているのは知っており、自分は前方部を繋ぎ足し、そこに自分の遺体を葬って欲しかったのではないかと。卑弥呼は天照大神そのものではないが、大神を祀れる霊能卯力を持っており、自分は地方豪族として前方部に埋葬されることによって少しでも大神に近づきたいと。

もともと前方後円墳の原型は円墳に祭りのためのテラスをつけ足したものであり、後世になってそのテラスが著しく巨大化した。築造の順番もまず後円部を造り、そこに前方部を接ぎ足すのが原則であった。磐井は前方部をタイムラグを無視して卑弥呼の眠る円墳に付け足したに違いない。

また直径だが、倭人伝の記す「径百余歩」は大陸では足を右に出し次に左を出すワンサイクルを「一歩」といい、150センチほどを一歩とするのだが、倭人が造った墓である以上、倭人の一歩すなわち右だけの一歩の単位で「百余歩」としたものだろう。およそ75mだが、現有の岩戸山古墳の後円部の直径は60m余りである。

若干少なめだが、1500年を経ているうちに雨風による浸食があったことは否めず、その点を勘案すれば卑弥呼の「径百余歩」の円墳と見て差し支えないと思う。









「人への分配はコストではなく、投資である」

2021-12-10 15:05:23 | 日本の時事風景
岸田新総理大臣の所信表明演説の中ではいくつかの名文句・成語が要所要所に使われた。

その中で持論の「新しい資本主義」を説明した中の「分配」について語る枕に使われたのが、タイトルの「人への分配はコストではなく、未来への投資である」というのが一番印象に残った。

寡聞にしてこの文言の出所を知らないのだが、これはその通りだと思った。

首相としては企業の経営者への要望としてこれを使ったのだろう。儲け(利益)に応じ、働く者に応分の分け前を与えてほしいというのだが、当たり前と言えば当たり前のことだ。

株主優先でそっちに利益を持って行かれては、企業が成り立たない。株主も「人」には違いないが、株主が企業を食い物にしたら本末転倒だ。

「強欲資本主義」とも言われる「金主(きんしゅ)主義」の時代は分断を生み過ぎた。早く資本主義の原点に戻るべきだ。(※「金主主義」を「金本位(かねほんい)主義」とも言ってよいが、これを「キンホンイ主義」と読むと通貨制度の話になってしまうので使わない。)

資本主義の原点は「人・機械(道具)・土地建物」への投資によって、社会的に有意義な仕事を生み出すことだ。金が金を生むような「金主主義」では実業は成り立たない。

人は金を持ってあの世には行けない。断捨離の第一歩は金への執着を離れることだ。

人は金を持ってこの世に生まれるわけではない。

(※もっとも、石を手に持ってこの世に生まれた人はいる。

四国八十八霊場の何番目か覚えていないが、「石手寺」というお寺は、生前、弘法大師を邪険に扱ってしまった男がこの世を去るときに、生まれ変わったら弘法大師を祀る寺を建てたいと念じ、「お産の時に手の中に石を握った赤子がいたら俺だよ」と遺言したそうだ。

ほどなくして本当に石を手に握った子が生まれ、その子が成長の後に建立した寺を「石手寺」と名付け、弘法大師を祀る霊場の何番目かにランクインしている。執念と言えば執念だ。もし「金を持って」と念じたらそうなるのかは、やったことがないから分からない。)

人は何にも持たずにまさに「素っ裸」で生まれてくる。そして最初に与えられるのが「おっぱい」だ。

おっぱい無くして何人も育つことはできない。おっぱいこそが最初の「分配」である。そしてまた、それこそが生長(未来)への投資だ。

しかも母親は「おっぱい代」を取らない。「コスト」という観念はなく、赤ん坊の要求に応じて何度でも無料で与える。それは子の成長を促すと信じているからだ。まさに「未来への投資」そのものである。

近年は「出産はしたくない。なぜなら将来、子供の教育に金がかかるからだ」というコスト観念に囚われた亡者が多くなった。「金主主義」に感染してしまったのだ。これが少子化の最大の要因だ。

発展途上国のベトナムとか南アフリカなどでは、国民の平均年齢が20代後半だそうだ。若者がわんさかいるのだろう。

それに比べ、今や日本は女性の平均年齢が50歳を超えている。少子化に加えて女性の顕著な高齢化(長寿命化)がそうさせているのだが、団塊世代にとってはかつての「町中子どもだらけ」の風景が懐かしく思い出されてならない。

今度の岸田新総理の所信表明で残念な点が一つある。

それは「首都移転」について何ら考慮していないことである。少なくとも省庁の移転には言及してほしかった。

「デジタル田園都市国家構想」との文言は有るが、もともとあった「田園都市構想」に「デジタル」を冠したのだが、これは似て非なるものだ。

なぜなら新型コロナ下で推進されたように「リモート会議」がデジタル化によって加速されれば、結局「地方に移さずともリモートワークができるじゃないか」と誤断され、地方分散の核である「首都圏分散・省庁の移転」がおろそかになってしまう可能性が大きい。

去年の「緊急事態宣言発出」のあとのブログに書いたのだが、コロナ対策に30兆とか50兆とか使う予算があるなら、せめて20兆もあれば首都分散化の道筋がつくのだ。

東京圏一極集中のままでは、いざ大災害(主要因は地震)という時に、取り返しのつかない災害規模に陥り、まさに国難を招くに違いない。

またしても、後手後手に回っているような気がしてならない。

大阪を本拠地とする日本維新の会は今度の選挙で大幅に勢力を伸ばした。彼らはかつて大阪都構想をぶち上げている。ならば首都圏分散の受け皿として政府に強く要請すべきだろう。

青春時代を老歌!

2021-12-09 10:03:21 | おおすみの風景
私はいま鹿屋市のシルバー人材センターに属しているのだが、そこの「飛躍会」という会員互助会のような組織の中に、同好会が5つ6つあり、自分はその中のカラオケ同好会に入っている。

活動は月に2回で、昼の部と夜の部の1回ずつが当てられている。

11月半ばから新型コロナ感染ゼロの状態が続いており、鹿児島県でも「警戒レベル0」ランクになったというので、感染対策を徹底している飲食店、特に酒類を提供している店でも通常通りの営業が可能になった。

カラオケ同行会では去年(2020年)の6月から1年半の間、自粛ということで活動停止していたのだが、今月からようやく再開となり、初めての活動を8日夜7時から行うことになった。

その場所は鹿屋市朝日町にある「青春時代」という名のカラオケルームで、総勢14名が久々に会合して喉を競った。


複合店舗の2階がカラオケスタジオになっている。

今回はメンバー久々の再会ということで、酒が入ったイベントである。酒を飲みながらのカラオケは感染の危険度が最も高いそうなので、以前のような「談論風発」は避けなければならないのだが、やはり酒が入ると口舌が軽くなる。

ただ歌うにはもってこいで、一説によると喉(声帯)への血の流れが良くなるためだという。これはこれで科学的。

ただし、これは飲めない(飲まない)人については当てはまらず、飲まないで嬉々として歌う女人たちは大したものだ。

店の名が青春時代なので、歌う順番のトップに「青春時代」(原曲を2度下げ)をリモートに入れた。

順番が来て歌い出すと、案の定、店主は大喜びだった。

「青春時代」は作詞・阿久悠、作曲・森田公一で、作曲をした森田公一の率いるバンド「森田公一とトップギャラン」の演奏で森田自身がボーカルとして唄った名曲だ。昭和51年(1976年)にリリースされている。

多分誰もがそう思っているだろうが、歌謡曲界の「花の昭和40年代」のギリギリ入る曲で、森田公一はこの1曲のみヒットして姿を消したが、作詞のほうの阿久悠は、花の40年代を象徴する作詞家だった。

尾崎紀世彦の「また会う日まで」、あべ静江の「みずいろの手紙」、石川さゆりの「津軽海峡。冬景色」などミリオンセラーの常連作詞家で、特に驚かされたのがピンクレディへの「ペッパー警部」で、この二人には、この他多数を提供している。

ピンクレディは一時代を築いており、昭和50年代に10歳から15歳くらいだった女の子たちに大きな影響を与えてた。今なおNHKのど自慢などでは歌い継がれているほどだ。

さすがに今回のカラオケ同好会で唄われることはなかったが、それでも松山恵子、森進一、鳥羽一郎などの懐メロに交じって、最近の楽曲を唄う高齢者も増えて来た。CDやユーチューブの普及がそれに拍車をかけているようだ。自分もその恩恵に十分あずかっている。

昨夜の私の席の向かいに昭和20年生まれという高齢者がいたが、この人の(自身にとっての)新曲の覚え方は、テレビの歌謡番組で歌詞のテロップが表示されるのをビデオを録画して、何度も見て聞いて覚えるそうだ。しかも大体5回聞けば歌えるようになるというから驚く。

昨日は私など全く聞いたことも無いような、藤あや子の歌を唄っていた。男性ながら見事なものである。

かくて青春謳歌ならぬ「青春老歌」の夜が更けていった。




貴種流離譚(記紀点描㉝)

2021-12-06 23:06:17 | 記紀点描
【はじめに】

雄略天皇は「大悪天皇」として恐れられた。それは天皇就任前に多くの兄弟及び従兄弟を殺害しているからである。

兄弟では「黒比古王」「白比古王」、従兄弟では「市辺押羽(イチノベオシハ)皇子」、甥では「目弱(マヨワ)王」、臣下では「円大臣(ツブラノオトド)」がいる。

結局は「目弱(マヨワ)王」が継父の安康天皇を殺害したことに端を発している。

マヨワ(目弱・眉輪)は暗殺された大草香皇子(父は仁徳天皇、母は日向髪長媛)の遺児で、母と一緒に安康天皇のもとに連れていかれ、敵討ちをしたのだった。

この仕打ちに怒り心頭になったのが、安康天皇の弟で次代の雄略天皇であった。マヨワ王が逃げ込んだ円大臣の家を雄略天皇が差し向けた軍隊が取り囲み、とうとうすべて焼き殺されてしまう。

大草香皇子は隅田八幡所蔵の鏡に刻まれた「日十大王」であり、母が日向の髪長媛であった。允恭天皇が病弱で皇位を継げなかったら、大草香皇子が皇位を継承していてもおかしくなかった。

大草香皇子は妹のハタビヒメを雄略天皇の妃にしようとして派遣された根臣(ねのおみ)が、大草香皇子の妹入内の承認のしるしとして根臣に託したのが「押木玉葛(オシキノタマカズラ)」(金冠)であった。

金冠は主に半島の新羅製で、大草香皇子が所有していたということは、母の里の古日向が半島と海運によるつながりを持っていたことを示している。

【市辺押磐皇子の二人の遺児の流離】

雄略天皇に殺害された市辺押磐皇子(いちのべおしはおうじ)は雄略天皇の従兄弟で、父は履中天皇、母は葛城ソツヒコの孫でクロヒメといった。

クロヒメの子は男子がもう一人いて、御馬皇子(みまおうじ)といったが、この弟も雄略天皇の歯牙にかかっている。

雄略天皇の父は、市辺押磐皇子の父・履中天皇の弟の允恭天皇であるのだが、母方は押坂のオオナカツヒメで、母方の系統が全く違っている。

したがってこの惨劇は「母系違いの対立」が大きくかかわっていたと言えるだろう。古代の母系制社会を如実に物語るものだと考えたい。

さて、市辺押磐皇子には二人の男の子がいた。長男は億計(オケ)皇子、次男は弘計(ヲケ)皇子といった。

二人は、父が近江に狩に出かけた時に雄略天皇に殺害されたと知り、自分たちも危ういと悟り、逃避行を決断する。当時7歳と5歳であったというから、当然家臣の誘導による逃避行であった。

まず家臣の日下部連の先導で丹波の余社郡に逃れ、のちに播磨の志染(しじみ)の屯倉を管理する忍海部造細目(ほそめ)のもとに雇われ、「丹波少子(たんばにわらわ)」と名を替える(志染は今日の兵庫県三木市に属する)。

雄略天皇の代が終わり、次の清寧天皇の時に、転機が生じた。

清寧天皇2年(480年)の11月、播磨に遣わされた伊予来目部小楯(おだて)がたまたま忍海部造細目(ほそめ)の新築祝いの席に連なっていたところ、「丹波少子」の二人が祝いの舞を舞った。

その舞が堂に入っていたので、小楯は「上手なものじゃ、もっとやれ」と上機嫌であった。そこで二人は素性を明かす。舞とともに次のように雄叫びする。

<石上(いそのかみ) 振るの神杉 本伐り 末截ひ 市辺宮に 天下治めし 天万国万押磐尊の御裔 僕らま!!>

「石上に所在した市辺の宮で、天皇の位に就いていた市辺押磐皇子の子孫だよ、僕たちは!!」と訴えたのであった。

腰を抜かさんばかりに驚いたのは派遣された小楯である。志染屯倉の管理者細目とともに仮の宮を建てて二人の皇子に恭順した。そしてすぐに都の清寧天皇のもとに連絡を入れ、翌年(481年)、二人の皇子は都へ上がった。

清寧天皇には子がいなかったので喜びようは大層大きく、長男の億計皇子を皇太子とし、次男の弘計皇子は我が子にした。

2年後に清寧天皇が亡くなったので、弟の弘計皇子の方が先に即位し、「顕宗天皇」となった。

播磨の志染で見いだされた時の年齢は、雄略天皇の在位23年と清寧天皇の2年を加えて25年であるから、それぞれ32歳と30歳と若かったはずだが、顕宗天皇の在位はわずか3年、兄の仁賢天皇は11年と短いものであった。

おそらく志染の屯倉での、奴隷に等しい労働を経験したことによる心身の疲労が積もっていたのだろう。労しいことであった。

歴代天皇でこのような境遇に置かれた天皇はいなかったが、それでも何とか皇位に上ることができたのは慰めに違いない。

二人の治世の後に跡を継いだのは、あの雄略天皇の孫の武烈天皇であったが、祖父の性格に似たのか、残虐非道を尽くし、子もなかったために仁徳天皇から始まった「河内王朝」の血統はこの天皇で断絶してしまった。