鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

菜園歳時記(2022.12.13)

2022-12-13 20:16:17 | 日記
先月の13日には苗を植え付けて一週間くらいの小松菜を撮ってブログに載せた時はまだ丈が10センチもなかったのだが、一か月後の今日はもう食べごろの30センチ近くまで成長をした。


3日前には車のフロントガラスが薄っすら凍るくらいの朝の寒さがあったのだが、寒さも何のその、青々と鮮やかな緑を晒している。

小松菜のほかには、春菊はもう何度も食膳に供し、ブロッコリーは二つ収穫した。タカナも順調に育ち、年内には何株か食べられそうだ


ただ、白菜は葉っぱの食害を受けてなかなか成長してくれず、まだ葉が巻くどころかバンザイ状態が続いている。まあ、気長に待つしかないか。

路上の無人販売では立派なやつがわずか100円で売っているらしく、最近、家内が買って来て鍋物に入れて食べた。プロの農家には頭が上がらない。

ところで庭の花壇では夏・秋・冬の競演が見られる。

これはもう毎年の風物詩というべきか、夏の名残の黄色のカンナと菊とサザンカが同時に咲いているのだ。


柿の木の下のここは日当たりは午前中だけで午後からは日の当たらない場所なのだが、夏の花カンナが師走になっても咲く。咲く理由は分からず首を傾げるのだが、11月以降に強くなる冷たい西風が全く吹き込まない場所であることは確かである。

まあどんな理由にせよ、現実に勝る証拠はない。

さて、今年ももうあと半月余りになった。早いものである。

銭湯やカラオケなどに行くと会う人と決まってそんな挨拶が交わされるのだが、その際にたいてい「年を取ると・・・」との枕詞が付くのも致し方ないことだろう。日々が単調過ぎるのだ。

されど「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」。うかうかしてはいられない。

九州邪馬台国説から見る同時代の大和地方

2022-12-11 22:05:29 | 邪馬台国関連
邪馬台国の所在地をめぐって九州説と畿内大和説があり、その中で大和説の方は「邪馬台国という国名がそのまま大和に横滑りしたのだ」と言え、そのことも大和説の大いなる補強になっている。

つまり大和説だとのちの大和王権へのつながりがすんなり説明できるというわけで、そのことだけでも大和説の方が正しいと思いたがる論者も多い。

だが、半島の帯方郡から船で南下し、朝鮮海峡を渡り、九州の末盧国に上陸するまでが距離表記で1万里。これを帯方郡から邪馬台女王国までの距離表記1万2千里から引けば残りは2千里。しかもこの2千里は徒歩で行くので、女王国は九州島内にあるしかなく、行程論からして畿内説は全く成り立たないのである。

ただ私のように邪馬台国九州説(比定地は福岡県八女市)を採る考え方からは、同じ時代の畿内大和はどのような状況だったかを説明しておく必要があると思う。だがその前にヒミコが女王国に君臨していた年代を特定しておかなければならない。

私見では邪馬台女王国が九州八女市に存在したのは、『後漢書』の記述によれば「桓霊の間、倭国に大乱があり、王と為るものがなかったが女王ヒミコが立てられてようやく収まった」とあるが、「桓霊の間」とは後漢の桓帝(在位146~167)と霊帝(在位167~189)の時代に倭人国家群の間で争乱があり、女王ヒミコが共立されたことが分かっているので、まずヒミコの即位は190年頃と推定できる。

またヒミコの死は『魏志倭人伝』によれば「魏の正始8年(247年)に帯方郡からの使者・張政が魏の明帝から授与された詔書と黄幡を持って来た時に、告諭されたことによってヒミコは死んだ」とあることから、こちらは西暦247年と特定できる。

そうするとヒミコは九州八女の邪馬台国において西暦190年から247年まで、55年余り女王であったことが言える。最期はずいぶん高齢だったようだが、後継のトヨが13歳で立てられたことからして、ヒミコも仮に同じ13歳で即位したとすると、その最期の年齢は60代後半から70代の初め頃となり、そのくらいの年ならば不可解というわけではない。

『倭人伝』には「其の人、寿考、或いは百年、或いは8,90年」(人々は長生きで、80歳から百歳もいる)とあり、ヒミコの享年70歳は珍しいことではなかったのだろう。(※この百年を「2倍年歴」とし、50年のことと捉える考えもあるが、そうなると80年は40年になり、40年では昔は短命だったとしてもこれは「寿考(ジュコウ=長生き)」には入らないから、通常の年歴で構わない。)

【卑弥呼時代の畿内大和】

さてこのヒミコがヤマタイ女王国を九州で治めている時代、つまり西暦190年頃から250年頃の畿内大和はどのような統治がされていたのだろうか。以下に簡略に書いておきたい。

その時代、畿内大和にはいわゆる「神武東征」による南九州古日向からの投馬国勢力があった。

投馬国とはもちろん倭人伝に登場する南九州の大国で、戸数は5万戸もあったと書かれた国である。

倭人伝では投馬国には「官が彌彌(ミミ)、副官が彌彌那利(ミミナリ)」がいたと記すが、これは邪馬台国から派遣された官と副官ではなく、実際は投馬国独自の王と女王であった。

南九州古日向には、記紀によれば「タギシミミとキスミミ」の兄弟がおり、この兄弟の「ミミ」と投馬国の王名「ミミ」とは完全に符合しているのである。

「神武東征」とはしたがって南九州古日向の投馬国による東征(東遷)であったとみることができる。

そして橿原王朝を築いたのだが、2代目の綏靖天皇の和風諡号に「タケヌマカワミミ」と「ミミ」が付いていることからも、「神武東征」後に樹立された王朝は投馬国系であったとしてよい。

この橿原王朝の樹立年代を私は『後漢書』に見える「桓霊の間(146年~189年)、倭国大いに乱れ」とあるその大乱の初期の頃だったと考えるので、150年代には投馬国系の橿原王朝が生まれていたと考えている。

神武・綏靖・安寧・懿徳の4代を私は投馬国系の橿原王朝時代とし、この4代の統治期間は親子直系相続であれば約100年ということになり、西暦150年から100年を加えた250年頃、畿内大和では南九州投馬国系橿原王朝が統治していた。

これはちょうど九州八女でヒミコが邪馬台国の女王として君臨していた時代とほぼ重なっている。

要するに九州に邪馬台国があった時代、畿内大和には南九州投馬国系の橿原王朝が生まれており、神武・綏靖・安寧・懿徳の4代がその時期に重なっていたという結論になる。

(※卑弥呼の後継の女王トヨは280年代に南の狗奴国の北進を受けて併呑され、また神武以下4代の後の5代目孝昭天皇からは北部九州の崇神天皇系の天皇系譜が接合されているのだが、それぞれについては機会を改めて書くことにする。)

母親と「授業参観」

2022-12-09 18:24:34 | 母性
昨日の8日は77年前に日本軍の真珠湾攻撃(日米開戦)があった日だが、今年の8日(7月)は安倍元首相が暗殺された日として記憶に残っている。

安倍元首相が、奈良県の近鉄西大寺駅前で参議院選挙候補者の応援演説中に背後から忍び寄った男・山上徹也容疑者の改造拳銃で撃たれ、そのまま息を引き取った事件だが、ちょうど5か月前のことであった。

山上容疑者は精神鑑定を含め、今なお「鑑定留置」という措置が取られており、精神鑑定医の検査の下に置かれているという。

鑑定医は精神鑑定はもちろんだが、成育歴なども詳しく調べているようだ。その中から暗殺の動機も解明できるようだが、12月8日付の朝刊にはその様子が4面記事に紹介されていた。

山上容疑者がこの事件を起こした理由としては、母が旧統一教会の信者となり、1億円という多額の寄付をしたことによって家族の経済状況がめちゃくちゃになり、本人は行きたい高校にも行けず、社会のルートから外れて行ってしまったことにあったことは知られている。

この際、母を憎むという方向には行かず、旧統一教会そのものを憎む方へ思いを募らせて行った挙句、統一教会に肩入れしているとしか思えなかった安倍元首相に刃が向けられたのだった。

このことが安倍元首相を狙撃した直接の理由だが、刃の先が旧統一教会でもなく自分の母親でもなかったのは不思議と言えば不思議である。

彼にとって母親は小さい頃に自殺してしまった父親亡き後、最大の心の拠り所だったので手に掛けられなかったのだろう。また旧統一教会は母親が熱心に通い詰めている場所であり、母親想いの彼には教会は憎いがそこを襲撃したら母親が悲しむかもしれない、居場所がなくなるかもしれない――との想いが心のどこか片隅にあったゆえ、襲撃できなかったのではないか。

鑑定留置中の山上容疑者に寄り添っている鑑定医に対し彼はこんな供述をしているそうだ。

<母親は統一教会の用事があって、学校の授業参観に来なかった。>

このあとを彼の心を忖度して続ければ、<だから母親から見捨てられたようで悲しかった。クラスの友達に引け目を感じた。>だろう。

父親がいて、授業参観でもPTAでも何でも、母親がちゃんと学校に顔を出していたのに、父親が自死し、母親が旧統一教会に入り浸るようになってからすっかり学校に来なくなったのが寂しかったのだ。母親想いの彼にとってこれは非常に由々しきことだったに違いない。

そんな心の傷も母親が気付いてすぐに回復されればしこりとして残らないが、山上容疑者の場合は、母親が完全に統一教会の虜になったためこころの傷はそのまま放置されてしまったのだろう。

ところが私の場合だが、母親は授業参観は無論のこと、PTAの会合にも、何と入学式・卒業式にも来なかったのである。

母親は小学校の教師であり、私の通学する小学校と同じ地域の学校に勤務していたので、どうしても私の小学校の入学式・卒業式と重なってしまい、担任を持っていた母が来ることはできなかった。

このことを考えると私なども山上容疑者同様に暴発してもおかしくない。しかし彼の場合は母親が旧統一教会に多額の寄付をした(させられた)ために家庭が破産状態に陥ってしまったのだが、私の場合はそうではなかった。

父親も教師で、当時の教師の給料は安かったらしいが、母親とのダブルインカムで4人兄弟だったが経済的には困るようなことはなかった。

しかし心理的には山上容疑者同様、母親が常に近くで寄り添うようなことはなかったため、淋しさが常に介在していた。

朝学校に行く時には母親が先に出勤しているので「行ってらっしゃい。忘れ物はないね」もなく、学校から帰って来ても「お帰り。今日はどうだった」もなかったのだ。山上容疑者がこれを聞いたら溜息をつくかもしれない。「嘘だろっ!」と。

慣れてしまう他なかったのだが、慣れ切れなかった弟は中2の時にとうとう学校を休むようになってしまった。そして精神科のもとへ・・・。「過ぎてしまえば」というトップギャランの唄があるが、いまだに過去のこととは思えないのである。

日向国と古日向

2022-12-06 11:22:12 | 古日向の謎
私は史論で日向(日向国)を使用する場合は、奈良時代の和銅6(713年)に古代の日向国から大隅国が分立される前までの古代日向国は「古日向」と呼んでいる。

専門用語を使うと、一般的に今日の宮崎県を指して使う日向(日向国)は律令制制定以後の「日向令制国」で、この「日向令制国」には大隅国も薩摩国も含まない。

「日向令制国」という同じ使い方をすると、大隅国は「大隅令制国」であり、薩摩国は「薩摩令制国」となる。

「日向令制国」はほぼ今日の宮崎県であり、「大隅令制国」と「薩摩令制国」はともに今日の鹿児島県である。

「大隅令制国」と「薩摩令制国」とはもともと古代日向国に属していた。そして無論「日向令制国」も古代日向国の内にあった。

つまり「古代日向国=大隅令制国+薩摩令制国+日向令制国」ということである。

ただ、大隅国が古代日向から分離したことは『続日本紀』元明天皇の和銅6(713)年4月3日の条にはっきりと記されているのだが、薩摩国の分離独立については明確な記述はない。

(※薩摩国の独立は多禰国=種子島と同時だったらしいことが、元明天皇和銅2(709)年6月条に両国の国名が記述されているのが確認され、少なくとも大隅国の独立よりは早かったことが分かっている。)

上の等式で示したように、もともとあった古代日向国は今日の宮崎県と鹿児島県を併せ持った広大な国であったのだが、薩摩(令制)国と大隅(令制)国が分離したあとの宮崎県の領域が「日向国」として古代からの日向の名乗りをそのまま継続したため、歴史を学ぶ際に誤解を生んでいるケースが多い。

もっとも誤解を生むのは神話であり、特にその中でも天孫降臨神話が別名「日向神話」と呼ばれる場合である。

この神話に登場する「日向」は宮崎県と鹿児島県を併せた古代の日向であるのだが、律令制制定以後の「日向国」つまり宮崎県の神話と矮小化されてしまうことが多い。これは意外と根強い先入観であり、神話の解釈を複雑にしている。

端的に言うと「日向神話って宮崎県の話なんだ」という誤解である。

ニニギノミコトの天孫降臨の場所が鹿児島県の霧島山だったり、宮崎県の高千穂町だったり、神武天皇の父とされるウガヤフキアエズノミコトの御陵が鹿児島県鹿屋市吾平町の吾平山上陵だったり、宮崎県日南市の鵜戸神宮裏手の吾平山だったり、と鹿児島県と宮崎県で張り合っているようにも見える。

日向神話のニニギノミコト以下3代の生まれた場所も葬られた場所も、両県で何か所もあり、旅行者はもとより研究者も手古摺っている状況である。

しかしいずれにせよこの論争は鹿児島県か宮崎県かの両県に限定されるので、次のような考え方をすれば解決になるだろうと思う。

要するに両県は律令制制定以前は単にまとめて「日向」と称されていたのだが、律令制以降は3か国に分離独立し「日向・大隅・薩摩」となった。この際、新しい生まれた日向(令制)国を「新日向国」と改称すればややこしいことは何も起こらなかったはずだ。

しかし今さら「新日向国」と言うには「日向国」が長く使われ過ぎているので変えるのは至難の業である。そこで私は律令制制定以前の広大な「日向」を「古日向」と称して使うことにした。

この「古日向」とは今日の鹿児島県と宮崎県を併せた領域であるが、実は南九州のこの古日向こそが私の邪馬台国論の中では戸数5万戸の「投馬(つま)国」そのものであった。

『魏志倭人伝』によると、投馬国では王名を「彌彌(ミミ)」といい、女王を「彌彌那利(ミミナリ)」と言ったが、『記紀』によれば古日向生まれの神武の皇子たちがタギシミミといい、キスミミといい、また「神武東征」後の大和で生まれた皇子たちがカムヤイミミと言い、カムヌマカワミミと言ったとある。

投馬国を南九州古日向と比定したら、中国の史書と日本の歴史書の両書で極めて特徴のある王名に一致を見ることになった。これによって南九州古日向に投馬国が実在し、「神武東征説話は嘘ではない」ことの確信を得たのであった。

和銅6(713)年4月3日に古日向は完全に令制国の「日向・薩摩・大隅」の3か国に分割され、時の大和王権に隷属してしまうのだが、古日向時代の南九州の歴史には栄光ただならぬものがあったことも確信できたのである。

養鶏と万羽ヅル

2022-12-04 16:45:36 | 日本の時事風景
今日、鹿児島県出水市内の養鶏場で今季5例目の鳥インフルエンザによる感染が確認されたという。

ツルの越冬地として「ラムサール条約」にも登録された鹿児島県出水市の荒崎湿地帯(干拓地に生まれた広大な冬の水田地域)には、毎年10月中旬以降さみだれ式にシベリアからのツル(主にナベヅル)が飛来する。

その数はもう何年も1万羽を超え、ナベヅルでは世界の生息数の8割以上が冬の間、この出水市荒崎にやって来て3月の春一番の吹く頃にシベリアに帰って行く。

種の絶滅を危惧する観点から、ナベヅルの越冬地を分散しようという取り組みがあり、山口県の周南町などでも越冬させようとしているが思ったほどの成果は上げられていない。

だが、最大の越冬地である荒崎では別の危惧がある。それは飛来するナベヅルやマナヅルがもたらす「鳥インフルエンザ」だ。

今年は例年になく主としてナベヅルへの感染が多く、11月の始めの頃にすでに何羽かのナベヅルが死んだが、鳥インフルエンザにかかっていたという。

その危惧すべき状況が現実のものとなって現れたのが11月半ばに、ある養鶏場(採卵養鶏)のニワトリが死んだり弱ったりしているのが見つかったことで、病原の遺伝子検査の結果、鳥インフルエンザによる死亡と確認され、直ちにその養鶏場の採卵鶏はすべて「殺処分」となった。

その後も感染が止まず、最初の養鶏場から3キロ圏内で、今日で実に5例目となった。

これら5軒の養鶏場で殺処分されたニワトリの数は合計で70万羽に達したており、おそらく採卵養鶏では県下でも最大規模の出水市全体で、約4分の1に相当するというから驚く。近年稀にみる被害である。

鳥インフルエンザに感染して死んだナベヅルも例年なら、100羽程度だが、今年は1000羽に迫る勢いだそうで、新型コロナ感染防止に出されたような「緊急事態宣言」が必要な事態だろう。

養鶏場の場合たった10羽の感染で数万羽がすべて処分されるのだが、荒崎のツルにそれを適用するわけにはいかない。それでなくても保護の対象だからだ。

ツルにはカモ類から感染するという説が強いが、そうであってもカモだけを規制したり、処分するということも不可能だ。カモトリ権兵衛が何人いても足りないに違いない。

廃鶏にした養鶏業者への保障はなされるのだろうが、頭の痛いことである。

出水のツル観察(展望)所が装いを新たにしたと聞くが、案内する方も訪れる方も養鶏業者の苦衷を察しながら観察をしなければなるまい。