鴨着く島

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G7首脳が揃って原爆慰霊碑に献花

2023-05-19 20:47:14 | 日本の時事風景
今日はG7の首脳が初めて全員で広島原爆慰霊碑に献花するという記念すべき日になった。

特にアメリカの大統領が7年前のオバマ大統領に続き2回目の献花を行った意義は大きい。

前回も今回もアメリカの謝罪表明はなかったが、バイデン大統領が原爆資料館を見学しての個人的な感想は他の首脳たちと変わらなかったと思う。

原爆投下に対してのアメリカの公式見解は「投下しなかったら戦争はさらに長引き、多くの米兵の犠牲を生んだから間違ってはいなかった」というものだ。

あくまでも早く降参しなかった日本が悪いとの見解だが、慰霊碑の前に掲げられている「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」という碑文について広島側は「一般論で、核の使用という過ちを二度と繰り返してはならない」という意味であるとしている。

しかしアメリカの公式見解では「間違っていなかった(過ちではなかった)」と言っているのだから、碑文の「過ち」は日本側にあったと解釈すべきだろう。

だから碑文は次のように変えるべきではないか。

――安らかに眠ってください。過ちを二度と繰り返させませんから――と。

これなら無慈悲にも広島の一般市民の上に原爆を落とすという「戦争犯罪」を犯したアメリカへの抗議の意味が含まれ、多くの犠牲者も安らかに眠ることができるだろう。

この点についてはこれ以上書かないが、今回のサミットのハイライトがこのG7首脳による原爆慰霊碑への献花であり、広島出身の岸田首相の面目はいかんなく発揮されたと言うべきであることは間違いない。

もっとも岸田首相の持論である「核廃絶」については、今回参加のG7のうち国連安全保障会議の常任理事国である英米仏は核を保有しており、しかも日本はその中のアメリカの「核抑止力」(核の傘)に依存している。

つまりアメリカに対する「核廃絶」は土台無理なのである。アメリカの核保有を前提としての核抑止力(核の傘)を必要としている限り、日本の主張する核廃絶は絵に描いた餅に過ぎない。

その大前提は日米安保だ。アメリカの強大な核保有を戦争の抑止力、つまり日本が戦争に巻き込まれないための担保とできるのは日米安保の裏付けがあってこそだ。

したがって、もし岸田首相が本気で核廃絶という本心をさらけ出すのなら、日米安保をやめなければ筋は通らないのである。その勇気があるかと言えば120%無いだろう。自民党政府はことあるごとに「アメリカとのさらなる強固な結びつき」を繰り返し、まさに日本はアメリカの軍事的属領(沖縄化)になるのではという危惧を抱くほどだ。

バイデン大統領が広島に来る際には、オバマ大統領の時もそうであったように、「核のボタン」を入れたスーツケースのようなものを帯同している。ボタンを押したときに核弾頭がいったいどこに飛ぶのか、もちろん秘中の秘だが、対象が核保有国であることは間違いない。

そんなことがあってはならないが、他の核保有国である英仏はそのような臨戦態勢は取っていないことからして、アメリカの核のボタン態勢は恐ろしいの一言だ。


沖縄本土復帰の日(2023.5.15)

2023-05-16 20:49:58 | 専守防衛力を有する永世中立国
去年は戦後米国の施政権下にあった沖縄が本土に復帰してから50周年ということで、岸田首相以下本土から多数の要人が参加して記念式典が行われたが、今年は言わば「裏年」で、ニュースになることさえなかった。

その一方で、中国の海洋進出と台湾有事がクローズアップされ、防衛力増強の掛け声のもと沖縄の米軍基地縮小問題は棚上げされた形だ。

ロシアが旧連邦国ウクライナの東部4州への侵略を始めた去年の2月以降は、南西諸島(宮古・石垣・与那国・奄美)の自衛隊基地(駐屯地)において中国を睨んだ防衛装備の高度化が進められている。

自衛隊基地(駐屯地)の設置に大賛成だった地元先島の島民たちも、ミサイルの配備にはさすがに気もそぞろになっている。

ミサイルの配備は政府の言う「反撃能力の確保」(少し前までは「敵基地攻撃能力」と言ったが、この文言では「専守防衛」を標榜する自衛隊の在り方を逸脱する懸念があるという理由で変えられた)は、向こうが先にミサイルを撃ってきたら反撃する能力を持つことだが、そもそもそれほどの攻撃能力があるから、向こうから狙われるのではないか。

そんな懸念が自衛隊の存在を是としてきた島民たちの間に生まれつつある。政府側は「反撃能力の確保」は防衛力強化の一環との認識だが、現実にそのような高度な武器が使われれば島への危害の大きさは計り知れない。そう島民が思うのもむべなるかナである。

戦後沖縄に米軍基地が置かれ、それが恒久化されたのは、1949年の中国共産党政府の樹立の翌年1月にイギリスが共産党政府を承認してしまったことに端緒がある。アメリカは戦時中に日本軍と戦った蒋介石の中華民国を支援していた関係で、共産党政権を受け容れることはせず、その代わり、沖縄の基地を共産党政権への防波堤にしたのだ。

その直後の1950年6月には金日成主導の朝鮮戦争がはじまり、国連(多国籍)軍が出動したが、一時は半島がほぼ占領される勢いだった。その後盛り返した米軍主導の国連軍が北を押し返し、今日に続く休戦宣言のまま北緯38度線が南北朝鮮の境界となった。

その朝鮮戦争に中国共産党政府自身は政府軍つまり人民解放軍は送らなかったが、「義勇兵」という名の軍隊を送っている。

その軍隊としてのレベルは大したものではなかったようだが、とにかく朝鮮戦争で中国共産党政府は国連軍(中心は米軍)への宣戦布告は出さずに済んでいる。

戦後の一大確執は米ソ間にあり、冷戦が始まった。その大きな確執を前にすると中国の存在感は微々たるものだった。ところが1971年に共産党政府が国連に加盟すると、国連安保理の常任理事国であった中華民国(台湾政府)は国連から脱退を余儀なくされた。そのポストに就いたのが中国共産党政府であった。

沖縄の本土復帰と中国共産党政府の国連加盟がわずか1年の差で行われたというわけだが、中国共産党政府の国連加盟と安全保障理事会の常任理事国就任は今日からすると時期尚早もいいところだったが、米英仏ソはそれを承認したのであった。

アメリカからすれば中国が国連という国際組織に参加すれば「竹のカーテン」と呼ばれていた中国内部の極秘情報がよく分かるようになる――というような期待を抱き、あまつさえ一党独裁の国から民主的な国家へ転換していくというような期待を持ったのだろう。

ところがあに計らんや、中国は「開放政策」(鄧小平)をスローガンとして先進国の投資と技術はどんどん取り入れたが、結局のところ「経済は経済、政治は政治」を頑なに演じ切り、経済力では2010年に日本を抜き、今や米国に追い付かんばかりの発展を遂げてしまった。

アメリカにしてみれば面白くない状況だ。せっかく52年前に貧困な共産国でありながら国連に加盟させ、常任理事国に据えてやり、その後はどんどん投資を行い、経済発展に弾みをつけてやったのに、何だって偉そうに・・・。

アメリカが世界の警察官よろしくベトナム・イラク・アフガニスタンなどへ軍事的コミットをしている間にせっせと経済力をつけまくり、すべての道はローマへをならった「一帯一路」政策を掲げて、世界中の国へ経済的コミットを深めている。

「台湾有事問題」の根底にあるのは、米中の覇権的な対立だろう。

万が一有事となったら、従来の日米安保の解釈なら、日本の自衛隊は日本の国土内だけの「専守防衛」で済んだのだが、安全保障法案によれば、米軍の指揮下に入ることになる。要するに米軍の先兵としてのハタラキをすることになる。

アメリカと中国との覇権的な対立に日本がいやおうなしに介入する、あるいはさせられる懸念が非常に強い。それも日米安保のしからしむるところだ。

そもそも二国間の軍事同盟は戦後の国連憲章では否定され、すべからく集団的な、同志国的な国家間の協議の上で解決を図るのが筋になっている。

日米安保はその点に非がある。前大統領のトランプは「アメリカは日本がやられたら助けに行くのに、アメリカがやられても日本は助けに来ない。こんな不平等な条約があるか!」と吼えていたが、たしかに正論だ。二国間の軍事同盟ならまさにそういうことだ。

だが、米中の対立に日本が加担することは、日本が中国を完全な敵にまわすことが前提である。日本にとって中国は100パーセントの敵だろうか?

日米安保に引きずられて、日本が中国と戦う可能性があるとすれば馬鹿げている。日米安保の存在意義そのものを今一度考えるべきだ。日本が日本らしい王道(恒久平和の道)を行くためにも。


長崎は米国の鬼門

2023-05-14 15:39:46 | 専守防衛力を有する永世中立国
G7(先進7か国首脳会議)の前座(?)である財務・外交・農業など各国のそれぞれの大臣たちが来日し、日本各地で会議を行った(近県では宮崎市で農相会議が開かれている)。

あとは広島での最高首脳会議を残すのみとなった。広島に首脳を招いて岸田首相がどんな「非核の訴え」を出すか見ものである。

ところで長崎では各国の保健相による会議が開催されている。おそらく新型コロナに関する対策などが中心に話し合われたと思うが、参加した保健相たちは揃って長崎平和祈念公園に赴き、原爆慰霊像の前に花束を手向けたという。

この中にアメリカからの保健相がいただろうと思われるが、詳細は知らされていない。

アメリカの政府要人クラスで長崎を訪れたのは、約10年前にオバマ大統領政権下で米国日本大使になったあのケネディの娘キャロライン・ケネディだけである。毎年行われる8月9日の長崎原爆慰霊の日の式典にアメリカ側からは領事館員クラスの参列はあったが、政府クラスではキャロライン・ケネディが最初にして最後だったと思う。

7年前の5月にバラク・オバマ氏がアメリカ大統領として初めて広島の地を訪れ、慰霊碑の前で献花したのは記憶に新しいが、そのオバマ氏にしてからが長崎は訪問していない。

オバマ大統領はヘリコプターで広島まで来ているが、それなら長崎まではあと1時間程度のフライトだったにもかかわらずだ。

何故だろうか?

そこにはアメリカなりの理由がある。理由はたった一つである。

一般市民が暮らすその頭上に原爆(長崎の場合はプルトニウム型)を落とすということはそもそも戦時国際法上でも認められることではないのだが、長崎の場合、真下(爆心)の近くに「浦上天主堂」があり、そこでは当時朝のミサが行われており、信徒の多数が犠牲になったからである。

アメリカには宗教的な国教というものはないが、大統領就任式で新大統領が片手を聖書の上に載せ、もう一方の片手を挙げて「信任に恥じることなく、神と国民に誓う」という形式を取っており、キリスト教国の一端であることに間違いはない。

そのキリスト教国が日本人とはいえ浦上天主堂に集ったキリスト教徒を殺害したとあっては、大きな非難を浴びてしかるべき行為なのだ。

それかあらぬか、戦後まもなくそのことを知ったアメリカ政府は浦上天主堂の再建を申し出たのだが、長崎市側は断ったそうである。キリスト教徒であっても同じ日本人なのに、なぜ浦上天主堂で亡くなった人々を優遇するのかーーという反発心が大きかったに違いない。

その後長崎はアメリカにとって「さわらぬ神に祟りなし」、つまり鬼門と化したのである。オバマ大統領が行きたくても行けなかったわけである。

アメリカ軍は日本との戦争で「良い日本人は死んだ日本人である」というキャッチフレーズを作ったが、これはアメリカ大陸に渡った欧米の開拓民が現地人インデアンとの戦いで生んだフレーズ「良いインデアンは死んだインデアンである」の焼き直しであった。

異教徒は一般市民であろうと死んでも仕方がない――というロジックは戦後アメリカが起こしたベトナム戦争でもイラク戦争でもアフガニスタン戦争でも一貫している。

もちろんそれらの戦争で核爆弾が使われることはなかったし、一般市民への殺戮も時を経て少なくなって来たのは現代社会のネットワークや報道などによる暗黙裡の規制が働いたのだろう(ロシアのウクライナ侵略ではそんなことお構いなしだが)。

それにしても78年前の8月、たった2発の原爆による犠牲者の凄まじさよ。一瞬にして広島長崎あわせて10万、一か月以内にさらに10万、合計20万の無辜の一般市民が殺されたのだ。

今度の広島サミットに債務(国債発行)の上限問題で揺れているアメリカのバイデン大統領は参加できないような報道があったが、それは逃げ口上のように思われる。

同じ民主党からの大統領バイデンが、核廃絶を訴えていたオバマの主張にどう折り合いをつけるか、そこが聞きたい。また地元主催ということで張り切っている岸田首相が核廃絶に向けて何と言うのだろうか。「アメリカの核の傘論」という矛盾に満ちた話はもう聞きたくない。




箸と茶碗

2023-05-11 20:57:04 | 日記
今週の月曜日(8日)の午後、都城の隣り町三股の従姉から連絡があった。

連れ合いが亡くなったというのである。

急な逝去であり、驚いたが、昭和2年生まれの96歳の高齢であったから動揺はしなかった。

死因は肺炎。生前はかなりのヘビースモーカーであったので、「さもありなん」と思うことだった。

実は2年前に訊ねた時に、やや覚束ない手でタバコに火をつけて例の如く吸っていたので、「火の出るタバコは火事を起こす危険性が高いから電子(加熱式)タバコに変えたら」と提案し、加熱式タバコのセットをプレゼントしたのだが、使い勝手に面倒があり、長続きせず元の紙巻きたばこに戻っていたようだ。

しかし亡くなる10日くらい前からその愛煙タバコも吸いたくなくなっていたと聞いたし、食欲も落ちていたというから、この世を去る準備に入っていたと思う。

9日の火曜日がお通夜で翌10日の水曜日が葬儀であった。

この人はカトリックの信者であったので、お通夜も葬儀も都城市内のカトリック教会で行われた。

教会の神父と信者(キリスト教では信徒)仲間による司会とオルガン演奏で、通夜のミサ、葬儀のミサが執り行われたが、祈りの言葉が常に唱えられ、オルガン演奏に合わせて唄われる讃美歌が他の宗教にはない「にぎやかな葬儀」を演出していた。故人にも聞こえていたかもしれない。

葬儀に引き続き告別のミサがあり、教会の祭壇の前にあった棺桶が仲間に支えられて霊柩車に移動し、そのまま市内の外れにある火葬場へ。

火葬場でも神父と信徒による祈りが捧げられ、荼毘に付された。

骨上げまで間があるということで、皆は教会に戻り、集会室で昼食の弁当を囲み、生前の個人の話などをして過ごした。

1時間後に再び火葬場に行き、いよいよ「骨上げ」である。骨壺には基督教らしく十字の文様が描かれていた。キリスト教では本来は土葬なので、火葬場での「骨上げ」は日本式になっており、その際のしきたりも日本式である。

骨上げの最大の特徴は使う箸の形状と材質だ。長さも太さも違う竹製の一本と木製の一本がセットになっているのだ。日常で「違い箸」を忌むのはこの習慣から来ているのだが、骨上げではわざわざ「違い箸」をするのは、逆に違った橋の使い方をすることと一回きりで捨て去ることで、日常から切り離す意味があるのだろう。

また違い箸で二人が同じ骨を挟むのも、日常とはかけ離れた世界を演出しているに違いない。

納棺の際にはどの葬儀でも花々と個人が愛用した物を入れるのだが、キリスト教ではタバコや書物は認められても「茶碗と箸」は入れないそうである。事実、個人の残したタバコの三箱ばかりと、文庫本が数冊入れられたが、茶碗と箸は除外された。

ところで箸は東アジア特有の文化製品だが、箸が東アジアで普及したのはどうも魚を食べる食生活からのように思われる。

魚を食べる際に面倒なのは小骨が多いことだ。しかし先のとがった箸を使えば、小骨でも分けて取りやすい。

これがステーキとなると箸では分けるのに難儀をする。フォーク・ナイフの出番だろう。

日本人を筆頭に東アジア人の手先が器用なのも、この箸を常用してきたことから生まれたのではないだろうか?

箸は主に木製で、スギ材などの間伐材や端材を使って作られる。かつて割り箸の功罪論で「使い捨てはままならぬ」とばかり、マイ箸が流行ったことがあったが、確かに一度使ったきりで捨ててしまうのはもったいない。

しかし日本では戦後の「拡大造林」後の手入れが後手に回って放置山林が増えており、建築用に向かない木材が箸にでもなればそれに越したことはない。

火葬後の骨上げに使う違い箸はもちろん一度きりの使用だが、割り箸はきれいに洗えば園芸用などの用途があり、リユースの優れものでもある。


チャールズ国王の戴冠式

2023-05-07 15:18:50 | 日記
今日のイギリスは新国王チャールズの戴冠式でにぎわった。

エリザベス女王が昨年亡くなり、後継者である女王の長男チャールズ皇太子が、今日、正式なイギリス国王になった。

ウェストミンスター寺院で行われた戴冠式ではイギリス国教会のカンタベリー大司教の先導で、体の一部に「聖油」を塗る「塗油」の儀式が行われたあと、同じ大司教からチャールズ皇太子の頭に王冠が載せられた。

この瞬間に皇太子はイギリスおよびイギリス連邦15か国の統治者となった。

第二次大戦後それまで大英帝国の領域であった連邦諸国はそれぞれが独立した民主国家になったのだが、形式的にはまだ英国の支配下にある。

かつてはイギリスから派遣された「総督」が国王の代官として国を運営していたのだ。

その是非やそもそもイギリスに国王が必要かという議論がエリザベス女王亡きあと、英国民の間で巻き起こっている。特に若い世代では60パーセントの高率で「国王の戴冠式には興味がない」という世論調査の結果だったそうである。

それでも新国王の座った椅子が700年前の物であったり、当の王冠も400年前からの物であったりすることが報じられると、やはり伝統の重さがひしひしと感じられる。

ヨーロッパではまだいくつかの王国が存在するが、現在も家系的に繋がっている王朝としては、やはりイギリス王国が最も古いようだ。

遥か古代に目を向ければヨーロッパの王朝ではギリシャ・ローマの王朝がダントツに古く、その後はキリスト教に基づく神聖ローマ帝国が近代に至るまで続いたが、どの帝国も遠い昔に世襲の王家は絶えている。

そんなヨーロッパの王室をよそに、アフリカで紀元前から続く王家として名乗りを上げたのがエチオピアだった。エチオピア帝国の初代は古代イスラエルのソロモン王だというのだ。ソロモン王は紀元前900年代の王であったから、そこから数えれば優に2900年を数える超長期的な王家ということになる。

戦前の日本では天皇家の初代神武天皇の即位は紀元前660年とされていたから、日本はエチオピアに続く長期の王朝を存続させていたわけだが、エチオピアはハイレセラシエ皇帝がクーデターにより1974年に廃位されて王朝が滅んだので、今日もっとも長く続く王家は我が日本である。

ただし今日の学説では神武天皇の即位の紀元前660年は否定されている。

戦後はいわゆる「皇国史観」(大日本帝国史観)が葬られ、それに代わって「邪馬台国王朝」「崇神王朝」「応神王朝」「仁徳王朝」など多様な解釈による初代王朝への探索が施された。

中でもよく取り上げられたのが、今挙げた「崇神」「応神」「仁徳」各天皇による「三王朝交代説」だろう。この説は早稲田大学教授の水野祐によって唱えられた。皇国史観による天皇の「万世一系」が否定される根拠とも言える考え方であった。

自分も神武天皇からの「万世一系」は有り得ないとする立場だ。私は神武天皇を記紀で神武天皇の息子とされるタギシミミのことと考えれば、古日向(南九州)からの「神武東征」(その実は移住)による橿原王朝はあったとする。

ただその後は第10代とされる崇神天皇(王朝)に取って代わられ、さらにその後、仁徳天皇、欽明天皇で血筋の一系は変わり、最終的に現在の天皇家につながる血筋の初代は天武天皇ではないかと考えている。

天武天皇及び皇后で天武亡きあとに皇位に就いた持統天皇の世代に記紀の編纂が開始され、伊勢神宮の式年遷宮が始まったのも天武天皇の時で、古代天皇制の画期を生んだのが明日香・藤原宮の時代であった。

※天武天皇は第40代。在位673年~686年。皇后であった持統天皇が後を継ぎ第41代。在位687年~697年。皇子の軽太子(文武天皇)に生前譲位した。

天皇の家系がそんなに頻繁に変わるはずはないと思われがちだが、2世紀に古日向から大和入りした神武(タギシミミ)王朝、北部九州から大和入りした崇神王朝、再び古日向からの応神王朝、畿内河内を中心とした仁徳王朝、そして山城の欽明王朝というふうに古代以前の天皇家は5回ほど血筋を変えている(と私は思っている。この点についてはこのブログの「記紀点描」に詳しい)。

それでも天武天皇からの約1350年間はほぼ一系の血筋を貫いているのだ。その一方でイギリスでは1066年にノルマン公ウイリアムがノルマン王朝を開いて以来、現在のウインザー朝まで約960年の間に6王朝が盛衰している。

ウインザー朝などは1917年に今度のチャールズ国王曾祖父のウインザー公ジョージ5世から始まったもっとも若い王朝である。王朝は交代しても国王に変わりはないというのがイギリスの国王の在り方であり、日本でも今後はもう少し天皇家の皇族の範囲を広くとらえ、皇位継承に幅を持たせた方が良いのかもしれない。