男と女が婚姻をして一緒になる(どちらかの戸籍に入る)と、普通、夫妻あるいは夫婦と呼ばれる。
夫妻も夫婦も起源は漢語だが、夫妻のほうは「ふさい」と漢字そのものの訓を重ねており、和語でも「夫(おっと)と妻(つま)」の語順はそのままである。
ところが夫婦の方は「ふうふ」と音読みする分には「夫(ふう)と婦(ふ)」で漢字の意味と語順は一致するのだが、和語(日本語)で「めおと」と呼ぶ場合、漢字(熟語)の並びとは逆転していることに気付かされる。
和語では「め」は「女」の意味であり、「おと」は「男」の意味である。
「めおと」(みょうと)という和語がまずあり、それに対して5世紀の初めに体系的に入って来た漢語(漢籍)を当てはめて「夫婦」としたわけである。
この漢語「夫婦」が使われた例で最も早い日本語文献は日本書紀の「イザナギ・イザナミの国生み神話」だろう。
ギ・ミ二神が天の浮橋に立ってまず「オノコロ島」を生み、続いてその島に天降って二神が、
<よりて共に夫婦(ふうふ)為(な)して、州国(くにつち=国土)を産まんと欲す。>
オノコロ島は多分地球のことではないかと思われるが、その島で「共に夫婦為して」国生みに入る――という。
この「共に夫婦為して」は直読みすれば「ともにふうふなして」だが、このあとの描写で女から先に誘ってはいけないからやり直して男から誘うようにという部分があるのだが、結局最後にはうまく行き、
<ここに、陰陽(めを)はじめて遘合(こうごう)して夫婦となる。>
と、夫婦の交わりを行ったとある。
日本書紀は正確な漢文で書かれており、「共に夫婦為して」は「共為夫婦」が原文であり、「ここに陰陽はじめて遘合して夫婦となる」は「於是、陰陽始遘合、為夫婦」が原文である。
どちらももちろん漢語由来の「夫婦」を使っており、和語の読みである「め(女)おと(男)」とは逆である。
これについて古事記のギ・ミ二神の国生みでは、女が先に誘ったら「水蛭子」(ひるこ)が生まれたのでやり直したという点では日本書紀と同じだが、二神の「交合」のことを「美斗能麻具波比」(みとのまぐはひ)といわゆる万葉仮名で記している。
「美斗(みと)」は「めおと」の転訛で漢語を使えば「夫婦」のことであり、「能(の)」は無論「~の」という接続詞、「麻具波比(まぐはひ)」は「交合」であるから全体としての意味は「夫婦の交合」である。
この意味は日本書紀のと変わらないのだが、ただ夫婦に当たる熟語を書紀が使い「ふうふ」と読ますのは漢文として当然であるのだが、しかし古事記では「美斗(みと)」というように「めおと」の転訛語を使っているという違いがある。
古事記で見るように本来の夫婦の和語は「めおと(みと)」であり、漢語の男の夫が先に来て女の婦が後に来るのとは真逆である。
古事記の表現では「女が先」なのだ。要するに古来の和語で男女のペアーは「女男(めおと)」となっているのである。
夫婦にこの表現を使っている背景には「妻問い婚」という伝統があるのではないだろうか。
魏志倭人伝の時代、すなわち3世紀頃の倭国の風俗にありはしないかと調べたが、嫁取りに関する風俗はなく、ただ「大人は4、5婦、下戸もあるいは2、3婦」という箇所があるだけだった。多くの妻を抱えていたようだが、これらの妻たちは子どもが大きくなるまで実家で育てていた可能性がある。
というのは同じ倭人伝時代の「高句麗」の風俗に興味ある嫁取りが見えているのだ。
高句麗は朝鮮半島南部の三韓より北の現在の北朝鮮域にあった国だが、彼らの婚姻は「婿屋」(むこや)を作ることで始まるというのだ。
婿屋は読んで字のごとく、嫁を迎えようとして許嫁の実家の奥に小屋を建て、そこで同棲し、子どもが生まれて大きくなったら男の実家へ連れて行く――という風俗である。
これは「妻問い婚」であり、また「婿入り婚」でもある。完全な婿入りではないが、子どもが小さいうちは女の実家で育てるというのはある意味で育児の理に適っている。幼児には何と言っても母性が必須である。
倭人の「4、5婦」あるいは「2、3婦」というのも実態はそれぞれの女の実家が育児を担当したのかもしれない。その風俗(伝統)こそが、「めおと」と呼ばれる所以なのではないだろうか。