鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

最後の腐葉土(2024.04.20)

2024-04-20 11:38:58 | 日記

鹿屋市シルバー人材センターでは、平成20年頃から剪定仕事を請け負った際に出る「剪定くず」(枝や葉)を微細に裁断して牛糞などを混ぜて発酵させてできた「腐葉土」を販売するようになったのだが、今年度でその生産を終了することになった。

自分もシルバーセンターの会員なのだが、今年でちょうど10年が過ぎた。たしか3年目だったと思うが、人材センターの玄関先で売られている15キロ入りの腐葉土を何度か購入してみてよかったので、庭土全体にたっぷり撒こうと、軽トラック(ダンプ仕様)一台を発注するようになった。

年に3台ばかり購入し、庭の花壇の土に混入させたり、菜園の野菜用にしてきたが、令和5年度明けの5月くらいまでは腐葉土の在庫があるというので、これが最後と思い、一昨日注文したところ、今日の午前中に配達を受けた。

軽トラック仕様だから、重量はせいぜい200キロくらいだろうか、それでも15キロのビニール入りの小分けしたものに比べればかなり廉価だ。

まだ去年の12月中に運んでもらった1台分の余りが少しあるので、ここでしばらく待機だが、これに油粕を加えて寝かすとさらによい腐葉土になる。

今回でこれまでに軽トラック20台分くらいは購入したことになる。

庭土にとって最良の堆肥であった。おかげでここ3年ばかりは花も野菜も思い通りに作れるようになった。

我が家では台所の生ごみを庭に穴を掘って入れ、入れるたびに土をかぶせて来たのだが、その土の代わりにこの腐葉土を使えば、土はさらに良くなるだろう。

庭木の栄養源としても役に立ちそうだ。

 

 


日本人の祖先は3系統

2024-04-18 21:25:21 | 日本人の祖先

今朝(4月18日)の地元の新聞の社会欄に興味ある記事が載っていた。

<日本人祖先3系統>という見出しの記事で、理化学研究所などが現代の日本人3200人分のゲノムを分析して得られた日本人の起源に関し、大きく3系統からなると結論付けている。

その3系統とは「縄文系」「関西系」「東北系」で、縄文系は沖縄に多く、関西系は大陸の黄河周辺にいた漢民族に近く、東北系は様々な要素がまじっていて由来がよく分からない――という。

沖縄が縄文系に近いことは人類学的にはほぼ常識になっているし、関西に渡来系の人々が多いことも常識のうちだ。

ところが今回の発表で不可解な点が見られたのは「東北系」の人々である。

東北系は沖縄・宮古島の古代人や、4~5世紀頃の朝鮮半島の人に近い――とある。

このうち東北系が沖縄の宮古島の古代人と近いという点だが、東北は関西人の影響が少ないうえに、もともと沖縄と本土の北に住んでいた縄文系の人々とが近縁の関係にあったとしてもおかしくはない。

ところが不可解なのは「東北系は4~5世紀頃の朝鮮半島の人に近い」という点で、朝鮮半島は大陸からの渡来人の通り道であり、関西人と同じように大陸の黄河周辺に住んでいた人々に近いと思われていたのだ。

これをどう解釈するかだが、2~3世紀の半島と日本列島の情勢を描いた「魏書烏丸鮮卑東夷伝」(通称:魏志倭人伝)では半島南部の「三韓(馬韓・辰韓・弁韓)」では倭の水人の習俗である「文身」(身体に施す入れ墨)が普通に見られたという。

このことから九州から倭人の水運に長けた人々が半島に多数渡っていたことが知られ、弁韓の伽耶鉄山の採取及び交易に従事していたようである。

この九州の倭の水人の多くが古く縄文時代から水運を担っていたことは、例えば、鹿児島県垂水市の柊原貝塚出土の黒曜石などから判明している。遠くは佐賀県伊万里市の腰岳産の黒曜石、また大分県国東半島沖の姫島産の黒曜石が見つかっている。

九州島には関西系と同じように大陸の北方系漢族が渡来しているが、かれらは水運には疎く、水運はもっぱら九州在の縄文系の水人が担っており、九州は縄文系水人が繫栄していた。北部九州の宗像(胸形)族、安曇族そして南九州の鴨族である。

魏志倭人伝によると半島中部の帯方郡から魏王朝の役人が船出し、朝鮮海峡を渡って九州島に上陸したことが書かれているが、これらの使者を乗せてきた船は九州の縄文系倭人であったと思われる。

したがって朝鮮半島の南半分は倭人伝の当時、倭人の国と言ってよかった。

このことから上掲の「東北系は4~5世紀頃の朝鮮半島の人に近い」ということが言える。角度を変えて言えば「4~5世紀頃の朝鮮半島の人は沖縄の宮古島人と近い縄文系の東北人に似通っている」ということだ。

いずれにしても朝鮮半島の古代の一時期、日本の東北系の人たちと近縁の人たちがいた。そしてこの原因は倭人伝の時代に主として九州島から縄文系の倭の水人が大量に往来していたからだろう。


扇風機の初登場

2024-04-16 16:23:56 | 日記

これを書き始めた午後4時現在の外の気温はちょうど25℃。室内は26.6℃とどちらも夏日になった。

昼に家内と二人で吾平町にある玉泉寺公園の藤を見に行き、ついでにおにぎり昼食を摂って来たのだが、空は晴れて強い東風が吹き、帰宅後の室内はとうとう26℃を超えていた。

玄関口の気温計を確かめると25℃だった。

さすがにまだエアコンで冷房を入れるほどではないので、別の部屋に眠っていた扇風機をリビングに持って来てスイッチを入れた。

ホッとしたこと言うまでもない。さっきからシャツ一枚になって涼んでいる。

というのは菜園にゴーヤ用の畝を作り、透明ビニールでマルチをしたあと近くの量販店で購入して来た苗を3株定植したのでやや汗ばんだからだ。

植え付けたあと何か支柱をと思い、見回すと紅カナメモチ(レッドロビン)の灌木にちょうど伸び切った枝が数本見えたので剪定がてら3本切り取り、それを支柱にした。

ゴーヤは沖縄特産の亜熱帯性の作物なので、透明ビニールで畝を覆い、地温を上げなければならない。

すでに苗からは細いツルが伸びているので、支柱にした紅カナメモチの枝葉に巻き付けば強い風でも苗が倒れることはない。

すくすくと育つのが楽しみだ。

 


「夫婦」を「めおと」というわけ

2024-04-15 14:05:28 | 母性

男と女が婚姻をして一緒になる(どちらかの戸籍に入る)と、普通、夫妻あるいは夫婦と呼ばれる。

夫妻も夫婦も起源は漢語だが、夫妻のほうは「ふさい」と漢字そのものの訓を重ねており、和語でも「夫(おっと)と妻(つま)」の語順はそのままである。

ところが夫婦の方は「ふうふ」と音読みする分には「夫(ふう)と婦(ふ)」で漢字の意味と語順は一致するのだが、和語(日本語)で「めおと」と呼ぶ場合、漢字(熟語)の並びとは逆転していることに気付かされる。

和語では「め」は「女」の意味であり、「おと」は「男」の意味である。

「めおと」(みょうと)という和語がまずあり、それに対して5世紀の初めに体系的に入って来た漢語(漢籍)を当てはめて「夫婦」としたわけである。

この漢語「夫婦」が使われた例で最も早い日本語文献は日本書紀の「イザナギ・イザナミの国生み神話」だろう。

ギ・ミ二神が天の浮橋に立ってまず「オノコロ島」を生み、続いてその島に天降って二神が、

<よりて共に夫婦(ふうふ)為(な)して、州国(くにつち=国土)を産まんと欲す。>

オノコロ島は多分地球のことではないかと思われるが、その島で「共に夫婦為して」国生みに入る――という。

この「共に夫婦為して」は直読みすれば「ともにふうふなして」だが、このあとの描写で女から先に誘ってはいけないからやり直して男から誘うようにという部分があるのだが、結局最後にはうまく行き、

<ここに、陰陽(めを)はじめて遘合(こうごう)して夫婦となる。>

と、夫婦の交わりを行ったとある。

日本書紀は正確な漢文で書かれており、「共に夫婦為して」は「共為夫婦」が原文であり、「ここに陰陽はじめて遘合して夫婦となる」は「於是、陰陽始遘合、為夫婦」が原文である。

どちらももちろん漢語由来の「夫婦」を使っており、和語の読みである「め(女)おと(男)」とは逆である。

これについて古事記のギ・ミ二神の国生みでは、女が先に誘ったら「水蛭子」(ひるこ)が生まれたのでやり直したという点では日本書紀と同じだが、二神の「交合」のことを「美斗能麻具波比」(みとのまぐはひ)といわゆる万葉仮名で記している。

「美斗(みと)」は「めおと」の転訛で漢語を使えば「夫婦」のことであり、「能(の)」は無論「~の」という接続詞、「麻具波比(まぐはひ)」は「交合」であるから全体としての意味は「夫婦の交合」である。

この意味は日本書紀のと変わらないのだが、ただ夫婦に当たる熟語を書紀が使い「ふうふ」と読ますのは漢文として当然であるのだが、しかし古事記では「美斗(みと)」というように「めおと」の転訛語を使っているという違いがある。

古事記で見るように本来の夫婦の和語は「めおと(みと)」であり、漢語の男の夫が先に来て女の婦が後に来るのとは真逆である。

古事記の表現では「女が先」なのだ。要するに古来の和語で男女のペアーは「女男(めおと)」となっているのである。

夫婦にこの表現を使っている背景には「妻問い婚」という伝統があるのではないだろうか。

魏志倭人伝の時代、すなわち3世紀頃の倭国の風俗にありはしないかと調べたが、嫁取りに関する風俗はなく、ただ「大人は4、5婦、下戸もあるいは2、3婦」という箇所があるだけだった。多くの妻を抱えていたようだが、これらの妻たちは子どもが大きくなるまで実家で育てていた可能性がある。

というのは同じ倭人伝時代の「高句麗」の風俗に興味ある嫁取りが見えているのだ。

高句麗は朝鮮半島南部の三韓より北の現在の北朝鮮域にあった国だが、彼らの婚姻は「婿屋」(むこや)を作ることで始まるというのだ。

婿屋は読んで字のごとく、嫁を迎えようとして許嫁の実家の奥に小屋を建て、そこで同棲し、子どもが生まれて大きくなったら男の実家へ連れて行く――という風俗である。

これは「妻問い婚」であり、また「婿入り婚」でもある。完全な婿入りではないが、子どもが小さいうちは女の実家で育てるというのはある意味で育児の理に適っている。幼児には何と言っても母性が必須である。

倭人の「4、5婦」あるいは「2、3婦」というのも実態はそれぞれの女の実家が育児を担当したのかもしれない。その風俗(伝統)こそが、「めおと」と呼ばれる所以なのではないだろうか。

 


大姶良川土手の鯉のぼり

2024-04-15 11:06:15 | おおすみの風景

所属する池園町町内会の4月の行事「鯉のぼり上げ」が14日に行われた。

去年初めて行い、好評だったので今年も取り組むことになった。

昨年は4月16日の日曜日で、西風が強くやや寒かったが、今年は逆に東風が吹きつけた。

その分上げるには好条件と言える。

去年は6本だったが、今年は倍の12本プラス旗のぼりが1本加わり、合計13本が上がった。

昨日の午後、近くの山林から伐り出した孟宗竹のかなり太い物が13本、固定するための鳥居型の支柱用の細目の竹や番線を準備し、当日は朝の10時から建て始め、1時間半ほどですべて完成した。

建てている途中、天候は曇り空からほんの少し雨模様を見せたのだが、建て終わるころにはすっかり晴れてどの鯉のぼりも強い風になびいて勢いよく泳いでいた。取り組んだ人たちの笑顔が見える。

この立派な土手は昔は無かったそうで、その頃を知っている人は、川は右手の田んぼの方へ流れていたという。川幅も今の3分の1程度で遊ぶのにちょうどよかったとも言う。

いま川の水量はとても多いように見えるが、これは普通作の水田の耕耘がそろそろ始まり、水を引き入れるためにやや下流で電動式の井堰が上げられているためだ。

レンゲ田がきれいだが、もう間もなくトラクターが入って鋤き込まれ田んぼの良質な肥料となる。