鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

成會(会)山陵の真相

2024-06-18 14:45:36 | 『続日本紀』散策
西暦700年は文武天皇の4年に当たり、『続日本紀』によるとこの年の6月3日に南九州で大きな事件が発生している。

その事件とは、

<朝廷から派遣された南島への国覓(ま)ぎの使い「覓国使(べっこくし)」が南九州(古日向)において、三か所の豪族によって脅迫を受けたが、これに対して、筑紫の惣領(のちの太宰府長官)によって彼らを決罰させた>

というものである。

正確に言うと、700年6月3日の記事は「太宰府によって南九州の豪族を懲らしめた(懲らしめ終わった)」と報告があったということで、この6月3日に南島への使いに対して脅迫事件があったのではない。

その決罰を朝廷が発令したのは文武元年(697年)の4月13日に南島への使いが出発し、翌年の11月4日に復命してから脅迫があったことが報告され、それに基づいて朝廷から筑紫惣領に対して「南九州のあの豪族たちをを懲らしめよ」という命令が出されたのであろう。

この翌月、12月4日の記事に「大宰府をして三野、稲積の二城を修せしむ」とあるが、三野は宮崎県内、稲積は鹿児島県内であるから、脅迫事件を起こした南九州の豪族を討伐するため攻撃の拠点だと思われる。

だが、その攻撃拠点の完成や、討伐に関しての記事はないので、どの程度の「決罰」だったのか類推するほかない。

700年の「決罰」の記事から2年後の大宝2(702)年の8月1日の記事に、

<薩摩・多祢(種子島)は王化を受け入れず、命令に逆らったので兵を発して征討する>

とある。ここで明らかに朝廷の征討軍が薩摩と種子島を攻撃したことが見え、2年前の「決罰」の真相が垣間見られる。

翌9月14日には、

<薩摩隼人を討った軍士に勲を授けたが、軍功により褒美には差をつけた>

とあり、薩摩と種子島への討伐は成功したようである。さらに薩摩国を「唱更国」とし、国司も置いているし、要害の地には薩摩隼人を抑えるための「柵」(砦)を設けている。

ただし、700年6月3日の記事には薩摩半島側の豪族、薩摩比売のクメ・ハズ、衣君の県(あがた)・テジミと並んで肝衝難波(きもつきのなにわ)が記されているのだが、こちら(大隅半島側)は以上のような討伐からは免れている。

702年には薩摩半島側は征服されて「唱更国司」(のちの薩摩国司)が赴任し、防衛拠点(柵)が置かれたのだが、大隅半島側は抵抗が大きかったため、薩摩に送れること11年後の713年4月になってようやく大和王権に屈し、大隅国が置かれた。

(※この古日向から大隅国が分立した際の戦乱は大きかったらしく、713年7月の記事によると、征討将軍・士卒1284人には功に応じて勲章が授けられている。)

ともあれ、『続日本紀』の文武天皇4)(700)年6月3日の記事には、当時の南九州の豪族の実名が初めて記されたことで注目される。

同じこの700年の記事で注目すべきが、2か月後の8月3日の記事だ。その記事とは、

<8月3日、宇尼備(うねび)、賀久山、成會山陵及び吉野宮の辺り、樹木、故無くして彫枯す>

で、「畝傍山・香久山・成會山陵、それに吉野宮界隈の樹木が原因不明の枯れ方をしている」というのである。

樹木が枯れる現象では「マツクイムシ」による虫害が著名だが、虫害なら古代人といえども「原因不明」にはしないだろう。あるいは目に見えない細菌やバクテリアの類によるものだろうか。

その穿鑿はさて置き、私が注目するのが「成會山陵」である。

畝傍山・香久山とくれば大和三山の残りの「耳成(みみなし)山」が想起されるではないか。しかも「成」という漢字が共通である。

私は耳成山を「みみなりやま」と読んで、南九州に存在した投馬国の王「ミミ」の后「ミミナリ」を当てている。

したがって耳成山とは「ミミナリの陵墓」つまり「ミミナリ山陵」と考えているので、この「成會山陵」とは「耳成山」が山陵であり、そうであれば被葬者は耳成こと投馬国由来のミミナリ(皇后)であってよいことになる。

そのことは伏せておいて、成會山陵について御所市の教育委員会に問い合わせてみた。

そうすると返事はこうだった。

――あの『続日本紀』の記事の成會山陵は成相古墳のことです。成相は「ならい」と読みますが、この墓は馬見古墳群の中にありますが、敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄の墓と言われています。

敏達天皇はいいとしても皇子の押坂彦人大兄にはピンとこなかった。34代舒明天皇の父であり、33代推古天皇まで母方が豪族蘇我氏だったのを断ち切ったそれなりに重要な系図の中の人であった。

――成相陵墓については『延喜式』の「諸陵式」に記載がありますよ。

とも言われたので、調べてみた。たしかにあった。それによると、

<成相墓 南北20町 東西25町>

誰の墓とは書かれず、場所も特定されていないが、兆域(陵墓の規模)を見て目を疑った。

町とは古代の長さの単位でおおむね100mである。

そうするとこの成相墓の墓域は南北が2km、東西が2.5kmにもなる。あの仁徳天皇陵と言われる世界最大級の大仙山古墳でも陵域の南北は8町、約800mに過ぎない(この長さはリーズナブルだ)。

これからして文武天皇4年6月条に登場した「成會山陵」が馬見古墳群中の「成相墓」では有り得ない。

この大きさから考えれば、耳成山が相当するだろう。つまり耳成山こそが「成會山陵」であり、延喜式諸陵式に記載の「成相墓」そのものだと言えるのではないだろうか。

その被葬者とは、古日向から移り住んだ最初期の大和王権(橿原王朝)の初代「神武天皇」(私見ではタギシミミ)の皇后(ミミナリ)であろう。

具体的な皇后名はミシマノミゾクイミミの娘で「神武天皇」(私見ではタギシミミ)の妻になった「イスケヨリヒメ」がふさわしい。






梅雨の晴れ間の田植え行事(06.16)

2024-06-16 15:15:22 | おおすみの風景
今日は父の日だからというわけではないが、所属する町内会で「田植え行事」が行われた。

昨日までは梅雨らしい不順な天気だったが、今朝は日の出から晴れ間が覗き、10時の田植え行事になるとほぼ快晴になった。東風が気持ちよく吹いている。

どちらも同じ一反(300坪)の広さの田んぼが二枚あるのだが、そのうち一枚にうるち米を植え、もう一枚にはもち米を植えて行く。

二枚の田んぼに、まずは田植え機で植え付けて行く。6条植えの田植え機のスピードは速い。見る間に端から端までを往復して行く。

そのあと、残り(と言っても全体の3%くらいだが)を人の手で植えて行く。

今年は小学生が5名参加した。恐る恐るだが、泥田に足をとられながらも一生懸命だ。足の感触、田んぼの匂いを感じたことだろう。

田植えが終わってからこの子たちは用水路に入って水遊びをしたから、そっちの方が強く印象に残ったかもしれない(😄 )。

11時半過ぎにはすべて終わり、片付けたあとは集落の公民館の広い庭で参加者一同で弁当をほうばった。心地よい風が吹き抜ける。

梅雨の晴れ間の半日、楽しい田舎のレジャーだった。


大隅半島の弥生時代の不思議

2024-06-15 11:20:01 | 古日向の謎
先日、鹿屋市吾平町の吾平振興会館で始まった「市民講座 大隅にいた先覚者とその史跡探訪」を聞きに行った。

講師は吾平町在住の朝倉さんという人で、歴史に造詣が深く今度で2回目の講座ということであった。

開講の挨拶で「私は大学時代に地質学を学んでいました。卒業後は某セメント(コンクリート?)会社に就職し、主として研究畑にいました。」と言われた。

郷土の歴史研究は経歴とは関係なく、自分や自分の家のルーツにまで関わることなので、誰でもそのあたりから取り組んでいけるという特徴がある。

別言するとその入り口は「広き門」であり、そこに現住する人や同じ郷土出身者と共有できる点が多々あり、話題性には事欠かない分野でもある。

講座は6月から来年1月までの8回だが、配られた講師の年間計画表を見ると大隅の郷土で活躍した鎌倉時代の禅宗の僧侶から、戦前に至るまで13名の偉人を網羅しており、まとめるのに大変な労力を要したことが窺える。

力作と言っては失礼だが、一年間の講座聴講が楽しみである。

6月8日に行われた第1回講座は高山(現肝付町)の江戸末期の教育者「宇都宮東太」という人物と、その弟子になって教養を積み、幕末には勤王に精励した「是枝柳右衛門」という人物を取り上げた。

高山の修験道家であり郷士でもあった宇都宮家に生まれた東太は幼少時代から紀州の大峰山に入って修行し、帰郷後には儒学・歌道・武道に励み、家塾を開いて弟子は千名になるほどの教育者となった人である。

この宇都宮東太の弟子となり、幕末の風雲の中で勤王を志した人物が是枝柳衛門であった。

この人は鹿児島市の南郊谷山の商家出身で、家業の衰退を機に15歳で大隅の高山に移り住み、波見港で水揚げされる魚を仕入れて行商で暮らしを立てていた。

たまたま施術を習い覚えた鍼灸治療で宇都宮東太の父・東学院と繋がり、その縁で息子の東太の弟子となった。

その後17年ののちに再び郷里の谷山に帰り、高山の宇都宮東太によって儒学その他に習熟し、中でも歌道は勤王家の中でも抜きんでており、塾を開いて教えるほどになっていたという。

ペリーが浦賀に来航して開国を迫り、さらにハリスが通商条約を締結するため来航し、ついに朝廷の勅許を得ずして大老井伊直弼が調印するという事態に勤王家はみな憤った。

是枝柳右衛門も「斬奸状」したためて討ちに行こうとするが、水戸・薩摩浪士によって先に討ち取られ果たすことができなかった。

その後は勤王家として知られ、京都の公家・中山家や近衛家などにも出入りできるようになった。

しかし討幕の志士「精忠組」のメンバーが寺田屋騒動(文久2=1862年4月)で討ち取られると、それに加担した罪を着せられ、屋久島に流された。

元治元年(1864年)には赦免されたが、屋久島から引き揚げずに当地で病没した。享年48歳。

明治22年に帝国憲法はじめ両議院などが発令され、その恩赦で是枝柳右衛門は士族ではない庶民としては異例の「従四位」という高位が与えられたという。

(※同じこの恩赦では西南の役で朝敵となった西郷隆盛も名誉回復され、「正三位」を追贈されている。)

さて以上が朝倉講師によるレジュメを要約したものである(一部調べて加えた部分あり)。

是枝柳右衛門の庶民ながら勤王家として全国的に活躍したという数奇な人物の略伝だが、私は柳右衛門が17年も高山に滞在したのであれば高山のどこかに店でも構えていたのか、と気になり、手許の『高山郷土誌』をめくってみた。

郷土史家の竹之井敏先生が「江戸時代に商家のあった野町に昔から塩屋と言われるところがあるので、そこが柳右衛門の店だったのでは」という説を出しておられたことを知った。

・・・久し振りに『高山郷土誌』をめくってみていると、第二編の「先史・原始時代」の中の「第二章 旧石器から古墳時代」ではその第三節が弥生時代になっているのだが、この記述の中で「ああ、やっぱり」と思わされる部分があった。

この第二編を担当したのは高山町出身の県埋蔵文化財センター次長をされていた中村耕治氏であるが、弥生時代の発掘状況を概観しながら、中村氏は次のように述べているのだ。

<鹿児島県の弥生時代は、中期の段階で飛躍的に発展し、その中心となる山之口式土器は種子島の下剥峰遺跡等でも出土しており、広い範囲に伝わっていることが知られている。また、北九州で発展している甕棺葬も金峰町下小路遺跡で発見されている。

ところが、弥生時代後期になると遺跡の数が減少する傾向がみられる。この現象が何に起因するのか明らかではないが、単に調査例が少ないということではなさそうである。>(『高山郷土誌』115ページ)

第2段落(後半)の記述が我が膝を叩かせた部分である。

実は中村氏には「東九州自動車道建設に関わる発掘調査」の担当者でもあったことがあり、その頃に会長をしていた大隅史談会の発表会に講師として来ていただいたことがあった。

その際、発見された遺跡の中で弥生時代後期の遺物が極端に少なくなるという話を、データとともに示されたのであった。

「やっぱり、高山の調査でもそうなんだ」と了解されたのである。

東九州自動車道の経路に高山町は含まれておらず、鹿屋市・大崎町・志布志市が通過自治体であるのだが、そうなると弥生時代の後期に遺跡も遺物も大いに減少するという傾向は大隅半島全体で言えることになる。

この真因は何なのか、高山の事例の時に中村氏は「何に起因するのか明らかではないが、単に調査の事例が少なくなったからではなさそう」と疑問を提示されたが、私はちょうどこのころに古日向(投馬国)から列島中央部への大規模な「移住的東征」が行われたからだろう、と考えている。

「東征」と言うよりも「東遷」の方がふさわしいが、北部九州まで航行し、それから瀬戸内海航路をとり、或いは安芸(広島)に、或いは吉備(岡山)に――という風に定住地を求めて行ったのではないか。

それからもう一つの航路が太平洋黒潮航路だった。この航路上の定住地としては土佐(高知)、さらに紀州(和歌山)だったに違いない。

紀州の紀ノ川沿いに船行して行った一党も多かったようで、いわゆる神武東征説話における「鵜飼い」(漁民)や「尾のある人」(猟師)などの記述は南九州との関連を思わせる。

いずれにしてもこの点は推理でしかないのだが、古日向域(南九州)における弥生時代後期の遺跡(遺構・遺物)の発掘数の少なさは、その時代の何かしらの社会的な大変動を思わせる。




一極集中は収まらず

2024-06-12 10:37:17 | 日本の時事風景
2014年に人口減による消滅の危機が叫ばれた地方の自治体のうち、約4割の自治体で2020年度の人口予想を上回ったという。

一概に喜んでいいのか分からない。たしかに予想された危機的な減少は免れたのは評価すべきだが、絶対的な減少は続いているのだ。

予想されたような危機的な減少にならなかったのは主に都市部からの人口流入、つまり移住に負っているという。それ自体悪いことではないが、危機的だった自治体が人口回復するには焼け石に水だろう。

岸田政権下ではその対策として「デジタル田園都市国家構想」を打ち上げた。

の主旨は「地方にいてもデジタル化を進めれば都市部に引けを取らない生活ができるから、生まれたふるさとから離れないで欲しい」というものだが、大都市に大学や専門教育機関が集中し、大きな企業もあるので、高卒後の若者がそちらに流れてしまう歯止めにはなっていない。

結局、大都市部への人口集中は相変わらず続く。

その限界値というようなものがあるのかと言えば、自由主義社会では想定できない。ひとりひとりの自己判断、自己責任に任せるしかない。

それを待っていたのでは遅すぎる。究極の対策は首都分散だろう。

東京への一極集中が地方自治体消滅すなわち「超過疎化」の最大の原因と考える必要があり、地方から学びに出てきた若者たちの自己判断に任せている現状は生ぬるい。

東京へのこれ以上の集中は首都直下型地震や相模湾トラフ、東南海トラフ由来の大規模な震災に対してあまりにも危険である。特に地方から上京して来た若者たちはまさに「飛んで火に入る夏の虫」の如くなってしまう。

東京から各省庁や大企業の本社機能を、地質的に安全な地方へ移転すべきだろう。文化庁の京都移転くらいでは話にならない。

岸田内閣はアメリカの極東防衛策に乗っかり、組閣早々「5年間で43兆円の予算を付ける」と宣言したが、そんな金があればまず「身の安全」を先行させた方がよい。

日本の「防災田園国家」化のために、首都分散を最優先にする時に来ている。アメリカに対しても、日本が首都圏を中心に壊滅的な被害が出たら極東防衛もクソもないぞと言ってやればよい。



梅雨入り(2024.06.08)

2024-06-09 21:05:35 | 日記
鹿児島は昨日(6月8日)、梅雨入りとなった。平年より9日遅かったという。

昨日も今朝もどんよりとした曇り空から時おり小雨が降った。

日中は一時晴れ間ものぞいたが、ほぼ梅雨らしい空模様だった。

梅雨に似合うのが紫陽花だ。我が家には庭の西側にガクアジサイが10株くらいあるのだが、残念ながら地植えの物はすべて青系統の花である。


ガクアジサイが覆いかぶさろうとしているのは、飼い犬ウメの小屋だが、彼女はどうしても入ろうとしないので、この小屋は購入してからもう12年くらいは無人(無犬)のままだ。

今年13歳のウメは市内のとある食堂で飼っていた雌犬が4匹ばかりの子犬を生み、ネット上で「もらってください」という情報を得て、貰いに行った犬である。

ウメと名付けたのはうちの娘だが、私はもっとしゃれた名前を考えていたのが、押し切られてしまった。

ウメを貰って来て2週間くらいは家の中で飼っていたのだが、番犬にするつもりだったので犬小屋を購入し、庭に下ろして犬小屋の脇にパイプ支柱を立て、それに鎖を固定したのだが、キャンキャン吼えるだけで一向に入る気配はなかった。

小屋の中にエサ入れを置けばそのうちに慣れて入るだろうと思いそうしたのだが、何度やっても入ろうとしない。

こっちがしびれを切らしているうちに、雨が降ったり暑かったりして床下にもぐることを覚えたのが運の尽きだった。

以来、ウメはテラスの下のコンクリートの部分を居場所と決めたようである。床下のコンクリートとは建築用語でいう「犬走り」なので、まさにどんぴしゃりではないか。

正確に言うと「犬走り」ではなく、「犬ベッド」だが、この居場所はよほど気に入ったらしく、もう12年半はそうしている勘定になる。

よく飽きもせず、と笑う他ないのだが、真夏でも床下は案外涼しいらしく、ウメが熱中症になったことはこれまでに一度もない。


最近頭の毛に白いものが混じり始めたウメの寿命もあと3年くらいだと思うが、アジサイに埋もれそうな無犬小屋はまだそのまま残るだろう。

よく見ると、まつ毛が真っ白だ。また、人間だと年を取るほどに目の周りに小じわができ、ともすると隈取りが現れるものだが、ウメはむしろ目の周りが白くなっている。

何にしてもウメの後釜は、ちゃんと犬小屋に入るように厳しくしつけようと思っている。