鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

昨日の友は今日の敵

2024-06-08 19:27:07 | 専守防衛力を有する永世中立国
今月の6月6日は80年前に行われた「ノルマンジー上陸作戦」の記念日だ。

第2次大戦でナチスドイツに占領されたフランスの解放を狙ったものだが、ナチス軍にしてみれば東部戦線でソ連と戦っていた上にさらに西部で連合軍との戦闘に入らざるを得ないという消耗戦に陥った日でもある。

この上陸作戦の10か月後に追い詰められたヒトラーの自死によって大方の戦闘は終わった。

主義主張は違うが、ナチスと戦った点では英米を主体とする連合軍とソ連軍は同じ功績を担ったことになり、ノルマンジー上陸作戦の記念日にかつてはロシアも招待されていた。

しかし今年もノルマンジーでの記念式典にロシアのプーチン大統領の姿はなかった。

もちろんロシアがウクライナを侵略したゆえにフランスが招待しなかったからだが、その代わりウクライナのゼレンスキ―大統領が招待されていた。

フランスのマクロン大統領はウクライナからロシア領への攻撃について是認しており、EUの中では強硬な姿勢をとり続けている。

まさに「昨日の友は今日の敵」である。

ロシアのプーチンはそのような姿勢こそが「ネオナチ」だと反発しているが、ウクライナにとってはプーチンの侵略こそがネオナチだろう。

ゼレンスキ―大統領は一応民主的な国民の投票行動で信任された最高指導者である。その一方でプーチンはやらせ的な投票を仕組んでおり、その選任のされ
方はかつてのナチス指導者ヒトラーに近い。

プーチンは一度大統領になったあと任期切れで退任し、そのあとは大統領職をメドベージェフに譲り、自身は首相に退いたのだが、メドベージェフの任期が切れると再び大統領に返り咲いた。

おそらく大統領の任期は憲法に記載されており、「一期5年で再任は不可」というような制約があったのだろうが、一度やめて再び「新任」されたのでもう一期できたのだろう。ペテンと言わざるを得ないやり方だ。

その後「善政」を施いたらしく、憲法を変えて三期までは認めるというような案を強引に押し切ったようだ。

同じことは中国でも行われた。習近平の国家元首としての任期の超法規的な延長である。

このようなことが平然と行われるのが専制国家体制の国の危ういところだ。

田植えも「自動運転」で

2024-06-07 09:25:35 | おおすみの風景
今朝のNHK「おはよう日本」を見ていたら、広い田んぼの中を動く大型の田植え機の映像が出た。



どこの地域かは失念したが、稲作を請け負う会社が所有する大型の田植え機をリモートで運転している姿だった。

最初、人手不足解消の切り札「自動運転による田植え」というようなキャッチフレーズで紹介されていたので、田植え機よお前もか――と思ってみていたのだが、この田植え機は田んぼの畔にいるリモコン操作によって動かされているのだった。

正確に言うとこの操縦技術は「田植え機の無人運転技術」だ。

田植え機が折り返し運転を自動的にするわけではなく、あくまでも外部にいるリモコン操作者のスキルが重要である。

(※同じような技術がドローンによる田んぼへのモミの直蒔きや肥料、時として農薬の「散布」に使われているのだが、技術の難易度はこの田植え機の方がはるかに高い。)

これに比べると本格的な自動運転は、一般の道路を自動車に組み込まれたAIによって人間と同じように道路事情を把握して動いて行くのであって、リモートによる操作は不用だ。

ただ、故意にではない例えば突発的な大地震などによる自動車同士の衝突などの事故が起きた場合、どのように対処していくのか法令があるわけではないので、相当に混乱が起きるだろう。

「自動」車とはよく言ったもので、エンジン付きの車は日本では初めからこの名称が使われている。自動運転こそ未来の車だと思いたがるメーカーなどはこれを再認識すべきだ。

その際の「自動」とは、「人間がこがなくてもよい、或いは押したり牽いたりするする必要のない」という意味での名付けだろう。

私はその程度の「自動性」で満足しているので、自動運転車などに興味はないし、もし向こうからそんな自動運転車が来たと分かったら、避けて停車するつもりだ。

芒種(ぼうしゅ=2024.06.05)

2024-06-05 20:50:02 | おおすみの風景
芒種とは稲を播種する時期で、旧暦の5月の始まりでもある。今年は6月5日。

米には早期作と普通作があり、大昔はこの時期に田んぼに水を張って直接稲種(モミ)を撒いたのだが、弥生時代の中期頃からは苗を別に作り、それを田んぼに植えるようになった。

苗作りを別にする利点は、田んぼに早くから水を張っておいて水温を上げてから植え付けができることである。元は熱帯性の植物と言われている稲にとって田んぼの水の温度が高いほど地温も上がり根付きやすいのだ。

いま普通作のための田作りが代かきで一段落し、あとは苗の植え付け(田植え)を待つばかりの地域が多い。
田んぼに水が張られると鏡のようだ。好天気なら水面に青空を映し出すのだが、今日は曇り空である。

見た目からしても、水が張られた田んぼは一種の「太陽光発電所」だろう。

本物の太陽光発電は太陽の光エネルギーを電気エネルギーに変換する装置だが、田んぼは太陽光を稲のでんぷんエネルギーに変換するシステムで、得られたでんぷんを人間が活動のエネルギーとして利用する。

傾斜地は別にして平野部の田んぼは古くは条里制によって短冊状に四角く耕すようになり、条里制が廃れたあとも四角い区画で耕作するのが当たり前になった。

田作りが列島至る所で始まってから約2000年が経つのだが、おそらくどんな古い田んぼでもいまだに現役で米が作られている。いわゆる連作障害にはなっていないのが不思議だが、それは湛水に秘密がある。

水を溜めると土が空気に触れることがなく、そのために酸化が防がれるというのが最大の理由らしい。

土が酸性化すると土壌中の微生物の働きが阻害され、根の張り方が悪くなるのは火山灰土壌という酸性土壌に悩まされて来た南九州の宿命だが、それでも、いやそれだからこそ湛水は必須の条件だった。

もう一つの条件は湛水するための水の確保である。水が豊富なのは当然川や湧水に恵まれていることだ。

鹿児島県では大隅半島部に河川が拓いた大きな平野が多い。当然水資源に恵まれており、古代は大隅地区の方がコメに関しては生産力大であった。

その証拠が大隅半島部に多い前方後円墳である。そこに眠るのは当地の古代首長が中心だが、その大きさもだが古墳時代初期に属する古墳群が肝属平野に見られるのは意外に思われる。

相当古い時代から大隅地区の住人(古日向人)は中央との密接な往来があったというのが古墳時代を研究する学者の見解だが、私に言わせれば、古日向(おおむね713年以前の鹿児島・宮崎)から「神武東征」の類が実際にあったと考えているので、大和と古日向はもともと密接だったのである。

「神武東征」は歴史学から隠されてしまったが、「古日向(=投馬国=国王はミミと称していた)からの列島中央に向けての移住的東遷」は史実としてあったということを私は魏志倭人伝と記紀の探求から探り得ている。

その「移住的東遷」の主は神武の皇子として記紀に記載のタギシミミである。またその弟として古事記にはキスミミがいるが、こちらは大隅に残り、のちに
3世紀にさか上るという塚崎古墳の一部に眠っていると考えている。

田んぼ(米作り)の話から飛躍してしまったが、いずれにせよ弥生時代以降の国力とはコメの取れ高に大きく依存していた。

減反や飼料米という古来からの米の貴重さを貶めるような動きがあるが、SDGs的な観点からしても米作りの重要性はこれからもずっと続くだろう。





二つのハイセン(そのニ)

2024-06-03 08:35:50 | おおすみの風景
(2)79年前のハイセン
鹿屋市は昭和16(1941)年に市制を施行したのだが、その前の鹿屋町の時、笠野原に飛行場が造られている。大正11(1922)年のことであった。

大正6(1917)年にアメリカの航空機が日本に来て縦横無尽に飛び回るのを実見した郷土出身の永田良吉代議士の周旋によるものであった。その後永田のヒコウ機熱はますます高まり、帝国議会でたびたび航空機の導入を訴えたため「ヒコーキ代議士」の異名を得るほどであった。

永田の尽力によって鹿屋の現在の海上自衛隊鹿屋航空隊基地のところに鹿屋海軍航空隊基地が発足したのは昭和11(1936)年4月1日で、翌年からは大陸の上海や重慶への渡海攻撃が開始されている。

その経験を踏まえ、昭和16年12月8日の「真珠湾攻撃」に生かされたことは大きい。真珠湾攻撃の「浅海面爆撃作戦」の立案と訓練が鹿児島湾において行われたのである。

こうして鹿屋は「軍都」として日本国中の注目を集めた。そして太平洋戦争のハイセン(敗戦)間際、沖縄への米軍上陸阻止作戦に特攻隊出撃基地として重い責務を負わされたのも鹿屋であった。

鹿屋基地からは900名余りが、隣接の串良基地からは330名余が特攻隊員として飛び立ち帰らぬ人となっている。県内ではほかにも出水基地、指宿基地などの海軍基地から、また加世田の万世基地、知覧基地など陸軍基地からも飛び立っており、南九州からの特攻はその戦力の中心的存在だった。

しかしながら特攻作戦は米軍軍士の肝を冷やす効果は十分にあったが、米軍は4月に上陸を始めるとすさまじい勢いで沖縄を席巻し始めた。

帝国陸軍(沖縄根拠地司令部)の防御と沖縄県民の抵抗空しく、6月23日に司令官の牛島中将の自死により、終結を迎えた。

広島(6日)と長崎(9日)に原爆が投下された5日後の昭和20(1945)年8月14日、7月26日に米英ソ会談後に出された対日ポツダム宣言を受諾し、翌日15日に昭和天皇の「終戦の詔」が放送され、3年と9か月に及んだ戦争は終息した。

8月15日を敗戦と呼ばず、終戦としたのは戦争はニ度としてはならないという昭和天皇の強いお考えであったと仄聞するが、確かに「敗戦」では次の「勝利」を誘引する可能性が高い。

「やられたら、やり返す(報復する)」という論法が一般的な国家間の戦闘が今でもウクライナやガザで行われているのを見ると、やはりその通りの結果になっている。

さて、終戦を迎えて混乱を極めたのがそれまでの「軍都」であり、軍部であった。

「軍都」鹿屋に展開していた2万と言われる海軍軍士や大隅半島の要衝に展開していた3万と言われる陸軍兵士たちは、終戦の詔は知っていたのだが、「嘘だ」と言い張るものや、高隈山中に入って進駐軍が航空基地に入るのを阻止しようとする者たちも多かった。

しかし同年9月3日に初めて高須海岸に米陸軍を主体とする連合軍が上陸し、鹿屋基地に着任すると、そういったゲリラ的な軍人は皆無であった。

その一因としてあげられるのが、当時鹿屋市長だったあのヒコーキ代議士永田良吉だという。永田の裏表のない「駆け引き」が米軍の司令官に好評で、そんな様子を目の当たりにした旧軍人たちは良い意味で「意気阻喪」したに違いない。

軍都鹿屋と日本の注目を集めたこの鹿屋の終戦直後の進駐軍への穏便な対応は、またしても全国の注目の的になったと言われる。これによって勝利者の進駐による敗者の反乱や暴動などが最小限度に押さえられたのは事実であった。

しかしハイセンはハイセンである。軍都鹿屋の住民は戦争被害、なかんずく戦死者・戦没者・傷病者を抱え、明日の米にも困る事態になったのだから大変だった。打ちひしがれている時間はなかったと言ってよかった。

このハイセンは全国民の共有する所だったわけだから、鹿屋市民のハイセンをめぐる心理は大方の国民とさほど変わらなかった。

いま南西諸島が対中国の防衛線としてキナ臭さが増しているが、戦後は「終戦」を国是としてやってきたのだから、今さら何をかいわんやだろう。

米軍のシールド(盾)にされたのでは、昭和天皇が泣かれるに違いない。





二つのハイセン(その一)

2024-06-01 09:32:44 | おおすみの風景
(1)直近のハイセン
いま鹿屋市の「鉄道記念館」にシルバーの仕事で行っているが、この記念館は昭和62(1987)年の3月まであった国鉄大隅線を記念するミニ博物館である。

大隅線の旧鹿屋駅構内の一角に翌63年に建設されて現在に及んでいる。そして2年後の平成2年に同じ構内でも改札口とプラットホームを含む部分には、鹿屋市市庁舎が新築され、鹿屋市中心部の北田にあった旧市役所が移転している。

記念館の中には廃線当時まで使われていた鉄道運行用具が多数展示され、また記念館の外には模倣のプラットホームがあり、そこには当時運行していたディーゼル気動車「キハ20」車両が一台停められて、中を見ることができるようになっている。

直近のハイセン(廃線)と言っても今年で37年となり、いま40歳以下の若い市民は大隅半島を走っていた鉄道の影も形も知らない。

線路あとは、他の多くの廃線地域と同じように歩行者道路や自転車専用道路に姿を変えたが、いま現在近隣の住民を除いてはさほど利用されてはいないようだ。

それものはずで、実は大隅線が全線開通したのは昭和47年だったが、その頃すでにモータリゼーションの波は大隅半島にも押し寄せており、自動車が物流と通勤や買い物、行楽の足となりつつあった。

そして廃線になった昭和62(1987)年といえば、日本国中がバブル経済に沸き立っており、鉄道がなくなっても困るのは高校通学生と病院通いの高齢者くらいになっていたのだ。

ここで国鉄大隅線の歴史を振り返ってみると、端緒は高須と鹿屋を結ぶ民間の軽便鉄道であった。大正4(1915)年の話である。(因みに現在NHKで放送されている『虎と翼』の主人公の生まれは1914年である。)

日露戦争から第一次世界大戦の頃、大国ロシアに勝った日本は欧米やアジアで「一等国」視され、民間にもその活力はみなぎっていた。

その勢いのまま日本各地で鉄道敷設の槌音が響き、大隅でも大正12(1923)年には高須駅の2駅北にある古江駅から大隅半島のど真ん中と言える串良駅までの31キロが完成していた。

昭和に入り半島の反対側(東端)の志布志駅から串良駅の東隣り串良川を挟んだ東串良駅まで伸びてきたが、翌年には串良駅と東串良駅とが結ばれ、ここに至って半島の中央部を東西に走る「国鉄古江線」となった。

(※この時は民営鉄道だったのが国有化されたのだが、昭和62年3月の廃止後に国鉄は解体されて民営化され、元に戻った。皮肉な話である。)

さて古江線が大隅線に改称されたのは、戦後の昭和36(1961)年に古江駅から垂水市の海潟温泉駅まで伸びたあと、さらに約10年の歳月を費やして海潟温泉駅から大隅半島の付け根に当たる国分市(現霧島市)まで約35キロが完成してからである。昭和47(1972)年のことだった。

大隅半島の住民が初めて、日豊本線の国分を経由し鉄路の一本で県都につながったのであった。喜びは想像に難くないだろう。

ところが、まさにその喜びも束の間、昭和40年代は人流・物流が自動車主体になったことと、おそらく国鉄職員の数の多さから、地方路線は恒常的に赤字に悩まされることになった。

「特定地方路線」と言う名の廃止対象の赤字路線は全国到る所に存在していたのだが、大隅半島や薩摩半島を走る鉄路ももちろん例外ではなく、国鉄鹿児島鉄道管理局幹部と地方の首長を交えた6回もの会合の末に、苦渋の決断が下されることになった。

かくして昭和62(1987)年、大隅半島部では大隅線と志布志線が、薩摩半島では宮之城線と山野線が廃止されたのである。

大隅線は志布志駅から国分駅まで33駅、98.3キロ。
志布志線は志布志駅から西都城駅まで10駅、38.6キロ。
宮之城線は薩摩川内駅から大口駅まで20駅、66.1キロ。
山野線は吉松駅から水俣駅まで17駅、63.2キロ。

どの路線も志布志線を除き廃止対象としては全国的に見ても長大なほうである。

しかも大隅線と志布志線は志布志駅でつながっており、日豊本線に属する国分駅から大隅半島部を横断する大隅線で志布志駅に至り、さらに志布志駅からは志布志線に乗り換えて日豊本線に属する西都城駅まで、総距離は137キロもある。

これをつながった一本の路線としたら北海道の路線を除いては全国的に見ても最長の部類である。何とも惜しい廃線であった。
館内の壁には昭和62年3月13日に運行された最後の臨時列車に取り付けられていたヘッドマークが掛かっている。その日、大隅線内の33駅ではどの駅でも別れを惜しむ人たちで一杯だったという。

先月のゴールデンウイークのさなかに勤務していた折、福井県からやって来たという本人言う所の「廃線マニア」はまだ28歳ということであったが、北陸新幹線の福井への延伸よりも廃線を訪ねる方に興味があったようだ。

廃線になったことで大隅線(他の廃線も)は回顧(懐古の心)と歴史の対象になったのであろう。