ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

化(あだし)野の念仏寺

2017年12月05日 | 日記

 今日は部屋にいる限り、日が燦々と差してとても暖かでしたが、一歩外へ出るとなんと風の冷たいこと!午後から句会でしたので出かけましたが、ウツ!ブルブル…でも、教室は暖房が入っていますので大丈夫。

 そろそろ俳句の話でも…と思うのですが、京都の紅葉見物がまだありますので、もうしばらくお付き合い下さいね。今日は化野(あだしの)の念仏寺です。寺伝によれば、化野の地にお寺が建立されたのは、約千二百年前、弘法大師が五智山如来寺を開創され、野ざらしとなっていた遺骸を埋葬してからと伝えられています。その後、法然上人の常念仏道場となり、現在、華西山東漸院念仏寺と称し浄土宗に属しています。

 境内にまつる八千体を数える石仏・石塔は往古化野一帯に葬られた人々のお墓です。何百年という歳月を経て無縁仏と化し、化野の山野に散乱埋没していた石仏を明治中期、地元の人々の協力を得て集め、極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人々になぞらえて配列安祀されているそうです。この石仏や石塔が肩を寄せ合う姿は、空也上人の地蔵和讃に、

       これはこの世の事ならず死出の山路のすそのなるさいの河原の物語…

         みどり児が河原の石をとりあつめこれにて廻向の塔をつむ 

      一重つんでは父の為二重つんでは母の為…

とあるように、嬰児が一つ二つと石を積み上げた河原の有様を思わせることから、〝西院の河原〟と言うそうですよ。化野の「あだし」とははかない、むなしいとの意味で、「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生れ化る事や極楽浄土に往生する願いなどを意図しているのだと。古典の中でも次のように、人の命のはかなさをあだし野に托して和歌に詠んでいます。

  暮るる間も待つべき世かはあだし野の末葉の露に嵐たつなり    式子内親王

(日が暮れるまでの間も待つことのできる世であろうか。御覧、あだし野の末葉に置く露に嵐が吹きかけている。『新日本古典文学大系』)

  誰とても留るべきかはあだし野の草の葉毎にすがる白露             西行法師

(人は誰もこの世に留っていられるだろうか、いや、いられない。このあだし野の草の葉ごとにすがって付いている白露のように人は儚い存在なのだから。)

 この化野念仏寺を初めて私が訪れたのは、もう20年以上前のことで、第一回の馬醉木若手勉強会でした。とにかく緊張の連続で何がなにやら分からずに過ぎてしまいましたが、この念仏寺だけはとても異様な雰囲気で、なぜか胸を締め付けられるような思いをしたことが今でも忘れられません。今回は2度目ですが、なぜか不思議と優しい気持ちになれて、もっとゆっくりしたいと思ったほどでした。友達に化野に行ったというと、〝霊に引き込まれなかった?〟と聞かれ、彼女は以前引き込まれて具合が悪くなったとかで、もう二度と行かないんですって!ホントかしら…でも私は以前占って貰ったら、たくさんの祖霊に護られているそうですから大丈夫よ。それでは写真をどうぞ。

①念仏寺の紅葉1 ②念仏寺の紅葉2 ③念仏寺の紅葉3 ④念仏寺の参道 ⑤念仏寺の虫塚 ⑥西院の河原1 ⑦西院の河原2 ⑧西院の河原3

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