とうとう10月も終りましたが、昨日は満月でしたね。先日の「十三夜」がイマイチでしたので、きっとこの満月は美しいのではと…。見事なお月様でした。
ブルームーンの満月とハロウィーンと土曜日が重なって…ああ、私には関係ないか?…何だかどこかではお祭気分なのではと思うのですがね…
でも、全く関係ないと思っていましたら、リハビリに行くとハロウィーンだからと…籤なの?と聞くと、箱の中にお菓子が入っているのでそれを箸で抓んで出す…1分以内だったかしら? それが意外と難しかったんですよ。だって中のお菓子の方が取り出す口より大きいんですもの。欲を出すと取れない!でも、大人でも大きい方がいいんです…必死で頑張って。私も必死で…そうしたら割り箸が折れて。(笑) 再度挑戦させてもらって小さいのを一つゲット!まあ、ちょっとしたものですけど…やっぱりタダでもらえるというのはウレシイ!外国の風習なのでよくは分かりませんが、日本でいえば御大師様のお接待みたいなものかしら…子どもたちが喜びますものね。
昨日のニュースでは、新型コロナウイルス禍の中、東京・渋谷には異例の光景が広がったんですって。例年は仮装した若者でごった返し、逮捕者も多く出るというのに、今年は区が中心となり来訪自粛を促し、昨年までと同様、DJポリスが配置され、警察官による交通整備は行われましたが、身動きが取れずに3密状態になる例年とは違って、歩行者が自分の希望する方向に進めるような状態だったとか。また、多くの人であふれはしたけれど、仮装した人も少なくトラブルもほとんど見受けられなかったようですと。よかったですね。
ところで、一昨日は〝後の十四夜月(小望月)〟でしたが、出先から帰るとき、宇部市の厚東大橋から見た月が何も邪魔するものがないので、とってもキレイでした。ああ、今写真を…と思ったのですが、なんせ運転中。そこを過ぎると、今度は家や山に隠れて見えなくなったり…見えたと思っても電柱や信号があって場所が悪かったりと…とうとう家に着いてしまいました。あの刻々と変化していくブルーの空を撮りたかったんですけどね。残念!でも、写真見て下さい。終りの方でフラッシュをたいたからでしょうか?こんなキラキラした写真が何枚も撮れていてビックリです。最後は家に着いて車から降りて撮りました。
昨日は第5土曜日でしので、どこにも出掛ける予定もなく、1日中家事ばかりしてました。夕方外へ出てみましたら、やっぱりとても美しい満月。でも、皆さんのブログでキレイな月の写真がたくさん披露されていましたので、私の写真はパス…。
歳時記では〝月見〟という季語は、陰暦8月15日の中秋の名月を賞することなんですよ。じゃあこの後の月を見て賞するのはどういえばいいのかしら?調べてみますと、〝後の月見〟とありました。しかし、これはこの前の〝十三夜〟の月を見てのことなんですからね。
その〝後の月見〟の例句を、歳時記に探してみましたが、殆ど中秋の名月の〝月見〟ばかりで、次の一句しかありませんでした。
淋しさを老いての後の月見かな 蝶夢
蝶夢(ちょうむ、享保17年(1732年)-寛政7年(1796年))とは、江戸時代中期の時宗の僧・俳人。名は九蔵。号を洛東・五升庵・泊庵と称した。京都の出身。(Wikipediaより)
ところが、ネットで調べていましたら、次の句が月見の例句に出ていました。
旅重ね稲城(いなぎ)に後の月見るも 星野立子
この句の作者は、俳句を嗜んでいらっしゃる方なら皆さんご存じの方でしょうが、簡単に(Wikipedia)をお借りしてご紹介しましょうか。
星野立子(ほしの たつこ)は、1903年(明治36年) -1984年(昭和59年)、昭和期の俳人。高浜虚子の次女。虚子に師事し、初の女性主宰誌「玉藻」を創刊・主宰しました。虚子一族で特に評価の高い人物。女性俳人では同時期に活躍した中村汀女・橋本多佳子・三橋鷹女とともに四Tと称されました。
しかし、この句をみると、これはおかしいと思うんですよね。旅の途中に田圃の傍を通りかかり、稲城(刈り取った稲の束を乾燥させるためのもの)の上に出た月を眺めたのでしょうから、確かに後の月は見ていますが、「月見」はしいていないと思うのです。
そもそも「月見」の季語は、ただ単に月を見るというのではなく、月を眺めて観賞すること。そのときに芒(すすき)や団子、里芋、豆、栗などを供え、酒宴を催したり、時には歌会・句会なども開いたりするのです。傍題にも、「観月」「月祀(まつ)る」「月の宴」「月見酒」「月見舟」などというのがあって、〝生活〟に分類される季語、春の「花見」と同じなんです。だから基本的には、「月見」という単語(名詞)で存在する季語なんですね。
故に、立子の句は問題ありです。この句には、「稲城」と「後の月」と、二つの秋の季語がありますが、メインは「後の月」なので、それは問題ないでしょう。しかしこの句を「月見」の例句として掲げるのがおかしいということ。
他にも「月見」の例句として、次のような句がありました。〈入込みに白き月見し十二月 臼田亜浪〉〈日見て来よ月見て来よと羽子をつく 相生垣瓜人〉など。
これらの句に「月見」の語はあっても、それは季語の「月見」ではありません。そもそも、俳句では「月」だけで、〝天文〟に分類される秋の季語になっています。しかし、なぜ一年中見られる月を秋の季語としたのかといいますと、その美しさやさやけさに於て秋が一番極まるからなのです。そのため、秋以外の月には、「春の月」「夏の月」「冬の月」というように、その季節が分かるような何らかの表現を付けて使わないといけないんです。
また、秋の月は全てが季語になります。「三日月」でも「五日月」「夕月」「有明月」「昼の月」などでも、月さえあれば何でもいいわけです。
ところが、「月見」の季語となったら、概ね「名月」と「後の月」を観賞するということになります。しかし「月見る」で詠めば、秋のどんな月でもいいということになるんですよ。
お解りになりましたでしょうか?ちなみに、臼田亜浪のは「十二月」が季語で、冬の句、相生垣瓜人のは「羽子つき」が季語なので、新年の句になります。
ああ、最後にとってもいい「後の月見」の句を見つけたんですよ。ウレシカッタ!
後の月祀るや多摩の薄(すすき)もて 水原春郎
今回の話は、ちょっとごちゃごちゃして分りにくかったかしら。だったらゴメンナサイ!