今日はお天気は良かったのですが、意外と風が冷たくて、夕方日が暮れかかるとぐっと冷えてきました。それもそのはず、最高気温が14度で、最低気温は4度なんですもの。
外に出てみたらナント月の美しいこと!名月にも十三夜にも決して引けを取りませんよ。しかし、やっぱりこれは秋の月ではなく「冬の月」ですね。歳時記には、〝さえざえと冷えきった大気のせいか、それとも寒さに震えるこちらの心持ちのせいか、冬の月は他の季節に比べて小さく引き締まって見える〟と書いてありましたが…
写真は、今日28日の月です。30日が満月ですので13夜月になるでしょうか。明日も明後日も最高気温は13度と低いのですが、最低気温が7度ですから今夜よりはましかと。天気予報も晴のようす。きっとお月様が今夜以上に美しいことでしょう。これからもっともっと寒くなって、最低気温が零度近くになってくると、間違ってはいないのですが、〝冬の月〟では物足りなく感じると思いませんか。そこで「寒月」や「月冴ゆ」「月氷る」というような季語がちゃんとあるんですよ。
「寒月」は「寒の月」とも詠みます。でも〝カンゲツ〟という音読みの方が一段と冷厳な感じの月に思われるでしょう。意味的には全く同じものなんですが、短詩型の俳句にとってはこの音の響きというのはとっても重要な働きをするんです。
寒月を鏡にうつす狂女かな 高桑闌更
荒海に人魚浮きけり寒の月 松岡青蘿
ふたりとも江戸中期の俳人。高桑闌更(たかくわらんこう)は、加賀金沢の人で、中興期の芭蕉復帰運動に大きく貢献しました。松岡青蘿(まつおかせいら)は、播磨国姫路の人で、蕪村とも交流があったそうです。
この二つの句を比べてみると、「寒月」には一点の隙も無いような厳しさ、片や冷たいけれどどこか包容力のある「寒の月」だと思いませんか。前句には〝鏡〟と〝狂女〟、後句には〝荒海〟と〝人魚〟と、それぞれ酷な取り合せになっています。しかし、童話的な人魚に比べると狂女の方が現実味があってすさまじい感じを受けるに違いありません。だとすれば、例えばこれを、〈寒月の荒海に浮く人魚かな〉とか〈狂ひ女の鏡にうつす寒の月〉などに変えてみた句を読んで、比較してみて下さい。いかがですか?
このように意味は同じでも句のイメージが全く違ってくることがお分かりでは。これが、俳句の大事なところなんです。言葉というものは単なる「伝達のため記号」のようなものではなく、心と心を通い合わせるもの、即ち〝言霊〟なんですよ。だから発声の高低によってもその言葉の順番によっても、伝わる温度や強度などが違ってくる…そう言葉は生きているのです。そして、その力を借り、それを駆使して、自分の心を伝えようとするのが俳句なのです。ならば、一字も一音もおろそかには出来ないんですから、鑑賞する方も一字一音も見逃さずに読み取って下さいね。お願いします。
写真の1枚目、2枚目は今日の6時頃、同じ時間なのにズームで撮ると暗くなりました。3枚間は昨夜…というよりこれも6時半ごろなんですが、雲が多かったからでしょうか。この程度ならまだまだ「冬の月」で良いような気がしますね。
静(しずか)なるかしの木はらや冬の月 与謝蕪村