今年のラジオ体操は6日から開始でしたが、明けてから初めての本格的な雨で中止になりました。それで7日が体操始めということで出かけると、昨年クリスマスツリーが飾ってあった教会の窓が、ナント富士山と初日に変わっていました。去年まではなかったような…でも気が付かなかっただけかも。
それにしても寒い朝でした。体操から帰る頃には急に雪が降ってきて、予報通り今夜から明日にかけては積もるかもなどと心配しながら戻りました。
そうです、この7日は「七種」の日でした。早いものであっという間の一週間が終わろうとしています。この七種の謂れや説明は皆さまもう十分にご存じでしょうから省きますけど、これを「七種」と、また「七草」とも書きますが、その違いは分かりますか。
七種の日の額白(ぬかしろ)の馬とをり 友岡子郷
あをあをと春七草の売れのこり 高野素十
読みはどちらも〝ななくさ〟で同じなんですよ。でも「七種」と書くと〝七つの種類〟という意味が強くなりますし、「七草」は〝七つの草〟ですよね。とすると、〝セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ〟という七つの野草が浮かんできませんか。
実は7日は五節句の一つで「人日」ともいうのですが、これはもともと陰暦正月七日のこと。この日に七種粥を食べるという風習が昔からあったのです。その謂れなどは長くなりますので、興味のある方は調べてみてくださいね。要するに、今では1月7日のことを〝ななくさ〟と言い、その日に食べる粥を〝ななくさがゆ〟と言って、文字は余り気にせずに使っていることが多いようです。
しかし、俳句では違います。特にホトトギスの歳時記では「七草」というと〝秋の七草〟のことになり、春の場合を「七種」というように使い分けてあります。でも、普通の歳時記では「七種」や「七草」が春の季語で、秋は「秋の七草」や「秋七草」という風になっていますけどね。
俳人には「七種」の方を用いる人が多いように思いますが、別に「七草」と書いたからといって間違いということはありません。
ただ「七種」とすれば行事や生活の類として見られやすく、「七草」にすると植物の分野に入れるのがふさわしいような季語だということです。上掲の友岡子郷の句は草そのものというより〝人日〟の感じで詠まれていますし、素十の句は〝七つの草〟そのものが目の前に見えてきますでしょう。
だから、俳句を詠まれる方には、ここでこの漢字を、いやここは平仮名にしようというように、よく考えて使い分けるといいでしょう。これも俳句の鑑賞を深めるための一つの技法だと考えてくださいね。
ついでに申し上げますが、片仮名は我が結社では外来語のみに使用して、余程の効果・意義がなければ用いません。片仮名を使うと句が軽くなって俗っぽくなるからなんです。やはり俳句にはある程度の〝品格〟が必要だと、私は思います。でなければ、575で季語さえあればいいと…いや季語もなくていいというようにしてしまうのは、私は反対です。要するに何でもありということになれば、日本の伝統的文化を担う文芸の一分野としの俳句が恥ずかしいのでは。伝統とは守るべきところを守ること。そして、次代に伝えていかなくては…たとえ多少の変化は認めたとしても屋台骨を壊すようなことがあってはならないと思いますけどね。
以前あった俳句大会の投句の中に、季語を片仮名で書かれたものがありました。今日では動植物の図鑑やいろいろな出版物、動植物園の立て看板などではほとんど片仮名表記になっていますよね。それでいいと思ってそのまま使われるのでしょうが、俳句はやはり日本語としての正しい言葉遣いを、また美しい日本語を残し伝えていくという役目も果たしたいものと、私は考えていますからね。
さて、夕食はもちろん「七種粥」でした。ところが買ってきた七草がゆセットにはナントセリやゴギョウは小さな一かけらで、あとの草はほとんどハコベラでしたよ。聞けばどうも今年は品薄で値段も高騰していたようですね。