うわあっ!とうとう10月に入りました。今日は一日中晴マーク、最高気温も30度まで上がるそう。しかし、何とも蒸し暑い。まるで夏の日に戻ったようなんですが、でも空の色はキレイ!
さて今からは、昨日の報告です。この日も午前中は晴れて暑いぐらい…、でも午後からは曇でやはり蒸し暑かったですね。天気予報を見ると最高気温は28度とあるのに、湿度が高くて80%前後はあったようですから。
実は、「いちご会」が宇部市制施行100周年記念に因んで、100年前の大正10年11月1日にその祝典が行なわれたという〝琴崎八幡宮〟での吟行会を、9月30日に開催するということで、その講師を私が頼まれたんです。
朝9時30分、八幡宮の駐車場に集合。宇部市ふるさとコンパニオンのIさんの案内と説明を聞きながら、周辺と境内を見て回りました。
宇部に住んで既に50年以上、初詣や節分、夏越しなどと、毎年何度も参拝に来ているのに、何と知らないことがたくさんあって、ビックリでした。
先ずはこの「いちご会」についての説明をしましょう。2019年5月に発足した会で、〝「ふるさと宇部」を情熱を持って想い、「こども達が住み続けたい」と思う街づくりをコンセプトに集う紳士淑女の集団です〟と。(Facebookより)今回は、コロナ禍のために人数制限をして10人前後の参加です。
最初に100年前の宇部村が市に昇格したときの話から。朝6時にあらゆる船や工場などの警笛や船笛を一斉に鳴らし、7時には旧参宮道路を人々が行列を作りこの八幡宮へ集まって祝典が開かれたのだそうです。
次いで道路を挟んで駐車場の反対側にある「神苑」という石碑が残っている公園へ。
ここは渡邊祐策(わたなべ すけさく、1864年 -1934年、日本の実業家・政治家。宇部興産の前身冲ノ山炭鉱組合の創業者)が還暦記念に大正14年9月、広さ5,280㎡を神苑と名付けて寄進したところ。当時はみんな田圃だったのを全部買い取って寄付をされたという。有り難いことですね。今は小さな児童公園になっていますが、殆どが参宮道路を作るときに削られて、その残りなんだそうです。その当時の地図や写真を見せて頂いていると、〝あれっ、これは曾祖父、これが祖父で…とするとこの幼い子どもが父親だ!〟と言うので…みんなからエエッという驚きの声。
そうなんです。この会を催すに当たって2度ほどお会いして話す機会があったのです渡邊裕志(ひろし)さんが祐策翁の曾孫に当たる方だったんですよ。祐策翁のことは宇部で知らない人はいないのですから、その直系の方とお知り合いになれるなんて…本当に光栄!まあ、そんな訳でいちご会という名の由来である〝一期一会〟の通り…私も今回がいちご会の方々と一期一会だったんです。できればこの縁が更に広がっていくと嬉しいんですがね。
次は鳥居を潜ると、特大絵馬のすぐ後に大きな石碑があります。それが「宇部市憲碑」。
これは、大正10年(1921年)11月1日、宇部市が村から一躍市制を施行した日に、あの五箇条の御誓文に倣って作成され、読み上げられた誓文五則。それが市民の心得として刻まれ、宇部市憲碑として昭和3年(1928年)に建立されたものなんですって。
この五則にあるように、宇部市の礎を築いた人々には次世代の子供たちに発展的な街と地域産業を遺したいという強い想いがあったようです。市制施行と同時に制定された宇部市憲によって明文化された「共存同栄」や「協同一致」という言葉が、地域の歴史と共に誇りを持って受け継がれてきて、それが今日でも宇部の〝町づくり〟の精神になっているのです。
ちなみに、よく聞くのが「共存共栄」という〝自他共に生存し、ともに繁栄すること〟の意味の言葉。これは中国の周恩来元総理が1954年10月11日、日本のある代表団と会見したとき、「…中日両国がともに工業化を果たしてこそ、平和共存、共存共栄が実現できる」と言ったのだと。(『周恩来外交文選』) またこの言葉が流布して松下幸之助氏などが好んで使っていたとか。しかし、この語の由来は不明らしいのですが、文献としては明治時代の官僚・森賢吾の著書「古着を好む日本人」(1927年)などに文言が記されていますから、もっと以前からあったものなんでしょうね。
半世紀以上宇部市民だったというのに、こういうものがあるということさえ知りませんでした。恥ずかしい!参加された方もナルホド…と。
要するに、一生かかっても知る気がなければ何事も知らないままに終るということなんですよね。またまたよい勉強をさせていただきました。ありがとう(*^-^*)ございました。
まだ先がありますが、長くなりましたので今日はこれで。続きはまた…。
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