今日は宇部でも最高気温29度、また夏が戻ってきたようで…。ズウッと暑いままなら体も馴らされているので、多少の上下はそれほど応えないのですが、一旦涼しくなって快適な温度を知ってしまった後の体にはこの高い気温は本当によくない!もうそろそろ晩秋に入るというのに…。
昨日、宇部市役所から封書が…見れば「収納課」とあります。主人に〝ねえ~、何かしら?また税金払えという督促かも…〟と言うと、〝重要(親展)と書いてあるからそうじゃろ〟と。そうなんです。私は市県民税をすぐ忘れて、督促が来てから払うことが多いんです。この前も何か払ったような気がするんだけど…と、中を開けてみると「あなたの納められた税額が過誤納となりましたので、下記のとおり還付します。」という「還付通知書」でした。〝エエッ、私税金払いすぎていたんだって!〟と主人に言うと、〝いくらや?〟〝2,500円〟〝フ~ン、それぽっちか〟と。そりゃ戻して貰うのになんら異存はありませんが、何故なのかは全く書かれていません。
通知書を隅から隅まで見てもサッパリわかりません。下の方に小さく注意書が…1 この処分について不服がある場合は、この処分があったことを知った日の翌日から起算して3ヶ月以内に、市長に対して審査請求をすることができます。 2 この処分の取り消しの訴えは、……
と、3,4まで書いてありましたが、どれも一方的な通達でした。何なの、これ!なんか割り切れ~ん…と思いました。何故取られるか分からないものには不服も言えますが、還すというものに不服を言うのもおかしなもんでしょ。みなさんにもこんなことありました? 働いていたときは年末調整、辞めてからは確定申告で還付金は貰ったことはありますが、市県民税ではありませんでした。
ところが、オドロキですよ。今日また郵便受けに同じような封書が入っていたので宛名を見ると、今度は主人でした。すぐに主人に〝もしかしたらあなたにも還付金が来たんじゃないの?〟と言って、中を確かめてもらうと、〝オオ、わしは3,300円もじゃ~〟と。何なんでしょうね、これは?まあ、大した額ではないので大騒ぎすることはないのですが、気持が全くスッキリしません。ウ~ン、モォッ!
面白くないから話題を変えましょうか。昨日は飯田蛇笏の忌日でしたが、今日は高野素十の忌日です。〝素十忌〟〝金風忌〟で、秋の季語。
両膝に両手を正し素十の忌 倉田紘文
素十は、〝明治26年(1893)茨城県に生まれ、東大医学部で法医学を修めた。その頃から俳句に手を染め、高浜虚子に師事。昭和初期、水原秋櫻子・山口誓子・阿波野青畝とともに4Sと称して「ホトトギス」誌上で活躍した。その後ドイツに留学。新潟医大、奈良医大の教授を歴任する一方、俳誌「芹」を創刊主宰して後進の指導にあたった。句風は虚子の唱えた客観写生を遵奉、「草の芽俳句」と貶められることもあった。昭和51年(1976)没、83歳。〟と、角川俳句大歳時記には解説されています。
概ねこれが素十の一般的な見方でしょう。勿論なんら異論はありませんけれど、今私が読んでいる本が面白いのです。水原秋櫻子著『高濱虚子 並に周囲の作者達』なんですが、この本は1952年に文藝春秋社から出版され、更に1990年には永田書房より出版されたものを底本として、今年の2月に講談社から出版されたものです。そこには、秋櫻子の俳句入門期からやがて虚子に出会い俳句にのめっていく過程が事細かく書かれていています。まだまだ読み始めで、なかなか進まないのですが、秋櫻子が東大卒業後に入った血清化学教室の助手・緒方春桐に勧められていやいや始めた俳句ですが、その研究室に素十も入ってきて、3人ともが野球好き。で、素十が投手、秋櫻子が捕手、春桐が3塁手と、少しでも研究のひまがあれば運動場へ出かけていたらしいです。その頃の素十は、俳句を〝俳諧〟と言って、下らないものと見なしていたのです。それがどうして俳句に取り憑かれ、ついには4Sとまで言われるようになるのでしょうか、また虚子を挟んで仲の良かった秋櫻子と反目(?)し合うようになっていったのでしょうか、興味は尽きません。
本書の解説を秋尾敏氏がされていますが、その中に「若き俳人たちの姿も存分に読み味わいたい。人を引きつけて放さない俳句の魅力というものも見えてくる。本書を読まずして、例えば高野素十という人物像を結ぶことは難しい。東大俳句会における微妙な学年差の意識や学業への取組み方の違いなどは本書からしか知ることはできない。」と述べられています。まだこの本の緒に就いたばかりで…今から読み進めていくのが楽しみなんですが、なんせ超のつくほどの遅読家なもんで、一体いつになることやら…だから気にせずに待っていて下さいね。ホッ…
写真は〝ペチュニア〟。これも夏の季語ですが、今でもこんなに綺麗に咲いていました。先日の下松SAで撮ったものです。南米原産ですが、日本名は〝衝羽根朝顔(つくばねあさがお)〟というんですよ。ナス科なんですって!
おあとは拾い読み
しかし、富田木歩は読んだ
良い師匠をもったな
いや、良い師匠に巡り合ったな
本人も然ることながら、多分に師匠の影響は大きい
芸事は素直じゃないと成長しないと
平山郁夫が良い例だな
ただ、面白みはないがの
正岡子規は幼名が升(のぼる)で、ベースボールが好きで号に〝野球〟を使ったときもあるとか…だから訳したつもりはないんだそうですよ。
その後の「打者」「走者」「四球」など、などは本人が訳したと言っていますが。
秋櫻子は本当に野球が好きだったようで、「ナイター」を季語として初めに使ったのも秋櫻子です。俳句と野球はたまたまなんでしょうが…。
ただ、俳句に向いている人の条件が〝好奇心〟とよく言われますので、新しいもの好きなところで、子規も秋櫻子も野球のとりこになったのかも。でも他のスポーツは???
素十とのからみはまた読んでから面白いことがあれば書きますから、読んで下さいね。
それはそうと、まさかブログをもうここまで読み進んだということではないですよね。〝ボチボチ〟読んで下さいね。ではまた、よろしく。
アメリカからベイスボ-ルが移入されたとき、野球と名づけたのは誰だったかな
子規がノボルとか
野球に興じたと聞いたが、
>3人ともが野球好き。で、素十が投手、秋櫻子が捕手
俳句と野球とは関係があるのか
野球とは団体競技だな
そう言えば、俳句も演題を設けて一堂に会してやることもあるか
>本書を読まずして、例えば高野素十という人物像を結ぶことは難しい
そういうことはあるな
高橋治だったかな
この世には蕪村を知ってる人と知らない人の二種類あると