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Gino Stradaが73歳で亡くなった。さて、この人はどんな人?

2021-08-14 17:19:43 | 社会
Corriere della sera 13 agosto 2021 (modifica il 13 agosto 2021 | 23:15)

Morto Gino Strada, una vita al fronte con Emergency: la Ong, Teresa e 11 milioni di pazienti
ジーノ・ストラーダが亡くなった。73歳だった。Emergencyの活動に捧げた生涯だった。1994年に妻とEmergencyを創設。最後の記事はアフガニスタンとタリバンの侵攻だった。

Gino Strada, fondatore di Emergency, è morto a 73 anni

時折ジーノは随分昔にアフガニスタン問題の議論のために大統領府に呼び出された時の事を語ることがあった。「彼らが示したのは、1枚の紙片に4枚の添付と1枚のPanorama紙の写真だけだったんだよ」と笑ったものだ。「要するに彼らには何のアイディアもなかったんだ。」 そこでジーノはテーブルに現地で米軍が使っている地図を広げ、米軍が統制している州と拠点を指し示し説明し始めた。ジーノはアフガニスタンに7年住み、国を愛し、よく理解していた。まさしく昨日スタンパ紙が彼の記事を掲載していた。「私たちは20年前この戦争は大惨事になるだろうと言っていた。そして今日あの侵略の結果はすべての人の目に明らかとなった。失敗だったと言うことだ。タリバンがカブールに近づいている今、ジーノはこの世を去った。

ジーノは優れた外科医だった。

ジーノはたくさんの事をしてきた。学生運動の活動であり、大衆によく知られた人物であり、作家であり、1994年以来18の国に介入した国連活動の指揮者だった。ある人々にとってはヒーローであり(いくつかの活動でもう一つのノーベル賞と言われるライト・ライブリフッド賞を受賞していた)、また別な人々からは、口出しの多い気まぐれやと言われた。あまりいろいろな顔を持っていたので、ジーノの元の顔、優秀な外科医であったことを忘れてしまうくらいだ。彼の人生はまさに他人の命を救うという人生だった。ミラノのセスト。サンジョバンニに生まれ、ミラノのカルドゥッチの高校を卒業。78年に州の大学医学部を卒業後、救急外科の専門医となった。まずローの病院ではじめに心臓外科医、その後事故負傷者専門医として働いた。その後、米国のスタンフォード、ピッツバーグ、英国、南アで経験を積んだ。80年代末から94年まで、赤十字の国際委員会とともに、パキスタン、エチオピア、ソマリア、ボスニアで活動した。危機の中でのある移動の際、ビザ待ちでジブチでそこに留まらざるをえないことがあった。そこでは、トランプのブリッジの国内選手権が行われていたので、友人を介して、退会に出場、勝利したなんてこともあった。

「中立でいるなんて不可能だ。」

もしも、爆弾の犠牲者が次から次に運ばれて来る手術台から人々の命を見ていれば、誰でも見方は変わるものだ。「中立なんかでいられない」と彼は言った。そこで彼は取り組むことにした。1994年5月、妻のテレーザと友人たち(その中にはカルロ・ガルバニャーティとジュリオ・クリストッファーニもいた)とともに、人道組織Emergencyを創設した。この組織は、戦争犠牲者、対人地雷犠牲者、貧困の犠牲者に対し、医療提供を保障し、無償で良質の外科医療を提供することを目的とした。初めての財政会議はミラノのレストラン”Tempio d’Oro”で開かれた。一年ごとに開催される総会では彼はいつもこんな組織が不要となる日が来る日が来ることを願っていると語っていた。そして次はアフリカに病院を作った。90年代末にFeltrinelli社から本「緑のオーム」を出版。こうして、Emergencyはたくさんの寄付や、組織の代表であり広報として働いてくれたテレーザのおかげで、成長してきた。

証言者と支持者

ジーノと同僚の外科医たちは数百万人の人々の手術をした。その活動はたくさんの人々の心も動かした。ジョバノッティやリガブーエ、ピエロ・ペルーらはEmergencyに彼らの戦争反対の曲の売上を寄付した。ジーノ・パオリは彼をコンサートの舞台に上げて言った。“僕は君を助けるでも君も歌って。” 応えて、この戦争外科医でジブチのトランプ選手のジーノは、案外うまく、”ある部屋の空”をうたった。ひとりのミラノの金持ちが彼を支持。彼の家には、アフガンの勇者たちや西洋の識者、企業家、芸術家がやってきた。ジーノはまた2003年2月に行われたイラク戦争への抗議の象徴にもなった。コッフェラーティ(Sergio Cofferati, イタリア商業労働組合の幹部?)はローマに3百万人以上を集め、ジーノに演説を勧めた。「あのときも声が震えていた事を認めます。」 バグダッドでのある日、爆撃下で、変だけどシンプルな法則を説明した。「爆弾の爆発が始まったら、窓には粘着テープを貼り、ピンクフロイドを聴くんだ。」 イラクで人質になっていたイタリア人(Agliana, Stefio e Cupertinoの3人)の解放交渉をしていたときでも、ジーノはエルビルのクルディスタンのキッチンで、乾杯のカンパリを取り出して乾杯をすることも出来た。まさにジーノは世界に誇るミラノ人だ。もしも、3人の交渉者とうまく調停が進まなかった時でも、彼はタリバンの手に合った、ガブリエル・トルセッロとレプッブリカ紙の記者ダニエレ・マストロジャコモを家に無事に連れ戻した。

Emergencyと1千百万人の治療を受けた人々

多くの人が認めるところだが、彼もまた気骨のある人によくあるように、決して取っ付きいい性格とは言えない。とは言え、彼のNGOが11百万人もの人々を救ってきたことは事実だ。彼はいつも言っていた。「世界で起こる紛争の犠牲者の9割は市民で、しばしばそれは子どもだ。」「子どもが敵かい?」 「花屋がないところでなんか生きていけるかい?」と彼は冗談交じりに語った。彼は皆から好かれた。2009年にジーノがフランスのノルマンディに行ってしまう前に、妻のテレーザのもとにどれほどの花束が届いたことか。彼は心臓の病気だった。そして昨日73歳で彼は亡くなった。いまや彼はもういない。彼の人道愛にあふれた物語もこれで終わる。「6月に彼は愛するシモネッタと再婚した」とミラノ市長のベッペ・サーラが語った。彼の娘のチェチリアは、父の死を地中海上での救急支援に従事しているときに知った。「私は遠くにいるので、たくさんのお見舞いにご返事ができません。こうして間にも命を救う手伝いをしています。この仕事こそ私の父と母が私に教えてくれた事なのです。」

(本文)
https://www.corriere.it/cronache/21_agosto_13/morto-gino-strada-vita-fronte-emergency-ong-teresa-11-milioni-pazienti-bebaa49a-fc6c-11eb-8688-4f0a0f230e1f.shtml