相撲が恣意的な取り組み番組を試合の2日前にしかるべき対応として、お歴々がひそかに対戦相手を決めるという。秘かにとは、視聴者にとってみると翌日の取り組み番組が分かればよいのであって、前々日には翌日の取り組みを決めるのである。このことの是非は判断する立場にはないが、相撲が面白いものにする。同じレベル同士の星のつぶし合いを意識的に取り組ませる。同じ部屋同士や、東西対決を取っている以上、同じグループ同士は対戦させない等の配慮は感じられるが、フェアな対戦ではなく、恣意的と感じる取り組み番組は、偶然とはいえない作為を拭い切れないのである。
これという力士を、恣意的に人気力士にし、白星を先行させるなど、どのような操作も可能であるところがどうも胡散臭いのであり、国技として果たして良いのかとの疑念を持たざるを得ない。更には判定が土俵の東西南北に審査委員なる相撲経験者がいるが、判定に曖昧さを持ち、ビデオ映像とは異なる判定が下されることが多い。
審議が行われ、ビデオを参考にするも、最終判断は協議するとの、なんとも時代錯誤が感じられる判定である。このことは、柔道や空手、剣道等の武道にも言えることで、高速度撮影が可能な時代に、その判定を人間の不確かな目に最終判断を任すこと自体時代遅れといわざるを得ない。技術立国が相変わらず、判定方式を変えないのは不思議でならない。
機械にも苦手な部分は確かにある。しかし、人の目よりははるかに精度が高いことは常識である。同体であるなどの判断で取り直しをするが、どれだけ間違った判断で、勝負に負けた力士が多いか、録画で明らかであってもなくても、勝負には審査委員の精度が悪い感覚が優先するのかを冷静に判断すればわかることである。
国技イコール古い体質を持つ、歴史を持つ、悪弊も同時にである。相撲を愛するファンが広がることは好ましい。しかし、取り組みの組み合わせには、リーグ方式が無理であれば、トーナメント方式ぐらいは導入すべきで、恣意的な組み合わせはやめるべきであろう。
すでに、相撲ファンが減ってきていることは、満席となる客席が少なくなってもいるし、古くからの茶屋などの組織や、懸賞金などの掛け金をイベントの一つとしていることは、近代的なフェアなスポーツとは異なる方向に自然発生的に進んでいるのか、それとも何らかの意図をもって行われているのかはわからないが、素直に鑑賞できない疑念が付きまとう。