サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

ドラマ silent 雑感

2022年12月26日 | 手話・聴覚障害

ドラマ「Silent」の最終回が終了。
“聴こえない、聞こえにくい”人々を扱ったドラマで、「観とかないと」ということで全話を観た。
正直、ドラマの内容自体にはあまり入り込めなかったので、「画面や手話を眺めていた」というほうが近いかもしれないが、雑感を書き記しておきます。

「Silent」は聴覚障害当事者や手話関係者のなかでもかなり評価が割れているようだ。

ドラマの初回を視聴して最初の疑問は、中途失聴者が声を出さないこと。今まで出会った中途失聴者の方々の多くは、手話を習得されている方でも、自分の声量が適切か気にしつつ、声をとても大切にされているといった印象があったからだ。
もちろん声を出さずに手話や筆談をコミュニケーション手段としている中途失聴者もいらっしゃると思うが、そのリアルなマイノリティ像を描きたいというよりは、「手話を使うラブストーリー」という大きな流れが大前提にあるのかなと思った。 
手話、そして障害受容という苦悩があるほうがドラマを作りやすいだろうし、きっと聴者は入り込みやすいだろうから。


このドラマに監修で関わっている東京都聴覚障害者連盟の越智さんへの取材記事によると、あらかじめ「設定やシナリオ案のチェックを依頼」されたそうだ。
https://toyokeizai.net/articles/-/641110
記事には「高校生で(原文ママ 実際は大学生)聞こえなくなって、発音ができないとか、日本手話で話すとかは普通ないと意見したのですが、作品のテーマである『silent』にも関わることなので、声を出さないことが不自然でない設定にすることは何とかできないかという相談があり、何らかの理由で発音に対してトラウマをかかえていればありえるかも、とアドバイスして。それが放送されたような設定になりました」とあり、声を出さずに手話を使うラブストーリーというコンセプトが当初からあったことがうかがえる。
プロデューサーから脚本家へも「手話を使うラブストーリー」というコンセプトが最初に提示されたようだ。


聴覚障害に限らず、何らかの障害を描く場合、途中で聞こえなくなる、見えなくなる、何らかの身体的な障害を負ってしまったりするほうが、障害受容、ベタな言い方をすれば障害を乗り越える的にドラマを作れるので、そうなりがちではある。そのこと自体が悪いわけではなく、いわゆる「感動ポルノ」に堕することのないように、丁寧に肉付けされるのならば、一つのやり方として、それはそれでよいのかとは思う。


豊川悦司演じる榊晃次が子供の時に中途失聴した設定の「愛していると言ってくれ」も「手話を使うラブストーリー」だった。だとすると「愛していると言ってくれ」の最終回で榊晃次が「ひろこ!」と彼女=水野紘子(常盤貴子)の名前を呼んだように、「Silent」も最終回で佐倉想(目黒蓮)が青羽紬(川口春奈)に「つむぎ!」と声を出して呼ぶのだろうか、ただ同じようにはしたくないだろうから何かしら手を変えてくるのかと、初回が終わったときに思った。
その答えが最終回での耳元での囁きだった。


想と紬の手話指導をされたのは、中途失聴者でもある中嶋元美さんだそうだ。
彼女は高校で完全失聴、その後、ろう学校へ転校、彼女はもともダンスをやっていたということもあり、ほどなく手話パフォーマンスをやっている「きいろぐみ」にも通うようになったようだ。
きいろぐみには、私も手話を学びに通った経験があり、講座の後は必ずお茶に行き、声出し禁止で手話でおしゃべりをする。中嶋さんはそういった場や、聾学校で、どっぷり手話漬けになっただろうし、声でなく手話や筆談でコミュニケーションするようになったというのはとても頷ける経歴に感じた。
「しゃべると、聞こえると誤解される」という思いも強かったそうだ。
声を出すのは家族間だけのようだ。
彼女の実人生と比べると、想が声を出さない理由が、とても弱いように感じた。
また手話漬けとなる場も奈々(夏帆)との時間だけでは少ないことから、他のろう者(那須映里さん、実際のろう者)と出会わせたり、家族が(親父も含めて!)手話を覚えたりしたのだろう。

このドラマは、中途失聴者のリアルな姿を描くという地点からはスタートしていないようなので、そのあたりからくる、弱さ、脆さ、矛盾があり、聴覚障害当事者からの厳しい意見もあったのだと思う。
しかし肉付けの部分では、中途失聴者と生まれつき聞こえないろう者との違い、手話学習者とろう者の関係、SODA(ソーダ・Sibling of Deaf Adults/Children)の存在等、必ずしもうまく表現できたかどうかはおいておくとしても、それらのことまで触れた意義も大きいだろうし、そのあたりは聴覚障害当事者からの賛同も多かったのかとも思う。また大きな役ではなかったとはいえ奈々の友人役や手話講師役で実際のろう者が出演したこと、UDトークや筆談でのやりとりをじっくり見せたところも評価されているところだろう。
手話自体にも賛否があるようだが、手話の魅力が伝わり、学ぶ人が増えてほしいという期待はあっただろう。


ちなみに想の姉が産んだ子が、新生児スクリーニング検査を受け、聞こえる子だということがわかる場面があるが、その子の名前が優生(ゆうき)となっており波紋をよんだ。
優生という文字面は日本語字幕でしかわからないが、日本語字幕を通じてドラマを観る聴覚障害者のなかには、優生保護法の名のもと断種、堕胎を強いられてきた優生思想を連想する人も少なくなかったようだ。製作者側の意図は、問題提起なのか、炎上狙いなのか、偶然なのかわからないが これはいくらなんでも無しだろう。
聴覚障害当事者も原告として裁判で係争中で、ドラマ放映中の10月25日には「優生保護法問題の全面解決をめざす全国集会」も開かれている。


それから手話と字幕のことについて触れておきたい。
このドラマでは手話の際に付く字幕が脚本のセリフで、その日本語セリフを手話指導の方が手話に翻訳、俳優が手話で語るという流れだが、手話を見ながらセリフ(字幕)を読むと、その役の人間のセリフではないように感じる箇所があった。
制作の順序とは逆に、手話を翻訳したものが字幕になっているように見えなくてはならないのだが、そうは見えないというか。
日本手話と日本語の語順の違いもあったりするし、日本語セリフ(字幕)→翻訳された手話→手話から翻訳したように見える修正された日本語セリフ(字幕)、というような修正も必要だったと思う。
そういったこともやられていたのかもしれないが、やはり演出サイドにももっと手話に対する理解が求められるだろうし、ろう者役はろう者がやるという流れになるべきだと思う。
例えば聴者の俳優が日本語のセリフを話す場合、役の人間が発する言葉になりきれてない場合、意味は変えずに言葉を少し変えたり、言い方を調整したりする。聴者俳優がろう役を演じるにあたって、こういった調整は至難のわざだ。

ところで中途失聴者を描いたもので「サウンド・オブ・メタル」という映画がある。
主人公のドラマーが中途失聴し、ろうコミュニティに触れるもなじめず、人口内耳を選択するも…、という流れ。
失聴していく過程での、聞こえる音のひずみをもうまく表現していて出色の映画だった。


最後にサッカーについて。
silentの想は大学にサッカー推薦でいくほどの実力の持ち主。しかし、制作サイドに関心がないのか、ドラマ全体からサッカー愛がほとんど感じられなかった。
もしも続編や映画化があるのなら、デフサッカーやってください。


見えない人に手話を届けた? 映画「こころの通訳者たち」

2022年10月24日 | 手話・聴覚障害

ユニバーサルシアターであるシネマ・チュプキ・タバタでドキュメンタリー映画「こころの通訳者たち」鑑賞。

この映画は、とある芝居に舞台手話通訳が付いた様子をまとめた「ようこそ舞台手話通訳の世界へ」というドキュメンタリー映像に音声ガイドを付ける様子を描いたドキュメンタリー映画。

いわば二重構造になっているのだが、ようするに「手話を見えない人に届ける」という、かなり無謀なチャレンジのドキュメンタリー映画だ。

 

その中心は、本作のプロデューサーであり、シネマ・チュプキ・タバタの代表でもある平塚千穂子さん。映画にもガッツリと出演している。  

手話学習の際に「ラベル」と呼ばれる、表出する手話単語だけを抜粋したメモのようなものがあるのだが、それを役者のセリフと同時進行で、音声ガイドでも読み上げることを提案。 ある程度手話ができる私としては「いや。それはいくらなんでも無茶でっしゃろ」と心の中でツッコンでしまったが、「無知だからこそ踏み込めた、無邪気な提案」だった。

手話には「顔が主役で、手がおかず」と言われたりすることもあるように、手話単語以外の表出が言語として極めて重要な文法的な要素となっており、いわば手話の生命線でもあるからだ。

案の定、相談した手話通訳士からもかなりの反対を受けることになる。ちなみにその方は以前通っていた日本手話サークルの主宰者で、久々のスクリーン越しの再会で懐かしくもあった。

しかし平塚さんは、モニターである視覚障害者、ろう者、手話通訳者、ナレーター、介助者等を巻き込んで何とか打開策はないかと邁進していく。

「無知だからこそ踏み込んだ」場合、見るも無残な形になることも少なくないが、「目の見えない人にも映画を届けたい、共に鑑賞できるようにしたい」という変わらぬ思いで活動を続けてきた平塚さんだからこそ、ろう者、手話通訳者とも対話を積み重ね、解決の糸口を掴んでいく。

 

その平塚さんと、舞台手話通訳のドキュメンタリー映像を結びつけたのは、本作監督の山田礼於氏。その発想が、この極めて興味深い作品へと結実した。

この映画の後半では、音声ガイドを選択せずともガッツリと成果を聴かせてくれる。

通常、音声ガイドは映画本編の音声と出来るだけ重ならないように制作するが、本作の舞台手話通訳部分は役者のセリフと音声ガイドがもろに重なっている。音の調整はなかなか難しかっただろうと思う。

ただ、同時多発的な音声情報を視覚障害者の方々は聴き分けることにより、その感覚は、ろう者が舞台手話通訳を見ながら役者の演技をも同時に見ていることと、共通するものがあると思いを馳せることもできたようだ。

 

ちなみに私の場合は、手話が出てくると必死に見てしまい、それ以外の視覚情報が疎かになってしまいます。

映画「こころの通訳者たち」はシネマ・チュプキ・タバタの他、新宿K's cinemaでも上映中。


「友達やめた。」ろうとアスペの〝心の越境ドキュメンタリー映画〟

2020年10月05日 | 手話・聴覚障害

 聞こえない映画監督である今村彩子さんとアスペルガー症候群でうつもある女性(まあちゃん)の〝心の越境ドキュメンタリー映画〟『友達やめた。』を観てきた。
 
 今村監督の作品はずっと観ている。以前は監督自身「聞こえない人の世界を知ってほしい。外に向かってメッセージを送りたい」というスタンスだったようで、俺みたいに聞こえない聞こえにくいことに関することは何でも観る、読みたい立場からするととても貴重な映像だったが、それ以上でもそれ以下でもなかった。
 ところが前作「スタートライン」あたりからは「自分の中に入っていく感じ」になったようで映画として俄然面白くなり、むしろ外(聞こえる人)に向かった映画となっていった。

 今作は、小学校で給食を作り時には手話通訳をこなすアスペルガー症候群のまあちゃんのリアルな姿を描いた良作今村監督は「このままでは、まあちゃんを撮っているのではなく、アスペを撮ってることになってしまう…」と思い悩み、二人の距離は離れたり急接近したりしながら撮影は続いていく。
 充分に面白い作品だったが、前作ほどにはすんなり入っていけない面もあり、かなりもやもやも残った。
 聞こえないことによるコミュニケーションの断絶は今作ではない。映画を観るまで知らなかったがアスペルガー症候群のまあちゃんは手話通訳者でもあり、双方の会話自体には問題ない。今村監督は口話、まあちゃんは手話付き口話での会話である。2人にとっては口話無しの手話で会話した方が楽なように思えるが、映画用にそのコミュニケーション方法をとったのだろうか??
撮影はあきらかにその方が楽だし、聴者にはそちらのほうが見やすい。

 ということで 前作までは“聞こえない”マイノリティの立場だった今村監督が、今作ではマジョリティの立場に立つ。マジョリティとは、まあちゃんに言わせると“普通脳”ということらしい。その立場からの不快感、葛藤が映像化されていく。
 なのだが、どうも今村監督の立場に気持ちがついていかないのだ。監督は当初我慢を重ねていたが、まあちゃんが「いただきます」をきちんと言えないことや何も言わずにお菓子を食べてしまったことなどに怒ってしまう。俺は挨拶全般ががとても苦手で煮え切らない人間なので、2人の中間で居心地の悪さを感じながらスクリーンを見つめることになったりもした。
 映画パンフで能町みね子さんがうまいこと言っているので引用すると、
「“まともな”今村監督が “ちょっとおかしな”まあちゃんを撮っているはずなのだけど、観ていると、わっどうしよう私まあちゃんの気持ちのほうがわかってしまうぞ?と慌ててしまった。」
みたいなことである。
ということで、すんなり入り込めなかったりしたのだが、そのことは逆に映画の幅の広さにもつながっている。映画内で二人は仲良くなるタイプではないというようなやり取りがあるが、今村監督がもし聴者だったら、まあちゃんのような人に関心を持たない人だったのかもしれない。だがともかく二人は出会ってしまい、今村監督自身の“解放”のために映画を撮ることになる。その二人の距離の遠さのなかに大抵の人が投げ込まれ、距離感の変化によって観る側の立場も流動的で押し流されたりするというか、まあだからいろいろと考えさせられたりもする。

 なんだかまとまらなくなってきたが、(聞こえない人が作った映画なので)字幕テロップと音楽のことにあえてふれておきたい。

 この映画の字幕テロップは大きく分けると、以下になる。字体はそれぞれ変えてあった。
1手話への字幕 (数は少ない)
2口話への日本語字幕(手話付き口話も含む)
3心情や説明のテロップ
4二人の日記の抜粋
5テロップではないが、ラインのやり取りの文字
 3と4は聞こえようが聞こえまいが読む必要があるが、1と2はそれぞれの必要に応じてということになる。私の立場では、3と4だけ読むようにしていたが、3の心情や説明のテロップがすんなり頭に入ってこなかった。というか読むのに出遅れてしまうことがたびたびあった。直前の日本語字幕を読んでいた人はすんなり、その位置に出るテロップが目に飛び込んでくるだろうが、そうでないとつらい。
 日本語字幕と心情や説明のテロップへのスムーズな移行は、自分の映画に日本語字幕を付けた際にも大いに悩むことろでもあった。なかなか難しい問題だ。
 また日記の抜粋は、あれほど大量に引用するのなら、そのままの字体で読むのはつらかった。活字に直すか、丁寧に筆記で書き直すかしたほうがよかったのかもしれない。

 そして音楽。
 少々うるさく感じ、映画の中身への集中力がそがれてしまった。楽曲自体の良し悪しではない。というか悪くはない。そういう問題ではなく、付けるところにはべったりと付き過ぎている印象だった。箇所によってはもっとレベルを低くしたり、フェイドイン・アウトにしたり、曲数を絞って同じ曲を繰り返したり等の工夫があってもよかったような気がした。前作「スタートライン」が動的な映画だったので音楽も付けやすかったと思うが、今作はより繊細な工夫が必要だったのかもしれない。
 聞こえない監督が聞こえるスタッフの意見を聞いたり波形を見たりして音楽をつけるのはとても良いと思うが、早瀬監督の作品を観た時も感じたが、音楽がくどいような気がする場合が多い。難聴者のことを考えてそうなっていることもあるかもしれないが、このあたりはなかなかに難しい問題だ。

なんだか苦言を呈したような文章になってしまったが、充分魅力的な映画で、
私には撮れない映画です。

映画「友達やめた。」は、東京と名古屋で現在上映中。
10月9日まで新宿ks cinemaで10時~
10月16日まで名古屋シネマスコーレにて12時50分~
その他の地域でも随時公開。
配信もあるそうです。
詳しくは映画HPを参照。
http://studioaya-movie.com/tomoyame/

それからパンフレットは税込1100円で高い!と一瞬思ってしまったが、掲載されている「まあちゃんの日記」がとてもおもろい。買い、です。


愛していると言ってくれ

2020年06月22日 | 手話・聴覚障害

「愛していると言ってくれ」5話から最終話まで初見で観ました。
トヨエツの手話を最初に見た時は手の動きと顔のギャップで読み取りにくいと感じましたが、見慣れてくると読み取るのもそれほど苦でなくなり、セリフから「ろう的な手話」にうまく翻訳されているように感じました。
手話をかじっている人には「なるほど」と思うことも多々あったのでは。
私には到底真似出来ない翻訳。
手話指導には手話通訳の方のみならず、日本ろう者劇団の方々も関わっていたようです。だからでしょうか。
詩的な表現というか、感情が手の動きにこもっている場面もありました。昔を思い出す右手の動きとか。

「愛していると言ってくれ」の翻訳は、指文字の「アイシテイル」の後に人差し指を常盤貴子の口に当てる。唇から指が離れれば「言ってくれ」という手話になる。
「なるほどそうきたか!」という感じでした。
トヨエツが「ふられた」というところは、顔か何かの要素が足りなかったのか、ちょっとよくわかりませんでした。

他の人たちの手話や読み取り能力は、設定に比してうま過ぎる感じでしたが、そういう野暮(?)なことを置いておけば、なかなかに考え抜かれ手話単語も選び抜かれた、しゃべりながらの手話でもありました。当時、手話をやりたくなった人が続出したのはよくわかりました。特にトヨエツに魅せられた女性?
その後、大半の手話学習者は思ったように手話が上達しないことに落胆したかもしれませんが。ただ、今は当時よりは学べる場は増えています。この機会に手話を初めてみては?
ソーシャルディスタンスも気にせず、飛沫も飛ばさず会話できます。

ところでトヨエツの話し言葉を捨てた設定はよく理解できませんでした。
7才での失聴は、話せるけど聞こえないギャップに苦しむでしょうし、発音は明瞭だが音量の調整がむずかしいということかとも思いますし。
1~4回目を未視聴なので、観たらまた書き込むかもです。

自分の手話力は棚にあげた書き込みですので、おかしな点はご指摘ください。


都知事会見の手話通訳

2020年04月10日 | 手話・聴覚障害

本日の小池東京都知事の会見。
「私はちゃんとやろうとしたんですが国からいろいろ言われて」
「知事は中間管理職」
ということで、例えば居酒屋は協力費を支払うつもりだったが、払えなくなったということでしょうか。
補償を出すべき業種だと思いますが。

政府からすると国民の命は第一義ではないのかと思う今日この頃ですが、
都知事会見で手話通訳、日本語字幕を各局がどう対応しているかチェックしてみました。

生中継していたのは、NHK、日本テレビ、テレビ朝日、TBS、フジテレビ、MXTV。東京の地上波では、テレビ東京以外全て。
手話通訳は全局ワイプで抜いていましたが、フジテレビは少し遅れて、日本テレビがかなり遅れており最初は通訳無しでした。
日本語字幕は、TBSとMXTVは無し、他はあありました。

また各局が都知事の右に立っている通訳者をワイプで抜いているのに対し、MXTVだけは独自の通訳者がグリーンバックで抜かれていました。
MXTVに詰めている通訳者ということでしょうか。
その2人のうちの1人が、地域の手話通訳者の先生だったので個人的にはびっくり。

ワイプの大きさは日本テレビとMXが大きめで、あとはあまり変わらないようでした。

手話通訳者の読み取りやすさは、日本手話が母語のネーティブサイナー、日本がかなり頭に入っているろう者、中途失聴者によって違うかと思うので、
選択すると良いかも。
今日の方式だと選択肢は2つ、MXTVとどこか他局。

今日の放送で言えば、聴覚障害者は、手話通訳と日本語字幕が最初からあったNHKかテレビ朝日が良いということになります。
MXTVは日本語字幕はありませんでしたが、通訳者が違うので選択肢に上がってきます。

大阪府知事の会見に手話通訳をつけないという記事を読んで驚き、思わず下記のtweet、都知事の手話通訳に関してチェックしてみました。
「手話通訳をつけないなんて考えられません。
情報保障をなんだと思ってるんですか!
とにかく現在頼めるベターな手話通訳者をつけるべきです。
マスクを外せば聴覚障害者が読み取れると思っているのなら、無知の極みです。」