東日本大震災から10年。これまでボランティアとして幾度となく被災地を訪れている“ちょんまげ隊長ツンさん”の誘いで、3月10日~11日と福島、宮城の被災地を巡ってきた。ツンさんは、ちょんまげ姿で有名なサッカー日本代表サポーター、拙作「MARCH」のプロデューサーでもある。
緊急事態宣言下ということでの躊躇、この日だけ行ってどうなるのだろうという気持ちもあったが、公文書の改ざんを強いられ自らの命を絶つことになった、故・赤木俊夫さんの奥様である雅子さんと合流する予定もあるということを聞き、「それならば」ということで即決。以前にも雅子さんにお会いしたことはあったものの短い時間言葉を交わしただけで、改めて「応援しています」という意思を明確に伝えたかったし、夫を亡くされた雅子さんが被災地でいろいろと感じられるであろう、その様子を感じ取りたいという、いささか不純な興味も相まってのことだった。
出発に当たっては、被災地巡りの参加要件だったPCR検査を受けた。民間で格安に行っているもので疑陽性の場合もあったりするらしいが、やらないよりははるかに良いだろう。
まず向かったのは福島県広野町、サッカー日本代表のシェフ西芳照さんのお店クッチーナ。代表戦当日選手たちの定番カレーでお腹を満たす。その後、Jヴィレッジへ。震災後は避難所、自衛隊、そして原発作業員の方々の拠点となりピッチは駐車場として利用されていたが、現在はサッカートレーニングセンターとしての姿を取り戻しホテルも新設された。ピッチ上に作業員の仮設寮が立ち並んでいたJヴィレッジスタジアムは鮮やかな天然芝に。“2時46分”でずっと止まっていた時計も動き出している。
2011年3月11日午後2時46分、私はといえば、東京の自宅でサッカー日本代表が優勝したアジアカップDVD編集の真っ最中だった。揺れ始めた瞬間は「編集データがふっとんだら大変だ」と思ったが、TVをつけるととんでもない規模の震災に言葉を失くした。だが納期が迫っている身としては、3月中、震災から背を向け「こんな時に俺何やってるんだろう」と思いつつ不眠不休で編集作業を行なわなければならなかった。長友選手のクロスからの李忠成選手のダイレクトボレー。ザッケローニ監督のインタビュー等々。
やっと作業は終わったものの、東北にボランティアや撮影に行くこともなかった。その年の暮れにブラインドサッカーパラリンピック最終予選が宮城県で開催された際に、せめてもと石巻から女川に足をのばした。女川では、かなりの高さの高台にある病院の一階まで津波が押し寄せたと聞き、津波の巨大さを実感した。病院横の仮設店舗のカフェに入ると、乳飲み子を抱いた女性が出迎えてくれた。赤ちゃんは、震災後5月の生まれで朝日ちゃん。「たとえ停電して真っ暗闇でも、朝になれば太陽は昇ってくる」。そんな思いからの命名だという。
その後の2015年、前述のツンさんより南相馬市小中学生マーチングバンドの短編ドキュメンタリー映画「MARCH」を作ってほしいという依頼があり、何も関われていないという忸怩たる思いもあって快諾。福島県浜通りに何度も通うことになった。映画の内容は試行錯誤したが、女川で出会った“朝日ちゃん”のことを思い出し、ラストは朝日だということだけは最初から決めていた。
ちょんまげ隊一行はJヴィレッジスタジアムを後にし、宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区にある「閖上の記憶」へ。この場で合流予定だった赤木雅子さんや、長らく森友問題を取材している記者の相澤さんは既に到着しており、翌日「追悼のつどい」で飛ばす予定の「ハト風船」にメッセージを書き込まれていた。雅子さんは、故・俊夫さんへの、似顔絵付きの思いっきりのラブレター。「閖上の皆さんと仲良く」という言葉も添えて。相澤さんは、現場に戻るきっかけになった震災についての書き込み。俺はといえば「いつまでも忘れません」という月並みなことしか思い至らず。「ああ、しかしいったい俺は、彼ら彼女らの何を知っているというんだ」。せめてもと展示物を見て何故チューリップの写真があるのかなと眺めていたら、中学1年13歳の息子さんを亡くされた語り部の丹野さんが教えてくれた。慰霊碑の横に多くの球根が植えたが、花が咲いたのは亡くなった中学生14名と同じ数の14本だったという。
その後、慰霊碑に刻み込まれた中学生たちの名前に手を置き、手を合わせ閖上を後にした。
次に向かったのは74名の児童と10名の教職員が命を落とした石巻市大川小学校。北上川を横目に見ながら、大川小学校に向かっていく。穏やかな気候でこの川を津波が遡っていった様がなかなか想像できない。大川小は震災遺構保存のための工事中で、児童たちが40分ほど待機していた校庭には入ることができない。校庭は裏山と連なっており「あの場所に避難できていたら」と思わずにはいられない。裏山へ上る道は、(現地では直接の確認はできなかったが複数の写真や映像を見る限り)教職員が低学年のサポートをすれば小学生でも上れる傾斜のように思える。ただ余震による崩壊や落下の心配はあっただろう。当時は津波が来た際の避難場所が特定されておらず、教訓として語り継がれていくべきことだろう。教職員のご遺族の方々は複雑な思いを抱いておられるとは思うが。
そして女川。2011年12月とは様相が一変。病院にある高台に上がっても高さを感じないのは、全体がかさ上げされたためだった。
宿は牡鹿半島、西の海岸線にある小渕浜の「めぐろ」。震災当時は道路が分断され支援もままならず、最初の支援は別の港からきた漁船だったという。骨まで食べられるキンキのみぞれかけ、新鮮なワカメやメカブのしゃぶしゃぶ等の料理に舌鼓を打った後は、地酒を飲みながら、地元の方々も交えた語り合い。
家を流された方、息子を亡くされた方、そして赤木雅子さんの思いと共感が交錯する。濃密であり、厳粛であり、どこかリラックスした時間。
たただただその言葉群を、震災復興純米酒「閖」とともに流し込んだ。マスクを着脱しながら。
翌日は、南三陸町防災庁舎の遺構、気仙沼経由で、南三陸ハマーレ歌津へ。そこは何故か多数のJリーグフラッグがはためく商店街。震災後、オープンしした仮設商店街に大漁旗を飾ったそうだが返却しなくてはならず、「大漁旗が無くなるとさみしくなるよね。目立つ旗が欲しいな…」という呼びかけに、Jリーグのサポーターたちが応じてどんどんフラッグが増えていったそうだ。近隣の子供たちは大喜び。その流れのなかでツンさんとの交流も生まれ、3月11日の慰霊献花式に毎年参加させてくれるという。当日の会場設営は松本山雅サポーターが担った。
午後2時46分に黙祷。その後、花を手向けさせていただいた。
そして10年前の津波が襲ってきた時間が近づいてくる。なんともザワザワした感情。
その後は一路福島浜通りへ。6号線沿いの現在の風景を車内から見渡しながら南下。10年間、時が止まったままの場所も多い。
福島第一原発のデブリは、何十年という単位で取り出せるものなのだろうか。
そして富岡の「富あかり」会場へ。震災で亡くなった方への鎮魂の祈りと、未来への希望を込めて、竹あかり(竹灯篭)80本、三角灯篭660個に火を灯すというもの。17時30分から始まった点灯はすべて終わった後で幻想的な雰囲気を醸し出していた。三角灯篭には「たちあがろう」「もうすぐ戻るから待ってろ」の思いを込めた文字。そして花火も打ち上げられた。
東日本大震災から10年。TV等でも様々な特集が組まれていたが、正直、(言葉は悪いが)いささか食傷気味というか、頭にすんなりと入ってこないこともあった。
駆け足で回った2日間では未だにただただ言葉を失くすことも多かった。だが具体的な顔が見え、あそこで出会ったあの人が生きている町、あの風景のなかで生きている人々、と少しだけ思えるような気がする。
そういう意味でも、直接足を運ぶことは貴重だった。
町の復興の進み具合はまちまちだったが、複数の方が語っていたのは「こころの復興は全く終わっていない」ということだった。