サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

鮫島選手がクロスを入れたその場所は…

2015年12月30日 | 映画『MARCH』

ああ、鮫島選手は左サイドを駆け上がり、このあたりからクロスを入れたんだろうなあ。
バックスタンド観客席最前列から見ると、サイドの選手は手が届きそうなくらい近い。
前日に観た皇后杯決勝での鮫島選手、彼女が水色のユニフォームを身に纏い左サイドを駆け上がる姿が脳裏に浮かんだ。

かつての東京電力女子サッカー部マリーゼの本拠地Jヴィレッジスタジアムは、5千人収容のサッカー専用スタジアム、だった。
だがそのピッチ上には、現在原発で働く作業員・職員の方々の宿舎が建っている。

一つ前の記事に書いたように前日皇后杯決勝を観戦した後、その日のうちに福島県浜通り相双地区へ移動。
翌日、南相馬市を中心とした小中学生のマーチングバンド『Seeds+』の短編ドキュメンタリー映画の撮影の一環として福島県双葉郡楢葉町のJヴィレッジスタジアム、そしてJヴィレッジを訪れた(もちろん許可をいただいて)。

Jヴィレッジ内の、かつては天然芝だったピッチは現在も駐車場として砂利が敷き詰められて使用されている。
上から見るならばともかく『駐車場』に足を踏み入れると、かつて天然芝のピッチだった面影を探すほうが大変だ。『DREAM』や『百年構想』の看板、照明塔などにわずかながらの面影を残すのみだ。
人工芝だったピッチにも鉄板が敷き詰められている。人工芝のままの場所も駐車場として稼働。地震の影響なのか駐車場として長年使用されてきたからなのか、タッチラインは大きく湾曲している。

そして少し離れた場所にあるJヴィレッジスタジアム。
ゴール裏の得点板の時計は、地震が起きた時刻のままだ。

また翌日撮影に訪れた別の場所の時計は、津波が襲った時刻で止まっていた。
その他にも3月12日の時点で時が止まったエリア。
3月12日は、放射線からの避難が始まった日だ。

それらの多くのこと、そして多くの思いまでをも短編ドキュメンタリー映画に詰め込むことは出来ないが、もう少し格闘して編集を進めていきたいと思っている。


PS しかし資金難で、編集する時間自体を捻出するのにも四苦八苦。


澤穂希引退試合、というか皇后杯決勝生観戦

2015年12月27日 | サッカー

『持ってる』としか言いようがないのだろうか。

皇后杯決勝での澤選手。

後半途中からは完全にゲームから消えていた。ブレーキにさえなっていた感もあった。
この連戦のフル出場では致し方ないだろう。
監督も引退がかかった試合でなければ休ませながら使ったのだろう。

その澤選手が、後半33分、川澄選手のコーナーキックからヘディングシュートを決めINACが優勝。
まるで出来過ぎのクソつまらないシナリオを読んでいるかのようでもあった。
しかしそれこそが事実。レジェンドのレジェンドたる所以だろう。

 それまではむしろ新潟アルビレックスレディースの方がいいサッカーをしていた。
前線からハードワークするし、盛んにポジションチェンジというかシステム変更も繰り返す。
 
前半、INACの右サイド、アルビレックスの左サイドを盛んに攻められるとFWの山崎を左サイドに回し上尾野辺選手はトップ下に、といったように4.4.2から4.2.3.1へ。
上尾野辺選手の攻撃力を活かす、尚且つ守備力をカバーするためだろう。そして機を見てまた戻したりなど。 
山崎選手は体をはって頑張ってました。

 とにかくこのサイドの攻防はかなり見応えがあった。
山崎選手が左サイドに入るとINACのサイド攻撃が沈静化したが、ピンポイントのアーリークロスを入れたりと川澄選手と近賀選手のコンビが老獪なところを見せる。(老獪などという言葉を使ったら失礼かな?)

決勝点につながるコーナーキックもこのサイドから生まれた。
裏へ抜けた大野選手へのクロスがコーナーキックへ、そして澤選手のゴールとつながる。

 まさに絵に描いたような終わり方をしたわけだが、例年皇后杯決勝を見て着る立場からすると、なんだかモヤモヤ感が残る決勝でもあった。アルビレックスもいいサッカーはしてきるものの決め手を欠いたし、INACも世代交代がうまくいかず(澤選手も含めて)センターラインには物足りなさを感じた。

INACは澤さんの引退で来年どうなるのだろう?
若手の台頭にも期待したいが、澤さんよりはまだまだ若い伊藤香菜子選手のもう一頑張りにも是非期待したいところ。

 
澤さんの現役を振り返ると、なんだか凄すぎて私なんぞか言えることは何もないのだが、
ライターの江橋さんも言うように2003年のアテネ五輪予選の北朝鮮戦は強烈に記憶に残っている。
あとはどうでもいいけど、ある時、確か山の手線内で「おしゃべりしている体育会系のおねーさんたちがいるなあ」と思って声のする方を見たら、澤選手がいて大野選手や小林弥生選手とおしゃべりに興じていた。
その当時、車両内で彼女たちのこと知っているのは俺だけだろうなと思ったものですが、今だったら大変です。

まあそれはともかく決勝の観客数は2万人をこえ、皇后杯史上最多らしい。
まさに澤効果!

しかしサッカーを見てない人が多い!

サッカー見ようよ!

来年の決勝も観戦しましょう。

そして澤さん、お疲れ様でした!

(慌ててブログ書いたので、誤字脱字、へんてこりんな箇所があったらごめんなさい)


聴覚障害児の入所施設が閉園、新たな形の存続が必要!

2015年12月03日 | 手話・聴覚障害

 聴覚障害児の入所施設である「金町学園」(東京都葛飾区)の閉園が決まったそうです。
 金町学園は現在定員30名のところ29名が在園し今年度内と来年4月からの入園希望の相談が各数名いる状況であるにもかかわらず、です。聴覚障害児の入所施設が必要なくなったわけでは決してありません。
 しかし平成30年3月31日の閉園は決定事項のようです。

 と、言われても「なんのこっちゃ?」と思われるかたも多いでしょう。
 まず金町学園とはどういうところでしょうか?

 金町学園には、本人や家庭の事情による課題を抱えた児童が入所し、その解決や改善をめざして生活しています。また、聾学校から大学進学をめざす児童や、ろう学校で調理師や様々な資格を取得して社会自立をめざす児童の支援もしています。
(『日本聴力障害新聞』2015年12月1日号より)

様々な事情や課題を抱えた聴覚障害児の『駆け込み寺』的な側面も担ってきたと言えるかと思います。また例えば、地元のろう学校にはない多様な進路を求め親元を離れて入所したりするわけです。金町学園に入所し、そこから都内のろう学校に通ったりします。学園といってもいわゆる学校ではありません。法的には「福祉型障害児入所施設」ということになるようです。
 それならば、寝泊まりできる寮があればそれでよいではないか?何も聴覚障害児童だけが集まる必要はないではないか?と思われる方もいるでしょう。

 聴覚障害児の成長・発達には、「手話」という共通の言語によるコミュニケーション集団と、聴覚障害に適した学習方法が適した学習方法が不可欠です。入所施設はそれらを保障する数少ない生活の場です。関東・東日本地域で唯一の聴覚障害児入所施設である金町学園の閉園は、現在入所したり、入所を必要とする子どもたちの行き場所、居場所をなくすことでもあります。
(『日本聴力障害新聞』2015年12月1日号より)

 もちろん聴者(聞こえる人)のなかで、学び育つことを選択する聴覚障害児、その親もいるでしょうが、聴覚障害児の唯一の自然言語である「手話言語」が基盤である入所施設の存在は不可欠です。音声言語の施設でいっしょに生活し、様々な課題を解決していくことには限界があります。

 サッカーを通じて様々な障害に触れる機会がありますが、聴覚障害はどうにも誤解されやすい障害だという実感があります。他の障害に詳しい健常者や当事者が、どうにも聴覚障害のことを理解しれくれないと感じたことは何度もありました。他の障害との決定的な違いは言語の問題です。健常者や他の障害者は日本語話者(機能や知能の問題でうまく日本語を操れない人はいるでしょうが)ですが、聴覚障害者はそうではなかったりするわけです。もちろん現実的には聴覚障害者のなかにも日本語話者(第一言語が日本語で手話ができない人)もいます。
 また「ともに」「いっしょに」という言葉をいろんなところで耳にしますが、『絶対的な善』の言葉として使われ過ぎているような気もします。聴覚障害児は『言語』の観点から言えば、(健常者、聴者とは)別に学び、生活することもまた重要だと思います。少なくともそういった選択肢は確保されているべきです。
 ろう学校とはまた別の『生活の場』を必要としている聴覚障害児が存在するのなら、それに対応する入所施設が必要だということになります。

強い危機感をいだいた金町学園の関係者を始めとする方々が、新しい社会福祉法人「聴覚障害児の会」の設立や新学園設立に向けて動き出しているようです。
今後、より具体的な形になっていけばまた何かしら書き込もうと思います。


分かりやすく書き込もうとしましたが、あまりうまく書けなかったかもしれません。

あ、それからそもそも何故『金町学園』のことを書きこんでいるか言うと、映画『アイ・コンタクト』を手伝ってくれた聴覚障害者の女性が職員として働いていたり、その後上映でお世話になっている手話通訳者の方も関係されていたりということもあるからです。

(少しだけ加筆しました)