サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

やまゆり園事件を題材とした映画『月』

2023年10月30日 | 映画

2016年7月26日、45人が殺傷され、うち19人の方が亡くなられた『津久井やまゆり園事件』を題材にした映画『月』が公開中、『月』の雑感を書き記しておきます。

その前に、事件と私の関係(というほどのものではないですが)です。
各障害者サッカーの映画制作を通じて、知的障害、聴覚障害、肢体不自由の人たちとつながり、描いてきた私としてはとてもショッキングな事件だった。当初は忙しさにかまけ何もすることができなかったが、2020年初頭の公判あたりからは事件の全容を理解しようと関連書籍を読み漁り、神奈川新聞、東京新聞の関連記事も事件当日まで遡ってすべて目を通した。映画の原作となった「月」も当然読んだ。

公判にも通い一度だけ抽選に当たり傍聴することもできた。その後も関連シンポジウムに顔を出したり、やまゆり園や自宅付近も何度か歩いてみたりして、何とか映画(フィクション)にならないものかと、植松が生まれてから犯行にいたるまでを書き起こして、プロットなども何度か書いてみたがきちんとした形にはならなかった。
また電動車椅子サッカードキュメンタリー映画『蹴る』の制作の流れで介護福祉士の資格を取り、また強度行動障害の状態にある入所者がいる施設に通ったり、強度行動障害支援者養成研修を受講したりと、いわゆる福祉側からの視点としての興味も持ち続けた。

そんななか、昨年の夏ごろに映画が作られると知り、完成したら是非観たいと思っていたところ、試写会で観ることができた(公開後にも再見した)。ということで感想を書いていきたい。

まず大前提として、難しい題材を映画化したスタッフ、キャスト、関係者の方々には敬意を表しますし、何よりも映画が作られ多くの人に目に触れ、風化しつつある事件を改めて考え直すきっかけになったことは素晴らしいことだと思っています。

では項目別に感想を書いていきます。

『きーちゃん』の描き方
きーちゃんは原作である小説『月』の登場者。目も見えず、発語も他者との意思疎通もできず、上肢下肢も顔面も動かせず、ベッド上に“かたまり”として存在し続ける。原作はほぼ、そのきーちゃんの想念で埋め尽くされている。
事件に則して言えば、被害者側、殺された側の人物である。

その想念をなんらかの形で直接映像化するのか、あるいは別のやり方をするのかがまず最初の興味だった。
映画では、書けなくなった小説家である洋子(宮沢りえ)が、きーちゃんの心を書き、彼女自身の再生のドラマとしても描かれる、という間接的な表現となっていた。

想念を直接映像化すればおそらく観客層を狭めることになるだろうし、元々、故河村光庸プロデューサーの「なるべく多くの人に観てもらえるような構えの大きい映画にしたい」という意図があったようで、だとすると、おのずと選択肢は限られてきたようだ。
それならそれで良いと思うが、洋子が書き上げた小説を、なんらかの映像表現で、きーちゃんの言葉としてさとくんに対峙すべきなのではないかと思った。(さとくんとは、植松聖死刑囚をモデルとした小説内の登場者)

小説は、事件後、事件に対峙するものとして存在し続けるということはわかるのだが、映画内で描くべきことだったのではないか。
原作では、きーちゃんを殺しにきたさとくんに「(略)〈ひとでないひと〉というのは、きみのかってなきめつけだ」「あ、あ、在るものを、むりになくすことはない……。あ、在ることに、い、い、意味なんかいらない」と訴えかける。その場面に代わりうるようなシーンとして。


『さとくん』の描かれ方~職員の描かれ方 その他
原作に出てくる『さとくん』は植松聖死刑囚をモデルにした登場者であり、事件をどう描くかということとストレートにつながってくる。植松には多くの方々が接見したが言いたいことだけを言い放ったという印象はぬぐえず、また責任能力の有無に終始した一審でも十分な解明にはいたらず、犯行にいたるまでの過程の足りない部分をフィクションの想像力でどう補うのか、そしてそもそもどう描くのかと思い注視した。

映画パンフレットで石井裕也監督が「植松自身の人間像を掘り下げるだけではあまり意味がない」「限りなく『ごく普通の人間に置き換えていく作業』」と言うように、「事実に寄せ過ぎないように」人物造詣がなされ、例えば普通だけど紙芝居の内容がちょっと変という味付けはされているものの、実際の事件に比して犯行に至る心理過程は圧倒的に足りなかった。
映画「ジョーカー」のように観客がさとくんへ感情的に後追いするような現象は回避しなくてはならないだろうし、確かに致し方ない面もあるだろう。
また「彼が持つ思想や考えはいまのこの社会の産物であって、ごく普通の誰の心の中にも潜んでいるんじゃないか」と石井監督がいうように、英雄視は論外としても、特別なことではなく社会の問題として描きたいこと自体は理解できる。

しかし、さとくんをできるだけ普通に描く一方、監督が取材した障害者施設での虐待の現状をリアルに描いている部分があり、結果として施設内のいびつな虐待や糞尿まみれの入所者そのものが、さとくんを犯行に向かわせたという印象が強まっている。
もちろん一つの要因にはなりえるが、あきらかに映画全体のバランスが崩れているようにも感じた。

実際には植松は、介助経験から感じたこと、日本の財政危機やトランプ大統領の台頭、犯行を犯せば総理大臣に褒められると(植松が勝手に)思った政治状況、ネット空間の影響、イルミナティカードの勝手な解釈、薬物の影響、個人のパーソナリティ等々、複合的な要素がからまって犯行にいたったものだと思われる。

また施設を舞台とするならば、虐待とはほど遠い、小説家志望でもない、いわば普通の職員たちと重度障害者の密な関係をベースとして描く必要があったのではないか。もちろん撮影することは容易ではないが。
一度公判を傍聴できたと前述したが、その日は、やまゆり園職員の方の意見陳述があった。犯行当日、入所者がしゃべれるのかしゃべれないのか植松から確認された職員の方だった。映画では陽子(二階堂ふみ)の存在にあたる。
PTSDに苦しみ、植松に対しては「命が終わる最後まで、命の尊さと向き合ってほしい」と述べられた。その残酷な場面との対比の意味でも、日常の様子はあったほうが良かった。自分であれば最もこだわる場面でもある。

石井監督は、実際の障害者の方々が出演することにはこだわり、撮影した施設側の協力もあって出演されたそうだ。そして撮影そのものが出演された障害者の方々にその後好影響を与えたようだが、原一男さんも指摘されているように彼ら彼女らが『小道具』の域をでていないようにも感じた。
(渋谷ユーロスペースの壁面に原一男さんの批評が張ってあった。最後、持ち上げるのかと思いきや最後まで辛辣な批評だった)

さとくんに話を戻すと、恋人=祥子(長井恵理)がろう者の設定になっていた。この設定にはとても大きな違和感を感じた。
植松は「意思疎通のとれない人間」は生きていてもしかたがないとい主張していたが、話すことができなくとも手話で語る聴覚障害者は植松の対象外だという。石井監督はそれを受け「彼の不寛容さを描くにあたって、どこに寛容さを示すのか明確にしておきたかった」ことから、ろう者が恋人である設定にしたというが、明確にするのは良いと思うが、恋人の設定にするのはあまりにも飛躍し過ぎだと感じた。
またろう者である祥子は「我々が使うだらしなく使う言葉の空虚さから逃れている存在」というが、聞こえないから音声言語の空虚からは逃れているかもしれないが、手話も言語だからこそだらしなく使う言葉の空虚さをもつわけで、手話に対する何か幻想じみたことを感じていたのだろうか。

撮影としては、実際のろう者である長井恵理さんがキャスティングされ、手話指導もろう者監督の今井ミカさんが入り、しっかりと進められたようだが、そのことと、ろう者の恋人を設定することは全く異なる話だ。

長井さん(祥子役)と磯村さん(さとくん役)は、2人が付き合って何年目であるとかいろいろ話したらしいが、自分の頭のなかでは2人の過去を考えれば考えるほど、犯行へといたる、さとくん像が見えなくなった。
また犯行に及ぶ日の朝、さとくんは彼女に聞こえないように犯行をほのめかすことをしゃべるが、そのことがプラスに働いているとは思えなかった。
この恋人設定は「『ごく普通の人間』に置き換えていく作業」のなかで、行き過ぎた改変だったのではなかろうか。

陽子(二階堂ふみ)も昌平(オダギリジョー)も石井監督の観念の産物というイメージが大き過ぎるように感じた。現実に起こった事件を元に描くにあたっては、石井監督以外の脚本家も加わり、もっと客観視できる制作体制にすべきだったのではないかとも感じた。

ただ前述したように、映画が作られ多くの人に目に触れ、風化しつつある事件について議論するきっかけになっていることはとても評価しています。
言うは易し、作るのは大変です。

(参考資料)
映画「月」パンフレット
月刊「創」11月号(創出版)
「月」辺見庸(角川書店)


映画『月』は試写会と公開後の2度観たが、試写会では、元津久井やまゆり園の職員の方や、やまゆり園事件に詳しい方々と観て、その後感想を語り合った。
その元津久井やまゆり園の職員の方が映画.comに感想を書かれている。

https://eiga.com/movie/99730/review/03114141/


佐村河内守氏を描いた映画『Fake』を観てきた

2016年06月22日 | 映画

(後半、ネタバレがあります。途中で言及しています。)

 佐村河内守氏を描いたドキュメンタリー映画『Fake』を観てきた。
 
 まず最初に感想を簡単に書いておく。
 面白かった! しかし映画全体があざといと言っていいほどの構成になっていて、もちろんよくできた構成とも言えるのだが、選択された場面意外を見たいという欲求にかられた。見せられている欲求不満というか。まあでも作るの大変だったろうし、森監督以外の人間ではそもそも企画が成立しなかったのかもしれない。

 映画を観始めた時、もし私が佐村河内氏に「ドキュメンタリー映画を撮りたい」とアプローチしたとして、受け入れてくれたのか?受け入れてくれたとしたら内容はどんなものになったのか?そういった邪念が駆け巡り、頭の中が暴走しそうになってしまった。それではいかんと途中からはスクリーンに集中した。

 それはさておき映画の前半で佐村河内氏は、謝罪会見で自分の聞こえの問題に関しての資料をきちんと提示したのにもかかわらず、マスコミがほとんど正確に報じなかったことを繰り返し訴える。その点に関しては全くその通りで謝罪会見の頃は、TVをつけても間違いのオンパレードでひどいものだった。
 そういうこともあってか謝罪会見当日に書いたブログ記事はかなり多くの方に読んでいただいた。趣旨としては、佐村河内氏がやったことと、佐村河内氏の聴力とはきちんと分けて考える必要がある。『聞こえにくい』人であることは間違いないだろうというもの。
(とはいえ私の書いた記事にも勘違い、間違いはあった)

その時の記事は以下。良かったら読んでみてください。
http://blog.goo.ne.jp/kazuhiko-nakamura/e/17f6f7548a61f5401910641dd57f0e1b
http://blog.goo.ne.jp/kazuhiko-nakamura/e/7556bde8edd3a5830f1040ae2e3f1419

 会見で示された診断書(映画でも再三登場する)によれば、佐村河内氏は日本国内においては障害者手帳を取得できない聴力ㇾべルだが、『聞こえにくい人』(中度難聴)である。
 そのことは映画の随所でも感じることができる。微妙な発音の違いを認識できなかったり、テレビの音を大きくして見ていたり。
 もちろん佐村河内氏が映画の中でも多少の嘘をついている可能性はある。例えば森監督が口の形を見ないで音を言い当てるといった場面でも、“たまたま”わかったのにわざと外した可能性もないとは言えない。映画のなかでは母音部分はあっているが子音部分を間違えている。あるいは作り手のほうが、当たった方ではなく外した方を編集で使っただけなのかもしれない。不明瞭に聞こえるということは、当たる場合もあれば外れる場合もあるわけだ。
 TVの音だって必要以上に大きくしていたのかもしれない。編集でテレビの音だけ大きくした可能性だってある。普通のドキュメンタリーではやらないだろうが、この映画は全部Fakeかもしれないと監督自身が言っているような映画だ。何らかのあざとい演出があったとしても不思議ではない(かもしれない)。まあそこは違うでしょうが。
 ちなみにTVの音を大きくして視聴することは、診断書に示された佐村河内氏の聴力レベルであれば有効だ。『聞こえない』『ほぼ聞こえない』状態であればTVの音はもちろん意味をなさない。

 そういった『聞こえにくい』ことを証明するための小さな嘘が少しはあったかもしれないが、佐村河内氏が『聞こえにくい』存在であることは間違いないだろう。だがそのことは2年前の記者会見の時点でわかっていたことでもある。

 佐村河内氏の大きな嘘が露呈してしまう以前、もっとも罪深い嘘は『聞こえにくい人』が『聞こえない人』を演じたことだろう。自身が聞こえにくくなるなかで、その先にあるかもしれない『聞こえなくなる』ことに恐れをいだき、「聞こえない作曲家として売り出したらどうだ」という悪魔のささやきに耳を貸したのだろうか。そのささやきだけは耳鳴りのなかでも明瞭に聴くことが出来たのか? 

 作曲家、音楽家として、『聞こえにくい』ことでの限界性を感じ苦悩したことは間違いないだろう。そして同時に己の作曲能力の限界(譜面が読めないことやクラシック音楽への素養の欠如、知識ではなく技術面)の克服のために新垣氏の力を借り、『聞こえない作曲家』というキャラを演じた。

  佐村河内の嘘のなかで個人的に興味があるのは『聞こえない』というキャラを演じると決め、そして実行していった流れ。その足跡は奥さんとともに歩んだものなのか、奥さんをも欺いたのか?
 考えやすいのは奥さんとともに歩んだ、つまり共犯関係にあったということだろうが、真実はわからない。映画内でもはっきりした言及はない。間接的に触れた箇所はある。
 そのあたりのことは関係性を壊したくないということもあるのか、あまり追及されることはない。ある種のラブストーリーとして進行させるためにはそのほうが良かったのだろうし、奥さんとの信頼関係を築くためにもそうする必要があったのかもしれない。
 
 ともかく佐村河内氏は、『聞こえない作曲家』を演じるために手話を学び始めた。手話は『聞こえない作曲家』を演じるにあたっては必須のアイテムだからだろう。奥さんも必要に迫られ学び始めた。もちろん佐村河内氏くらいの聴力レベルの人でも手話を学び始める人も少しはいるだろうが、多くは補聴器を装用し聴覚活用で『聞こえにくさ』を補うという場合がほとんどだ。
 ちなみに映画内では奥さんが手話通訳を務めていて一般的な手話通訳能力には欠けるという印象だが、佐村河内氏向けの通訳としてはきちんと機能しているように見えた。通訳方法は、聴者の言葉を逐次リピートしつつ、手話単語、指文字を表出させるというもの。リピートすることにより佐村河内氏は2度聞くチャンスを与えられる。また普段から見慣れた奥さんの口形を読み取る。見慣れてない人の口形は読み取りにくいのだ。そして補足として手話単語があり、指文字も多用されるという感じだった。まさに佐村河内氏のための通訳だった。印象としては総合的な手話力はあまり高くないように見受けられた。

 佐村河内氏の聞こえに関することに関しては少々物足りなく感じたのも事実だが、ラストのネタバレとも絡んでくるので後述する。
 
森監督の基本スタンスとして、絶対的な“真実”などない、0か1か、白か黒か、という二元論に異を唱える映画を作ろうしているのはわかるのだが『聞こえ』に関する追及の甘さに物足りないと感じたのも本当のところである。
 
 真っ当にドキュメンタリーを作ったら二元論に収束されるはずはない。ほとんどの現実そのものが二元論で語れるようなものではないからだ。だが多くのドキュメンタリーと呼ばれているものが“わかりやすく”というお題目のもと、都合のわるいものを排除し単純化する傾向にあるのもまた事実だろう。
 
 映画『Fake』は、そういった二元論に異を唱えるためにあえて単純化した構成を採用しているようにも見える。具体的に言えば、佐村河内氏側から見れば、新垣氏やマスコミのほうがおかしな存在に見える。そういった構成に観客はまんまとはめられていくわけで、映画としては正解だったのだろう。
 

 ゴーストライター問題では、佐村河内氏は再三コンセプトは自分が考え主要なメロディラインは自分が考えたと主張する。コンセプトを考えたのは残されたメモからも間違いないのだろうが、コンセプトだけでは曲の共作者とは言い難い。
 作曲という観点から見れば共作ではないとしても佐村河内氏がプロデューサー的観点から作品作りに大きく関わっていたことは確かで、音楽に限らず作品を産み出すにあたっては不可欠なものである。(言い方は変かもしれないが)曲に対する貢献度は高いだろう。そういったプロデューサー的視点は私にも足りないもので新垣氏にも欠けていたのだろう。しかし作曲者に名を連ねるということは著作権の問題とも絡んでくる。

 映画内で「では証拠となるメロディを聞かせてくれ」と映画に登場するアメリカのジャーナリストも佐村河内氏に迫る。大半は新垣氏に渡って手元にないようだが、残されているものもあるらしい。

 
ここまで書いてきてラストに触れたくなったので、ネタバレが嫌な人は以下の記事は映画鑑賞後読んでください。
宣伝では衝撃の12分というようになってますし。

以下、何行か空けておきます。

 









 

 

(以下、ネタバレ有)

で、そのメロディを映画内で直接聞かせるのではなく、森監督は佐村河内氏に作曲をさせるという選択をする。
(驚きではなく予想通りでもあったのだが)
森監督が佐村河内氏に「今まで作曲してきたのなら表現したい欲求が溜まってるでしょう」みたいな言葉で挑発し、佐村河内氏がそれに乗った形だ。ひょっとしたらその言葉の一部は新作を撮れていない森監督自身に向けられた部分もあったかもしれないが、ともかく作曲の場面がないと映画が終われないと判断したのだろう。
 監督は、その判断をいつしたのだろうか?とても興味がある。凄く早い段階だったのかもしれないがそれはわからない。

 佐村河内氏は作曲のためのキーボードは(撮影時点の)3年前に手放したという。新たにキーボードを購入し、NHKスペシャルで“作曲”を演じたあの部屋で作曲が行われる。
 作曲は『聞こえない作曲家』としておこなわれるのではなく、『聞こえにくい作曲家』として補聴器を活用し残存聴力を活かした作曲だ。
 その場面を素直に見るならば、聞こえなくなって2002年に聴覚障害者手帳を取得した後も、新垣さんに渡すデモテープ分のメロディを『聞こえにくい作曲家』として作曲してきたと考えるのが自然だろう。だとすれば奥さんも、佐村河内氏が『聞こえない作曲家』を演じるにあたっての共演者だったということになる。
 それとも2002年以降はコンセプトだけだったのか?しかしだとすると主要な旋律は作曲していたという佐村河内氏の主張と論理矛盾を起こしてしまう。
 
 作曲風景は夫婦愛と相まって感動風に描かれる。奥さんは佐村河内氏が作曲している姿を見ることは、本当に好きなのだろう。

 作曲の主要な部分は、奥さんと佐村河内氏本人が撮影する映像によるもののようだ。監督が撮影に行かなかった日のものなのか? NHKスペシャルの時と同じように入室を拒否されたのか? 演出としてあえてカメラを渡して撮ってもらったのかもしれない、作曲部分がFakeであるかもしない含みを持たせるために?
本当のところはよくわからない。

  もちろん森監督は感動物語として終わる気はさらさらない。ひょっとしたら少なくない場面がFakeだったかもしれないという含みを残して映画は終わる。

 個人的な印象では作曲され披露された曲自体は、やはり新垣氏の力を借りる必要があったのだなあと感じさせるものだった。どこからか借りてきた曲というような印象もあった。
 その場面自体に嘘がなければ、『聞こえにくい作曲家』として残存聴力を活かしつつ主要旋律を作曲し新垣氏に仕上げてもらう、そういう図式の解明にはなったということだろう。
(追記・映画で披露された曲は完成版なのだろうが、共作としてデモテープを渡したものは主要旋律だったのかなという想像の元書いています) 

 ただ前述したように、2002年に聴覚障害者手帳取得後もこの方法で作曲していたのなら奥さんも佐村河内氏とともに世間に嘘をついていたことになり、その方法をとらず10年近くキーボードが埃をかぶっていただけだとしたら共作だった証明にならなくなってしまう。
 そういった矛盾する場面を夫婦愛で包み込み、嘘ではなくFakeだったかもしれないよと含みを持たす。

 取材対象者(佐村河内夫婦)にも納得してもらいつつ多層的な描き方をするなんて、うーん、映画としては相当上手い描き方だったのかなあ。

 

 


蹴る女

2015年01月13日 | 映画

「蹴る女」
蹴るといっても彼氏や夫を蹴っちゃうような気の強い女のことではなくて、ボールを蹴る女のことです。
阪口夢穂選手を通してなでしこジャパン全体を照射した、河崎三行さんの著作です。
昨年初頭に発売されましたが、年末にやっと読みました。
「いやあ、面白かった」
私自身も著者と同じく2003年から女子サッカーを観始めたということもあり、「あの時のことだ」と即座にいろいろと思い出されて。しかし内情をそれほど知っているわけではないので、なるほどそういうことだったのかと思う部分が多々あって。
阪口選手中心ではありますが、随所に池田(旧姓磯崎)、加藤(旧姓酒井)、山郷、荒川、下小鶴各選手や佐々木監督なども登場し、構成に厚みを持たせてあります。しかしやっぱり、一見何を考えているのかよくわからない阪口選手に着目したことがよかったんでしょうね。

 ところで河崎三行さんの前作は「チュックダン」。
 時期によっては日本代表よりも強い時代もあった在日朝鮮人蹴球団の歴史を生き生きと掘り起こした本。チュックは朝鮮語で蹴球の意、団は団体の団です。
「これも面白かった」。 
 この本を読んでサッカー映画を撮りたいと思い、女子サッカーを観るようになったんです。ちょっと話が飛びました。
 元・チュックダンの選手にして北朝鮮代表でもあった祖父とサッカーが大好きな孫娘を軸とした話で、孫娘が朝鮮国籍と日本国籍のはざまで揺れるといった内容。祖父の若かりし頃と孫娘の時空を超えたやり取りがあったりなど、いろいろとプロット「チュック」を練っていたんです。(ドキュメンタリーではなく劇映画の企画としてです)。まあそんなことがあって女子サッカーを観るようになりました。当時のなでしこリーグは本当に閑古鳥が鳴いていて、ベレーザの試合を観に行ったら金網越しに立って観るしかないとか、観客も10人くらいだったりとか。そんな時代でした。
 で映画の方は結局頓挫してしまい、その後、中国でのアジアカップのDVDを作ったり、パニック障害のロードムービーのシナリオ「パニック」を当事者でもある妻と共作したりしていたのですが、知的障害者サッカー日本代表のドキュメンタリー映画「プライドinブルー」を作り、その流れで、聴こえない聴こえにくい「蹴る女」たちのドキュメンタリー映画「アイ・コンタクト」を作るに至りました。
 そして今日は聴こえない聴こえにくい「蹴る女」たちのフットサル日本代表合宿に行って来ました。デフフットサル女子日本代表の合宿です。11月にタイで世界大会が開催される予定で合宿を積み重ねています。練習試合を見学したのですが、結果だけみればボコボコにやられてしまいました。しかしスターティングメンバープラスαの守備力は格段に上がってきている印象でした。大会に向け、さらなる守備力の向上と攻撃力アップは望まれるところではあります。
 いわゆる障害者サッカーのなかで「蹴る女」がいるのは、ろう者のサッカーとフットサル、そして電動車椅子サッカーです。電動車椅子サッカーは自分の生身の足ではなく、足代わりの電動車椅子のフットガードで蹴ります。そして女子チームではなく、男女混合。
 その「蹴る女」に興味を魅かれ、現在電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画の撮影を続けています。「蹴る女」だけではなく、「蹴る女」を通して電動車椅子サッカー全体を照射した内容にしたいと思っています。
 これからも「蹴る女」たちから目が離せません。


音声ガイド、日本語字幕、そしてトークショー(手話通訳あり)

2014年02月01日 | 映画

以前にもお知らせしましたが、
ヨコハマフットボール映画祭のプログラムの一環として、
私の監督作「プライドinブルー」が上映されます。
http://yfff.jp/
2月11日(火・祝)11時~
横浜みなとみらい ブリリアショートショートシアター

上映は日本語字幕でやります。
聞こえない、聞こえにくい人も是非どうぞ。

音声ガイドもついています。
見えない、見えにくい人も是非どうぞ。

上映終了後はトークショー。
ゲストは、知的障害者サッカー日本代表選手、ブラインドサッカー日本代表選手、そして私です。
手話通訳もつきます!

是非、ヨコハマへ。


プライドinブルー ヨコハマフットボール映画祭で上映

2014年01月13日 | 映画

私の監督作「プライドinブルー」がヨコハマフットボール映画祭のプログラムの一環として、久しぶりに上映されます。
2月11日(火・祝)11時~ 場所はもちろん横浜。

詳しくはヨコハマフットボール映画祭のHPで確認してください。
http://yfff.jp/

映画「プライドinブルー」をご存知ない方のためにちょっとだけ説明しておきます。
オリンピックの後に同じ地でパラリンピックが開催されるように、サッカーワールドカップの後に知的障害者サッカーの世界大会が開催されます。
2006年にドイツワールドカップが開催されましたが、その後開催された知的障害者サッカーの世界大会に出場した日本代表チームを追ったドキュメンタリー映画が「プライドinブルー」です。

今年はブラジルワールドカップ、そして知的障害者のワールドカップも開催されます。
2006年当時より、明らかにパワーアップしたわれらが日本代表チームがブラジルに乗り込みます。
そんなこともあり上映していただけることになりました。
チームについてはいずれまた紹介しますが、まずは映画を観てください!
当日、私も行きます。
他の、サッカー映画も観たいし!

ちなみにヨコハマフットボール映画祭では、記念すべき第1回のオープニングで映画「アイ・コンタクト」を上映していただきました。
ところが上映の時に会場に行けなくて、とっても残念な思いをしました。
ちょうど、その時、イタリアでザッケローニ監督にインタビューしていたんです。アジアカップ終了後の取材でした。

ところで「プライドinブルー」には、選手団団長であった故・長沼さんも出演されています。
チームの球拾いをされている姿はとても印象的でした。
TV中継された地元ドイツと日本の開幕戦を見たデッドマール・クラマーさんから長沼さん宛に「日本代表かく戦うべし」といった熱いメッセージが届いたことも思い出に残っています。
そこは映像化していないのですが…。

2月11日、ヨコハマで会いましょう!