サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

東京デフリンピックへ向けて「デフリンピックムーブメント南」

2023年07月17日 | デフリンピック

7月17日猛暑の月曜は、渋谷でデフリンピック推進活動として行われた「デフリンピックムーブメント南」へ行ってきた。東京都聴覚障害者連盟主催のイベントの一環で、昨年9月にデフリンピックの東京開催が決まり(サッカーは福島、自転車は静岡)、各地で推進啓発イベントが行われている。ちなみに昨年は拙作「アイ・コンタクト」を上映していただいた。

イベントでは、まず20分ほどの短編ドキュメンタリー「みんなのデフリンピック」の上映、女子高校生水泳アスリートを縦軸に、デフリンピックや東京デフリンピックへ向けての理念等がうまく紹介してあった。
上映会もできるそうだ。
https://www.jfd.or.jp/sc/deaflympics/minnano


上映の次は競技紹介、デフリンピックには21競技があるが、日本がまだ参加したことのないテコンドー、射撃、ハンドボール、レスリングも含めて、東京デフリンピックではすべての競技へ参加する予定である。
この日はテコンドーの選手募集という意味を込めて、全日本テコンドー協会から派遣されたスタッフ、女子選手4名によるデモンストレーションが行われ、頭部より高く上がる蹴りに驚きの声が上がっていた。


その後は「国際手話とは何か?」
手話は言語であるからもちろん国や地域によって異なるが、お互い通じる人工的な手話を作ろうということでヨーロッパを中心に作られたのが国際手話。デフリンピックでも使用されているが、選手たちで習得している者はまだまだ少ない。

私も2013年ブルガリアデフリンピックに取材に行く前に講座を受けたのだが、ほぼ忘れてしまっていた。
この日はいくつかの手話単語も紹介された。「デフリンピック」を表す手話は勘違いしている人も多く、来場者たちは盛んに手を動かしていた。私も4月まで勘違いしており、“こつ”は内側と内側を合わせることである。


そしてその後はデフリンピアントーク、1965年ワシントン大会(当時はデフリンピックという名称ではなく、国際ろう者競技大会)に出場し、卓球で銀メダルを獲得した鈴木リヲ子さん(大会当時は中井姓)、4大会連続出場している陸上の高田裕士さん、デフサッカー男子日本代表監督植松隼人さん。植松さんは選手としての出場歴はないが、コーチとしてトルコサムスンデフリンピックに参加、東京デフリンピックでは監督としてチームを率いる。私とも旧知の仲だ。
トークではそれぞれの経験や思いが語られた。

鈴木さんが出場した1965年大会は日本選手団が初めて参加、「選手団はどの競技に参加したのですか?」という質問に、鈴木さんが「陸上、水泳、卓球、体操」と答えられていて驚いた。
聴覚障害者の3割程度は三半規管が弱いがために、体操やトランポリン、高飛び込み等はデフリンピック競技にはないと、手話通訳無しのオンライン講演で聞いていた、いや見ていたからだ。

調べてみると、1924パリ、1928アムステルダム、1957ミラノ 1961ヘルシンキ 1965ワシントン 1969ベオグラードでは体操競技が行わていた。1924、1928はどんな感じなのかよくわからないが、60年代は五輪種目と同様に行われていたようだ。その後、技の難易度が上がって危険とみなされ、競技がなくなったのだろうか。
昔はあったが今はないわけで、手話のオンライン講演は未熟な私が誤読したのだろう。


イベント全体に、手話通訳、読み取り通訳が付いていたが、そのなかで手話通訳の専門性の難しさを感じる場面もあった。例えば植松氏のサッカーの話で、VAR、スローイン、アドバンテージ等が出てきて、私はすぐにわかったが通訳の方は苦労されていたようだ。もちろん私はサッカーだからこそ、わかるだけなのだが。

と、偉そうに言ったものの、隣に座ったろう者のおじさんが話しかけてくれたのだが高速手話で上手く読み取れず、「手話はまだ勉強中で……」と言い訳をする情けない私でもありました。
実際は以前5年ほどは熱心に勉強していたのだが、さぼっているうちにかなり忘れてしまい、昨年より再勉強中であります。

「デフリンピックムーブメント南」の「南」は東京の南で、8月26日は「東」ということで足立区で同様のイベントが開催されるそうで、是非デフリンピック理解のためにご参加ください。