サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

映画「ザ・トライブ」ウクライナ発全編手話の映画

2015年04月25日 | 手話・聴覚障害

 先日、映画「ザ・トライブ」を観に行った。
セリフ無し全編手話という紹介をされているウクライナ映画。手話があるということはセリフがあるということで、正確には翻訳字幕がない映画ということだ。オリジナル版にも字幕はないわけで、手話のセリフを理解できる人はウクライナ手話がわかる人だけということになる。映画を観る前の知識としては、上記以外ではカンヌで賞を取った。ストーリー的にはウクライナのろう学校の寄宿舎が舞台となっていて、暴力や売春がはびこっている的なこと。
それらのことから映画を観る前に想像したことは、手話の一部の視覚的要素を強調するという演出をすることでストーリーの流れはおそらく掴めるようになっているだろうこと。したがってストーリーもシンプルなものだろうということ。

で、実際そんな感じでした。

 感想などの書き込みを読むといろいろと誤解している人もいるので説明しておくと、まず手話は各国によって違う。また視覚言語である手話であるからストーリーの進行がわかるというわけではなく、手話も全体として大きめで感情を込めた手話が使われていて、そのシーンで最低限わかっておいてほしい情報はわかるふうに演出されていた。もちろん手話だけの問題ではなく撮り方や様々な演出も含めてということである。スクリーンサイズはシネスコサイズ、つまり縦1横2,35の横長の比率(資料を確認したら縦1横2.39)。人物の配置は基本的には横並びで手話(顔と手)も少なくとも横からは見えるような構図となっていた。そして映画は1シーン1カットで進んでいく。良くも悪くも方法論先にありきの映画で先が読めないということはあまりなく、手話も細かくはわからないので途中で考えごとをする時間が妙にあった。
 映画はサイレント映画ではなくしっかりと現場音があり、ろう者の息遣いなども聞こえてくる。学校の寄宿舎内を移動する足音などを聞いているうちに、なんとなくロベール・ブレッソンの映画を思い出した。ブレッソンの映画も足音などがとても効果的に使われているからだ。ひょっとしてブレッソンなども意識しているのかななどと考えながら映画を観続ける。ロベール・ブレッソンは成瀬己喜男監督と並び大好きな監督だ。
音の事を言えば、聴者(聞こえる人)の声は車の音で聞こえないようにされていたり窓外から撮ることによって聞こえないようにしたりと、映画から排除されている。またろう者の声(言葉ではなく音としての声)も演出上意図されている場面以外は排除されているようだった。演出上意図されている場面とは、非合法の堕胎やセックスの場面である。

 映画の方は長回しで進んでいく。ドキュメンタリーっぽい長回しではなく、リハーサルを積み重ねた風の長回しである。ストーリー的には主人公がとあるろう学校に転校してきて寄宿舎に入る。そこでは盗み、売春などが行われている。通過儀礼?を通過した主人公は族=トライブのなかでの地位も徐々に上がり売春の手引きなどもするようになり、その女性を好きになってしまう。彼女が売春を続ける目的は閉塞したウクライナの聾学校の寄宿舎からイタリアへと旅立つことだった。そして悲劇的な結末を迎えるといった流れ。

キャストはほぼ全員がろう者ということで、いわゆるろう文化的な仕草が随所に見られる。会話する場面でまずは自分のほうを向かせる。時には強引に胸倉を掴んだりして。また聞こえないことによる悲劇も効果的に描かれる。大型トラックのバック音に気付かず轢かれてしまったり。隣のベッドで何かが起きていても気が付かなかったり…。

監督のインタビューを読むと、子どもの時に通っていた学校の近くにろう学校の寄宿舎があったようだ。そこでろう者たちのコミュニケーションの取り方、ジェスチャー、喧嘩の仕方などに惹きつけられたという。この体験とサイレント映画を作りたいという思いが合わさって映画として成立したようだ。ただ現実には音にもこだわった映画にもなっている。サイレント映画のテイストに、音と横長のカラー画面が加わった感じだろうか。音のことは当然ろう者の観客には伝わらない。例えばラストのエンディングでは男が立ち去っていく足音が建物を出ていくまで画面外の音として表現される。
また逆にウクライナ手話がわからない聴者、あるいはウクライナ手話がわからないろう者には会話の詳しい内容は伝わらない。全てに情報を知りえるのはウクライナ手話がわかる聴者のみということになる。かなり限られた人のみである。監督としては大きな流れを掴むために必要最低限の情報並びにエモーショナルなものを感じ取ってくれればそれで充分。その点は映像で伝え得るという確信に基づき制作したのだろう。

私自身も最初にろう者サッカー日本代表の合宿に行った際に、サイレント映画のような映画の原点に立ち返ったような映画を作りたいという思いにかられたことがある。「サイレントにして饒舌」な手話に魅かれたのだ。しかしその後再び合宿に行くととてつもなくしゃべる人もいて構想はあっさり崩壊した。撮影していたのはドキュメンタリー映画だったし、まさか難聴者の声を締め出すことはできない。ウクライナのろう教育事情はわからないのでキャストのなかには口話もできる人がいたかどうかはわからないが、いたとしても声は禁じられていたのだろう。

 もちろんこの映画はフィクションであり、実際のウクライナのろう学校はどんな雰囲気なのだろうか。
ちなみにウクライナはデフリンピック(ろう者のオリンピック)では、メダル大国である。詳しいことはわからないが、デフリンピック選手にもオリンピック同様の強化費が支給され、練習環境も整えられていたようだ。(現在の状況はわからないが少なくとも2013年まではそうである)。男子サッカーは2013年大会が準優勝、2009年大会では優勝。女子バレーにいたっては他国を寄せ付けずダントツの世界一のチームである。ちなみに日本の女子バレーは2013の大会で銀メダルを獲得した。アメリカを破った準決勝は本当に心震えた。決勝のウクライナ戦はもう仕方がない、やりきっての銀メダルだった。現在チームは2017年トルコ大会でウクライナの牙城を打ち砕くべく、合宿を積み重ねている(はずだ)。ブルガリアデフリンピック以来、合宿に行けてないんですが。


障がい者サッカー協議会スタート! そして知的障がい者サッカーvsろう者サッカー

2015年04月24日 | 障害者サッカー全般

 4月22日、日本サッカー協会で「障がい者サッカー協議会」の第1回の会合が開かれ記者会見も行われた。「ベクトルを合わせてやっていかなくはならないのではないか」という認識のもと、各障害者サッカーの競技7団体が一同に会し最初の一歩を歩み始めた。
私自身は2006年より障害者サッカーに関わり始めているのだが、その当時からある5団体の代表者が並んでいる姿を見るだけでもとても感慨深いものがあった。
「障がい者サッカー協議会」ではまず来年4月の統括団体(日本サッカー協会の外部団体)設立に向け準備が進められていくことになるが、日本サッカー協会と各障害者サッカー団体の具体的な関係性についてはこれからの検討課題となる。 
 
 障害者サッカー団体といっても、国内で成功裏に世界大会を開催し健常者の小学生に向けても「スポ育」を幅広く展開している日本ブラインドサッカー協会もあれば、近年立ち上げられたばかりの団体、あるいは様々な課題を抱え複数の大会が中止になった団体まで様々だ。また強化と普及の両立には各団体ともに苦労している。資金や人材etc。そういった意味では巨大組織でもある日本サッカー協会が協働してくれることへ大いなる期待がかかるだろう。日本知的障がい者サッカー連盟の小澤氏も言うように「本気で向き合っていく」能動性は絶対に必要だが、一団体ではいかんともしがたい側面があるのもまた事実であるからだ。例えば脳性麻痺7人制サッカーはプレーヤーの対象となる障害を持つ人々の多くがいわゆる普通校に通っているため、情報が行き届きにくい。ろう者サッカーの場合も普通校に通う難聴者にはなかなか認知されないという問題もある。

 障害者サッカー側は与えられるだけではなく、ブラインドサッカー協会松崎氏の「障害者サッカーという観点があったおかげで多くの人がサッカーが楽しめる環境が作れたり、どんな状態の人でもサッカーをやろうと思えば親しめる。それがスポーツにとっての規範になっていき『障害者サッカーを支援してよかった』と30年後に言われるように頑張っていきたい」という言葉に代表されるように、障害者サッカー側から与えうることも少なくないはずだ。スポーツの概念そのものの変革である。
  もちろんそういった長期的ビジョンそして理念はとてもとても重要だが、今現在でも各障害者サッカー日本代表の活躍は第3者に対しての訴求力を持つだろう。知的障がい者サッカー日本代表は昨年の世界大会でベスト4の成績を残したし、ブラインドサッカー日本代表の躍進は昨年地上波などでも報じられた。電動車椅子サッカー協会の吉野新会長が「アスリートとして認めてもらいたい。陽の当たる場所に出ていきたい」という選手の言葉を紹介してくれたが、“場”が確保され続けていければアスリートという言葉の概念を叩き壊してくれる存在を見ることができるだろう。
 そしてまた「障がいを超えた」という陳腐な色眼鏡付きの感動物語ではなく、「サッカーで混ざろう」というブラインドサッカー協会松崎氏の言葉にもあるように、サッカーを軸として見ることで触れることで、各障害者サッカーの魅力や障害そのものの理解にも辿りつけるはずだ。

「サッカー好きな人って、なんか障害に詳しいよね。」と言われるようにならないだろうか。

東京パラリンピック開催決定後、「障がいのある人もない人も」「共に」「いっしょに」という言葉を多く耳にするようになった。もちろんその通りだが、障害を理解すること無しにそれらの言葉が使われていることも多いような気がする。障害といっても実にさまざまだ。可視化できる障害もあるが、一見してとてもわかりにくい障害もある。例えば、一つの障害者サッカーのなかでも障害的な観点でみると実に様々だ。またパラリンピックを障害別で見れば、(ごく一部の知的障害を除けば)肢体不自由と視覚障害である。障がい者サッカー協議会には、聴覚障害、知的障害、精神障害もある。また重度の肢体不自由や難病としては、パラリンピックにはボッチャしか競技種目がないが電動車椅子サッカーという激しい競技もある。つまり障がい者サッカー協議会はパラリンピックより多くの障害を対象にしていて、サッカーを通じてより多くの障害に触れることができるというわけだ。

さあそして5月5日には同時に2つの障害者サッカーを目にすることができるイベントが予定されている。知的障がい者サッカーvsろう者サッカーの試合である。ポスターのコピーで言えば、「侍、激突。」
前半は知的障がい者サッカー日本代表 vs ろう者サッカー東日本選抜、後半は知的障がい者サッカー日本代表vsろう者サッカー男子日本代表というエキシビションマッチである。会場は東京都品川区大井ふ頭中央海浜公園陸上競技場、13時30分キックオフ予定。
詳しくは http://jdfa.jp/news/deafsoccer20150317_exhibitionmatch/

この対戦は以前より両団体に呼びかけていたもの、なかなかスケジュールが折り合わず実現できなかったがやっと実現した。実現できて本当に嬉しい!代表レベルの試合では史上初の対戦であり、次回見ることができるのは4年後あたりかもしれず必見! 
2006年にそれぞれの代表を見た時は圧倒的にろう者サッカーの方が強い印象をもったが、その後知的障がい者サッカーの力も飛躍的にあがっているのでとても楽しみだ。障害的に言えば、見た目にはわかりにくい障害同士の対戦となる。ルールは通常のサッカーと同じだが、ろう者側がホイッスルの音が聞こえないため、主審もフラッグを持ってホイッスルとともに合図する。

 ちなみに各障害者サッカーで11人制サッカーをやっているのは、現状ではこの2つの団体だけである。通常のフットサルのルールで行われているのは、ろう者フットサル男女、ソーシャルフットボール(精神障害)、ロービジョンフットサル。レベルを考慮すればこちらもガチンコ対決ができるかもしれない。他の競技は特殊ルールで行われているので、体験的な対戦はできてもガチンコ対決の実現は難しいだろう。

 各障害者サッカーについては過去の記事で概観していますので参照してください。
http://blog.goo.ne.jp/kazuhiko-nakamura/e/8699010c03d17cf05d4b9094a1f53319

知的障がい者サッカーvsろう者サッカーの試合で何を着るか迷うところであるが、前半知的障がい者サッカーのシャツを、後半ろう者サッカーのシャツを着る予定。ろう者サッカー東日本選抜のみなさん、ごめんなさい。 


手話の文法要素を取り入れた「みんなの手話」について

2015年04月15日 | 手話・聴覚障害

前の記事の続編です。NHK「みんなの手話」に関してです。
2回目の放送も見てその後テキストも買い、目を通してみました。、

結論から言うと、手話を学び始める人、手話を既に学んでいる人にとって、かなりお勧めの番組になっています。

明らかに日本手話を教えていこうという方針になったようです。
昨年度の放送はまったく見ていませんから昨年との比較はできないのですが、テキスト第1課の冒頭に「手話は、聞こえない人や聞こえにくい人を主な話し手とする、日本語とは異なる文法を持つ一つの言語です。これから1年間、一緒に手話を学んでいきましょう。」と書いてあるからです。
これはまさしく日本手話のことです。

何故日本手話から学び始めたほうがよいかというと、聴者(聞こえる人)が日本語に近い日本語対応手話をある程度学んだ後に日本手話にステップアップしようと思ってもなかなかうまくいかないからです。多くの手話学習者がその時点で苦労、あるいは挫折しています。
逆に日本手話を学びその後必要に応じて日本語対応手話を身に付けるほうが、どちらかといえばスムーズに思えるからです。
日本手話から学び始めると日本手話以外に興味が持てなくなるということもあるかもしれませんが、もし通訳試験でも受けるのであれば両方できなくてはならないということになります。

私見ですが、これまでの公的な手話講習会はコミュニケーションツールとしての日本語対応手話をまず学び(別の言い方をすると手話に触れて)、やる気のある者や見込まれた者が地域のろう者たちから鍛えられるという図式だったのではないでしょうか。
(講習会が立ち上げられた初期段階はかなり事情は異なると思います)。
ろう者から鍛えられる段階というのが(日本語とは異なる文法を持つ一つの)言語としての手話を学ぶ時期だったのではないかと思われます。そういった意味では手話講習会で学んだ多くの手話学習者たちは(日本語とは異なる文法を持つ一つの)言語である日本手話に触れることなく終わったという人も多かったのではないでしょうか。教えるろう者側も“教え方”が確立していなかったという面もあったと聞きます。
ただ昨年から、講習会で使用するテキストに日本手話の文法を取り入れるようになったらしく、講習会で学ぶ手話も徐々に変わりつつあるようです。

番組の話に戻ります。
2回目の放送では、「千」を表す表現が「千」という字を空書する形ではなく、単に上下する形が紹介されていました。実際、ろう者間ではこちら(後者)の表現の方が使われます。以前は手話講習会では教えてくれませんでしたが教えるようになったでしょうか。前者の表現も番組内で説明されていました。

しかし番組及びテキストにも日本手話という言葉は一切出てきません。
日本手話という名称そのもの、また手話を日本手話と日本語対応手話に分けるということに異を唱えている人もいらっしゃるからだと思われます。そのあたりのことは、手話を知らない者からするととてもわかりにくい構図になっています。

テキストには、ろう文化に関するコラムがいくつか掲載されていて、とてもわかりやすくまとめられています。値段も362円+税ですので、なかなかお買い得です。
コラムのなかで脳科学からみた手話のことが取り上げられています。手話は脳のどの部分を使うのか?
答えは左脳の言語野です。脳科学の酒井先生の研究の成果ですね。映画「アイ・コンタクト」を作るため手話やろう者の世界を学んでいる際に脳科学からの知見を知り、本当に“目からうろこ”でした。
酒井先生とは公開前に一度対談させていただいたことがあります。対談後もいろいろと雑談になりましたが、印象的だったのは『手話を第二言語としてきちんと習得できれば脳で活動するのはほぼ言語野のみとなり、楽に会話や読み取りができるようになる』といった意味合いの内容。細かいニュアンスは忘れてしまいましたがおおよそそんな内容です。
英語を習得した人などが『英語が英語としてすっと頭に入ってくるようになった』などと言うのを聞いたことがあります。それと同じようなことでしょう。習得する前は脳のいろんな部分を使っていたのが、言語野のみで処理できるようになったということかと思います。
私はというと、今でもろう者の講演などに行くと頭のなかがパンクしそうになります。脳の様々な部分がフル稼働し走り回っている感じです。ただ時々、頭が手話脳になっているというか言語野しか動いていないのかも?と感じる時もあります。
本当に時々ですけどね。

ところでコラムのなかで一点間違いがありました。デフリンピックに関する情報ですが、競技種目として野球が挙げられていましたが間違いです。
世界的にはマイナーなスポーツである野球はデフリンピックでは行われていません。

ところでv6の三宅健さんは過去3年間手話を学んだことがあり、昨年から「みんなの手話」のナビゲーターになったようです。
前回ふれた彼の自己紹介に関してはもう何度もやっているということでしょうし、彼なりのやり方でやったのでしょう。
是非日本手話を学びそして理解し、発信していってほしいと思います。

 


「私の名前は中村です」って手話?日本語?

2015年04月09日 | 手話・聴覚障害

新年度も始まり、手話を新たに学び始めた方々も多いと思います。
NHK“みんなの手話”も新たにスタートしたようです。というかたまたま見ただけなのですが。たまたまというのは別番組(ろうを生きる難聴を生きる)を録画していたつもりが番組改編で時間が変わり録画されていたんです。講師の善岡さん(ろう者)とは以前お会いして話した(もちろん手話で)こともありなんとなく見ていたのですが、内容が以前(林家こぶ平さんや今井絵理子さんが出始めた頃)とは随分変わっていたことに少々驚きました。

入門の第1回目から日本手話の文法用語が出て来たからです。以前はおそらくなかっただろうし、各地の手話講習会でも文法を体系立てて教えているところはほとんどなかったのではないかと思われます。(少なくとも初級段階では)。もちろんごく少数はあったと思います。しかし近年は徐々に変わって来ているようです。
番組に出てきたものは、具体的にはPT1という用語。私(つまり一人称)への指差しのことです。ちなみにPT2は2人称への指差し。(しかし、私とかあなたなどの訳語があてはまるとは限りません)。PT3はさらに複雑になってきます。3人称への指差しの場合もありますが、代名詞だったりもします。そこにないもの、見えないものを指差すこともあるわけです。視線によって意味が変わってきます。

話がむずかしくなってきましたが、まあとにかく“指差し”は手話において極めて重要なんです。
外国に行き現地の言葉がしゃべれない場合も指差しが有効ですよね。 例えば食べたいものを指差して食べたそうな顔をするとか。手話の一例のように見えないものを指差すことはないでしょうが。ろう者の脳内では見えているという話もあります。

さてどういう例文でPT1が出てきたかというと、自己紹介です。
各地の手話講習会や手話サークルでも一番最初は自己紹介と挨拶を教えることがほとんどだと思います。(ナチュラルアプローチの場合はそうではないのかもしれません。よくわかりません。ナチュラルアプローチとは、母語が手話であるろう者が、手話で手話を教えること)
聴者(聴こえる人)の多くが初めて触れる手話の文である“自己紹介”こそが手話を学ぶ、あるいは手話に触れるうえで、とても重要だとずっと思っていました。そういったこともあり、自己紹介をどう教えるか興味があったんです。

番組ではまず講師がお手本を示します。
 (実際は善岡という名前が使われていますが、ここでは中村という名前にしています)
手の動きでいうと、PT1(自分を指差す)、次に「名前」「中村」という手話単語を表出。要するに「PT1」「名前」「中村」ということになります。
もちろん声は出しませんが口の動きだけを見ると、名前という手話単語の時のみ 「ナマエ」という口の形をつけていました。

その後、ナビゲーターの三宅健さん(V6)が手話表現をします。
手の動きは同じです。しかし口の形は違います。声にはだしませんが「 ワタシノナマエハナカムラデス」という口の形をしていました。
つまり講師とナビゲーターが違う手話表現をやっていたわけです。もちろん手の動きは同じですが、口の形が違います。手話は手の動きだけで表現するものではありません。「顔が主役で手はオカズ」という言い方をされる人もいます。声に出さなくとも 「ワタシノナマエハナカムラデス」という口の形をしていれば頭のなかは日本語ということになります。
何故そうなっていたかはわかりません。三宅さんの判断かもしれないし、話し合いで決まったのかもしれないし、スタッフの指示かもしれません。つまりざっくり言うと講師は日本手話、ナビゲーターは日本語対応手話で表出しているわけです。ちなみにもっと極端な日本語対応手話であれば、声を出し、「の」 や「は」の助詞を指文字で表出し、「です」の手話単語を表出します。実際は助詞まではつけない場合の方が多いでしょう。

別に批判しているわけではありません。2種類の手話を見せてくれたとも言えると思います。実際は三宅健さんは1年前より出演されていたようなので、自己紹介は自分のやりやすいやり方でやられらのたのでしょう。今後、もっとむずかしい表現になっていけば、そのまま真似するのかもしれません。よくわかりませんが。 

何が正しいとか間違っていると言っているわけではなく、いろんな表現方法があるということです。
日本手話の場合も、一切口の形をつけない場合もあるでしょうし、「中村」にだけ口の形をつけることもあると思います。ちなみに私が自己紹介する場合は、「PT1」と「名前」には口の形はつけずに「中村」にだけ口形をつけます。 その場の状況によっては全体をゆっくりと表出したり「中村」の時だけ声を出したりすることもあります。「言う」という手話単語を最後につけて「ナカムラトモウシマス」という口の形をつけることもあります。


鳥取県に続き、県単位では神奈川県、群馬県でも手話言語条例が制定されました。言語としての手話にも関心が集まっています。手話とは日本語と異なった文法体系をもった視覚言語であるという言い方をする場合も多いのですが、その際の手話は(日本においては)日本手話ということになります。日本語対応手話は日本語だと言っても良いかと思います。
例えば点字は日本語を点字という文字(記号?どう言ってよいか適切にはわかりません)で表記した日本語、書記日本語は音声日本語を書き記した日本語、そして日本語対応手話は日本語を手話単語で表出したものだと認識しています。実際には日本手話と日本語対応手話が入り混じる場合も多く、日本語対応手話はピジン言語という言い方が適切でしょうか?
「声をつけて手話をやってくれ」と言われる場合、日本語が手話に引っ張られ変な日本語になることがよくあります。

「私の名前は中村です」という文も日本語としては変かと思います。
多くの場合は「中村と申します」「中村と言います」「中村です」あるいは「俺、中村」などはあるかもしれませんが、通常は「私の名前は中村です」という自己紹介はしないと思います。日本語としてとても違和感を感じてしまいます。前後の文脈によっては使うこともあるかと思いますが、単独で使うとは思えません。ですから「ワタクシノナマエハナカムラデス」と言いながら(あるいは口を動かしながら)手話単語を表出する場合は、手話対応日本語なのかなと思ってしまいます。 手話をそのまま日本語に置き換えたとでもいいましょうか。


誤解のないように書いておきますが、日本手話と日本語対応手話、どちらがか必要でどちらかが不要、どちらかが優れていてどちらかが劣っていると言っているわけではありません。
第一言語が日本手話のろう者は、日本手話を使った方が当然ストレスもないでしょう。ろう者のなかには日本語が苦手で日本語対応手話も苦手、もっと言えば日本語対応手話に嫌悪感を持っている人もいます。相手によって瞬時に使い分ける人もいます。日本語が第一言語であった中途失聴者や、苦労して日本語を第一言語として身につけた難聴者にとっては、日本語対応手話の方が使い勝手がいいでしょう。
ですから例えば日本手話で通訳してほしい聴覚障害者と日本語対応手話で通訳してほしい聴覚障害者が同時にいる講演などの場合、両方の通訳者が壇上に立つということが理想ということになります。

ちなみに何の苦もなく覚えることができる言語を自然言語と言いますが、聴こえない聴こえにくい人にとっての自然言語は(日本においては)日本手話しかあり得ません。(もちろんそのための環境を整えることが必要ですが)。
日本語対応手話は日本語がわかる人にしか身につけられませんから(あるいは日本語と同時進行でしか身につけられませんから)自然言語にはなり得ません。日本語を第一言語として覚えようと思ったらかなりの困難があるということです。もちろん以前に比べれば補聴器の進歩や人工内耳の普及などで音声日本語の獲得もやりやすくはなっています。人工内耳に関しては賛否両論あります。

いろいろと書き出すときりがありません。手話を学び続ければいろんなことを知ることになりますが、一日だけ体験する場合は、一面しか教わらないと誤解してしまう恐れがあります。短い例文でも、日本手話だけを学んだ場合は日本語とは異なる言語にふれたことになりますが、もし日本語対応手話だけしか学ばなかったら、日本語とは異なる言語には触れずに手話単語にのみふれたことになります。それではあまりにも寂しすぎるのではないか、そう思います。

また手話講習会などの初期段階で「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」などの挨拶を学びますが、ろう者間の自然なやり取りでその挨拶を見たことはほぼありません。要するに後ろにつく“両人差し指を向かい合わせて折り曲げる動き”はやらないということなんですが。もちろん顔のいろんな動きはあります。挨拶に関しても両方教えていったほうが良いのになと思います。後になって知ると、結構驚いたりするので。

何だか番組を否定的に見ているような印象を与えてしまったかもしれませんが、逆に肯定的にみています。
また番組は入門者向けですが、ある程度学習を積み重ねた人にも勉強になりそうです。ただしその場合は音声をオフにして見た方が良さそうです。 

ここまで偉そうに書いてきましたが、私自身の手話力はこのところあまり向上しないで伸び悩んでいます。理由ははっきりしていて怠けてるからなんですけどね。 
「能書きなんか垂れてないで勉強しろ」って感じでもあるんですが…。

また手話に対する考え方は様々です。意見を異にする方も、もちろんいらっしゃると思います。


一体感を作り出すハリルホジッチ監督

2015年04月01日 | サッカー

ハリルホジッチ監督率いるサムライブルーvsウズベキスタンの試合を東京スタジアム(普段は味の素スタジアムという名称)に観に行って来ました。
埼玉や横浜、国立では何度も観戦していますが、東京スタジアムでは初の代表戦観戦。そんなこともあり「ここは横浜なのか」と錯覚しそうになることが何度かありましたが、横浜よりもはるかに観やすいスタジアムです。

試合の分析ではなく、印象に残ったことや試合終了直後にフェイスブックにアップした文章などを書き込んでおきます。

試合開始直前の監督の動きが印象に残りました。いままでの通例では、監督はスターティングメンバーが入場する前にベンチに歩いて来て、所定の位置にずっと立っています。ところがハリルホジッチ監督はスターティングメンバーといっしょに入場。その点はチュニジア戦の放送でも触れられていたので知っていたのですが、ベンチの所定の位置に一度たった後、ベンチ前を歩き控え選手の一人一人と目を合わせていきます。「俺はお前たちのこともちゃんと見ているぞ。皆、いっしょに戦うんだ!」みたいな感じで。そりゃあ一体感は高まります。
(心の声は私の勝手な想像ですが、まあ大きくは外れてはいないと思います。)
撮影クルーの一員として何度も試合直前の選手の表情を間近で見たことがありますが、やはりスターティングメンバーと控え選手では表情が異なります。もちろん控え選手も出番に備えて徐々に気持ちを高めていくわけですが、スターティングメンバーメンバーほどは気持ちの入った表情ではありません。(もちろんそうではない選手もいます)。しかし監督が目の前に来たら気合いを入れざるを得ないと思います。
そういったことの積み重ねで一体感を作り出しているんだなあと思った次第。

全員で円陣を組むという報道は目にしましたが、この点に触れた記事を目にしなかったので書き込みました。
ちなみにTV的にはCM中の出来事です。

以下は試合終了直後にフェイスブックにアップした文章プラスアルファ。

前半の青山のロングシュート、後半のゴールラッシュはいずれも痛快なゴール!
それにしても青山はアピールしたなあ。ゴールももちろんだが、それ以外の部分で。迷いのない素早い縦パス、球際の強さ!今日のマンオブザマッチだと思います。
水本をボランチで使ったのは驚き。最初のうちは無茶苦茶やりにくそうだった。
単に今野のコンディションが悪かったのか、それとも人に強いタイプのセンターバックがボランチの位置に入る守備的な戦術も今後あるのか?
多くの選手がピッチに送り出されたがGKの2人は出番なし。西川は是非見たかった。ハリルホッジ監督の戦術にもあいそうだし。...
まあいずれにせよ、いろんな意味で今後が楽しみです。

試合後の監督のインタビューによれば、水本選手をボランチで使ったのは引いたと見せかけてショートカウンターを狙う罠だったそうです。
観戦中は意図が読み取れませんでした。交代の意図を読み取っていくのも今後の楽しみです。

フェイスブックには書き込みませんでしたが、かなり印象深かったのは内田選手の格の違い。万全のコンディションではなかったと思いますが、動きのメリハリや落ち着きなどはやはり踏んできた場数の違いを感じさせました。