サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

ホームランが聞こえた夏

2011年08月30日 | 映画

ろう学校の野球部員の奮闘を描いた韓国映画「ホームランが聞こえた夏」を観にいった。
ろうの世界に関心があり、中高と元野球部で、韓国語も以前(20年以上前だけど)勉強していた自分としては、必見映画だったわけで。

で、感想はというと、うーん…。
キャストが撮影前に手話や野球の練習を積んだのだろうということはスクリーンからも伝わってはきたし、ベタだけどグッときそうなセリフもああったし、興味深い点もあったのだが。
興味深い点といえば韓国手話。
植民地時代に日本の手話が教えられた影響があるらしく共通の手話単語も多いらしいのだが、実際見ていてかなり似ているのもあった。
野望としては将来韓国手話を勉強したいとは思っているのだが。

それはさておき、映画に話を戻すと、健聴者側で話を進め過ぎる物足りなさはあったなあ。
野球部員側内部の描写が足りないというか、まあ手話への演出が大変だからだろうが。
ストーリーは、スポーツものの王道的な展開でそれはそれでいいのだけど、ろう的な観点や野球的な観点から見て、「どうなってんだー」という箇所が多すぎて…。

野球的な観点は、下手なポンコツチームが上手くなる設定なのだが、その野球のディテールの差異の描き方がずさんと言うか、丁寧に描かれてない。
当初は下手な設定なのに結構上手かったり、例えばスライディングもうまかったり。
うまくなった後の試合では、そこはスライディングだろうという部分でスライディングしなかったり、ボールの追い方が下手だったり。
劇画タッチの特訓とかは、まあそれはそれでいいと思うんだが、ストーリー展開や試合展開で説明するだけではなく、プレーの向上をもっときちんと且つさりげなく見せてくれないとなあと思った次第。
もちろんそういう箇所もあるのだが、荒い部分があることで台無しにしている印象だった。
その他にもバッテリーの食い違いなど、もう少しきちんと描くことで面白くなる部分はあったと思うのだが。
アメリカ映画とかだと、映画はつまんなくても野球に関する描写はしっかりしたりするんだけど。

次に聴覚障害的な観点。
ろう学校高等部の野球部の投手は、中学の時、試合中に突発性難聴になり耳が聞こえなくなってしまう。
つまり中途失聴者である。
中途失聴者の一番の苦悩は、「しゃべれるけど聞こえない」ことだ。
なかには健聴者の時ほどはうまくしゃべれなくなる方もおられるようではあるが、多くはほとんど健聴者と変わらないしゃべり方の人が多い。
だがその投手のしゃべり方はとんでもなく変だ。
なんというか、口話があまりうまくないろう者を真似て健聴者がしゃべるしゃべり方というか、
懸命にうまくしゃべれない風にしゃべっている。
むしろ普通にしゃべれるのに聞こえないことこそが大変だという風にした方が自然だし、よかったと思うのだが。

さらに驚いたのは、中途失聴者である彼がもっとも口形を読むのがうまい、読唇がうまい設定になっていたこと。
むしろ先天性のろう者のほうが、口形を読むことを長年強いられてきているはずだから、逆じゃないのかと思ったのだが。
突発性難聴になって2年たった設定であるし、両親は先天性のろう児と差別化を図りたかったようであるから、その間に特訓したのだらうか。
というか冒頭、試合中マウンド上で彼が突発性難聴で聞こえなくなった直後、キャッチャーが歩み寄ってきて、会話をするシーンがある。
彼としては、キャッチャーが何を言っているのかわからなくて、ごまかすのか、頓珍漢な応答をするのかと思ったら、普通の会話になっていて驚いた。健聴者の時から口形が読める設定だったのか。そんな馬鹿な。

まあそんなこんな(その他諸々)の違和感があったということですが。

なんだか批判ばかりしているようだけど、いいシーン(?)もあったといえばあったのだが。
強豪校がわざと三振したりする場面で元プロ野球選手の監督が
「同情はやめろ。こてんぱんに叩きのめされて、立ち上がる権利さえも奪うな」的なことを敵チームの選手たちに言うシーンがあり、障害者に対して安易な同情はやめろという重要なシーンになっているのだが、本来は当事者自身が怒るべきシーンだと思う。
少なくとも投手役は手を抜かれていることもわからない程経験がない設定ではないわけだから、投手の方から怒って行くべきシーンだったのでは、それを監督が代弁するというような。

まあ、きりがないのでこのへんで。

 

 

 


手話雑談①

2011年08月28日 | 手話・聴覚障害

最近手話に関するジャンルの更新が少ないので、手話に関する雑談なんぞをたまに書いていこうと思います。
読んで得になるという類ではないかも。

初回は、私の手話が「まだ全然だめだこりゃ」という件。
以前にも書いたかもしれないが、「手話はどのくらいで習得したのですか?」とよく質問される。
「習得なんかしてません。勉強中の身です」と答えるのだが、謙遜していると誤解されることがある。
一切謙遜なんかしていない。真実というか、悲しいながら、それが現実だ。

正直、手話の勉強を始める前はもっと早く上達するかと思っていた。
しかし現実は甘くはない。手話学習者なら、おおいに実感された経験があるのでは?
まあ、一つの言語を習得するのは簡単ではないということなわけだが。


最近の手話勉強会で聞き取り通訳の練習をやった。
音声を聞き取って、手話表現をするというものだ。
その際、伝わるべき相手を見て手話表現するというのは基本中の基本なのだが、まったく出来てなくて…。
「アイ・コンタクト」という映画を作ったのに、お恥ずかしい限り。

それから、両手での手話表現の後に片手(右手)での手話表現があったのだが、
左手をしまい忘れて「なぜこんなところに手があるんだ!」と途中で気付いて驚いたり…、
いやあもうボロボロ…。

もっと勉強しないと…、ハァ、先は長い。

 

 

 

 


国立競技場で手話通訳?

2011年08月26日 | 手話・聴覚障害

先週観戦したなでしこジャパンの試合終了後、佐々木監督と澤選手の挨拶があった。
佐々木監督の挨拶が始まり、「あっ、手話通訳しないといけねーんだ」と重要なことに気付いた。
ろう者サッカー関係者10名ほどと観戦していたのだが、健聴者は俺1人だけだし。
「もっと早く気付けよ」という感じだが、あわてて後ろを向き、つたない手話通訳を始めた。
あまりむずかしい話ではなかったので、何とか大意は伝えられたと思うが。

挨拶をすることがわかった時点で速やかに手話通訳の準備をしなくてはならなかった。
反省、反省。
それと手話通訳をした時に、座った状態で体をねじって後ろ向きでやったんだが、
見えにくい人もいたし、立ち上がるなりしてもっときちんと後ろを向いてやるべきだった。
反省、反省。

いい経験、いい教訓にはなったけど。