京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

夏休み・お城めぐりの続き。

2010-10-05 15:13:19 | 中国・四国地方の石垣。
先日の・・・
9月の連休に行ったお城めぐりと前後して、ややこしいのですが・・・

これは、夏休み・帰省の時のお話です。



山口・岩国の錦帯橋

春休みの吉川史跡めぐりの
その後バージョン・・・
(毛利元就が宮島・厳島に建造した石垣の見物も魅力的だったのですが

この錦帯橋は、岩国観光のシンボル
岩国藩3代領主の吉川広嘉(元就の息子・吉川元春のひ孫)の命で建造されました。

ここ錦川は川幅が広く、洪水が絶えなかったそうです。
城下町とお城を結ぶ橋として
初代城主・吉川広家(元春の子)の転封後に建造されましたが
洪水のたびに流出

3代城主の時に、中国の橋に習って、
今の形の橋・・・
連続したアーチ橋の構想が生まれました。

1673年に建造された最初の橋は
翌年の洪水で流出してしまったそうですが

二回目、橋台の敷石を強化したところ、功を奏し、
以後250年間~昭和期まで流失することなく、持ちこたえたそうです。




これが、橋の土台

石垣、と言って良いのかな
とにかく頑丈

現代の橋脚と比べても
なかなか類を見ない太さです。

橋の歩行部分は、
知名度の割にボリュームがない・・・
頼りない感じが否めないのですが
これは、洪水時の負荷を考えてのことでしょうね。

単なる観光地としてだけじゃなく
いろんな視点から見ると面白い岩国です。



さて
今回で、岩国に行くのは3回目

一度目は、ただ何となく
二度目は、吉川広家のお城と知ったけど、何となく・・・
でしたが

三度目の今回は、
毛利・吉川ファンとして
かなり気合を入れて行きました

といっても
子達を連れて、ですから、
ロープウエー・ソフトクリーム・水遊び・・・
などで釣りながら、になってしまいますが

それでも、今回行ってみたかったのが
こちら



吉川家墓所
もともとの吉川家の所領(広島県北広島町新庄)にあった洞泉寺が
広家の転封に伴って移転し
以後、代々の岩国藩主が葬られています。



地方の小藩とは思えないほどゴージャスな墓所です。

特大級のお墓がいくつもありました。
(2メートル以上の高さだったか・・・)

吉川元春の奥さんのお墓は
わりとこじんまりしていましたが
それでも、この大きさ



元春公のお墓と同じくらいか
ちょっと大きいくらい


(H22・3月、広島県北広島町の吉川元春公のお墓)

これは、地位の大小よりも
亡くなった時の時代背景によるものでしょうか?

元春公が亡くなったのは、豊臣秀吉の九州征伐の頃~
奥さんが亡くなったのは、徳川幕府成立の3年後でした。

とはいえ
息子・広家が、関ヶ原の戦いで
お家(毛利家)存続をかけて、とはいえ、主家に背いて、東軍・徳川(敵方)に内通
(主家・毛利輝元は、西軍の総大将でしたし、メンツ丸つぶれですわな)
その後の親戚内での扱いはケチョンケチョンだったと思います。
(毛利家取り潰しの危機を免れたんですから、広家公はよく貢献したと思いますが

母として、広家をおもう気持ちを考えると、胸が締め付けられます

その息子の墓所は・・・



さすがに
初代城主として、ひときわ高い場所
城山の麓に位置しています。

広家公にお会いするのを楽しみにしていたのですが
登り口が倒木で危険な状態ということで
通行止めになっていました

残念です

でも、またこれで岩国に来る理由が出来たし、良かったかな


(いかにも暴れ川って感じでしょ)

次回リベンジを胸に誓って
一路
ロープウエーで、岩国城のある山頂へ・・・

続きは、次回投稿のお楽しみ~


~~~ つ づ く ~~~