京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

必見!!!岩国城北の丸。

2010-10-19 20:59:28 | 中国・四国地方の石垣。
夏休み・帰省中
山口・岩国市の岩国城へ行った時のお話です。

その1
その2

で、今回の投稿が、岩国編その3になります

そもそも
なんで、こんなに丁寧に投稿をするのか・・・
といえば
やはり
それだけ、思い入れがあって、行きたかったから
なのですが

なんで、行きたかったか、というと・・・
その歴史的背景の複雑さに感慨を受けてのことでした。

というわけで

いきなりですが
ウイキペディア検索「岩国城」の説明です。
(私の下手な説明では、説明しきれないので)



慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は
領地を大幅に削減され、広島城から萩城に移封となった。
同時に一族であり毛利家存続に注力(結果的に毛利氏は領土を大幅に削減された)した
吉川広家も同時に米子城から当地(岩国)に3万石で封じられた。

慶長5年10月には家臣団が、慶長6年(1601年)には広家がこの地に赴任した。
広家赴任と同時に岩国城の築城が開始された。
麓に平時の居館となる「土居」と、戦時の城「横山城」が横山山上に築かれた。
築城には8年の歳月が費やされ、まず翌慶長7年(1602年)に土居が完成した。
土居完成とほぼ同時期に横山城の築城が開始され、慶長13年(1608年)に竣工した。
本丸には4重6階の唐造りの天守が建造された。

しかし、完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に
幕府の一国一城令により横山城が破却され廃城となった。
これは、周防国にはこの岩国城のみが存在していたが、
長府藩の毛利秀元が居城の櫛崎城を破却したことに合わせざるを得なかったことによる。

その後、麓の土居は
岩国領の陣屋として、また慶応4年の立藩後はその陣屋として、明治維新まで存続した。

以上

ここで注釈をすると
毛利輝元は、吉川広家のいとこに当たります。

毛利元就の息子・・・毛利隆元(その子が輝元)・吉川元春(その子広家)・小早川隆景


関ヶ原の戦いにおいて
毛利輝元は、西軍(石田光成側)の総大将でしたが
吉川広家は、輝元の補佐として動きながらも、東軍(家康側)に内通しており
結果として、広家の内通が、東軍勝利の一端を担うことになりました。
(広家は、毛利家を敵に回す行為をしたのです)

なんで、広家がこんなことをしたかというと

一族が西軍に味方をする中、広家は、家康の勝利を確信しており
説得して回ったようだが、やっぱりあかんかったようで
しょうがないから、内通して、どうにか家康の怒りを買わないようにしたかったようです。

それもこれも
毛利家の存続をかけて・・・
祖父・元就公が命をかけて広げてきた広大な領土
それを取り上げられないように
内々に働きかけをしてきたようです。

しか~し

戦いの後、ふたを開けてみると
家康に、何やかんやケチ付けられて
毛利家の大半の領土没収
一族の本拠地であった、安芸吉田も奪われ
かろうじて、中国地方の端っこの一部が与えられたわけです。

ついでいうと
広家公は、まあ働きあったから、それなりの領土与えよう、とお達しがありました。

それじゃあ、最悪ですよね。
広家公は、一族の裏切り者扱いだし、
自分だけ良ければそれで良いのか・・・という、コウモリ的つら~い立場に置かれました。

つまりは
良かれと思った決死の行動が
家康に利用されただけで、すっかり裏目に出てしまったわけです。

つらい立場ですね。

歴史に、タラ・レバは禁物かと思いますが
でも
彼の行動がなければ、徳川幕府ん百年の歴史も築かれなかったわけですし(おそらく)
毛利元就公以降の奇跡的な軌跡(ダジャレですね~)もなかったでしょう

サーカスの綱渡りのような駆け引きの中
現在まで歴史が継続していることに
ひたすら気が遠くなります。

そんなことを考えながらの
お城の散策

岩国城は、城跡としては、一見それほど遺構も残っていませんし
印象にも残りにくいのですが

歴史背景に注目すると
一味もふた味も魅力の増す
おススメのお城です

(元就公が、命からがら出雲遠征から引き返す場面や
 広家公のつらい立場が目に浮かんで、涙が出ますよ

で、そんなことを考えながらの
岩国城の散策です。


(岩国城の全体図)

中央に本丸・天守閣
左手に二の丸
そして
右手には北の丸があります。

地図の一番右に水色の川のようなものがありますが
これは珍しい空堀

今回、一番の目標でした。
(といっても、一般的にはほとんど知られていないと思います)

肝心の天守閣が、一国一城令で破却されていますから
あとは、いかに広家公の頃から残っている遺構を探すか・・・
という感じの再訪でした。
(現在の岩国城は、単なる桜の名所のような感じで
 あまり歴史に触れられてませんし
 一般的な見学ルートは、かなり手が加えられていて
 当時のまま~みたいなレアな感じの遺構はあまりありません
 どこの城跡にも言えることでしょうけどね)

当初の目標は、
旧天守閣の石垣をじっくり観察することでしたが

今回の再訪前のリサーチで
北の丸に大きな空掘があることを知り
そこに行くのを、一つの目標にしました。


(再建された天守閣)

北の丸方面から見た天守閣
この方角から見ると、とても立派で美しいです。

天守閣から北の丸に向かうほうに
本来の天守閣の石垣があり・・・


(山の中央寄りになるので、錦川・山麓からは天守閣全体は見えなかったでしょうね)

昔の天守閣の石垣、ですが
復元されているもので
綺麗な形なので
正直、あまり感動しませんでした。
(石垣マニア的発言ですが)

ただ、説明版には、いろいろ解説がしてあり
随一、岩国城の歴史に触れられる個所ではあります。

そして

この旧天守閣石垣の横を通って
北の丸に向かいます。

こちらは、ロープウエー駅から遠ざかってしまうので
子達に知れると、ブーイングものなのですが

北の丸には、
ちょっと寂しい感じではありますが、子供の遊具があるので
(なんて有難い!)
それをネタに子達を誘き寄せました

歩いて行くと
北の丸につく前に
大きな空堀が見えてきます
(子供らは素通りで、どんどん先に行ってしまいましたが



分かりにくい写真ですが
何となく大きさが分かって頂けるでしょうか?



二条城とか、彦根城のお堀くらいの大きさはあると思います。

当初から、水は張らない空掘として建設されたようですが
鉄砲の届かない距離
ちょっとやそっとでは立ち向かえない距離があります。



思いっきり戦時を想定しているように見えるのは、私だけ?

家康公に屈服しての転封だったかと思いますが
ありありとした戦意を感じるのは、私だけでしょうか?

当時の典型的建築と言えば、それまででしょうが
作る必要がなければ、これだけ大きなものを作ることはないと思うのですが
どうだったのでしょうね。

答えがないだけに
模索にふけってしまいます。

ただの石垣巡りのつもりでしたが
とても興奮しました

さらに
今回、素晴らしい発見がありました


北の丸の周辺に
おととし?散策道が作られて
築城当時のままの石垣を見学できるようになりました。

北の丸の石垣の周りに、散策道がありますので
北の丸の横手から緩い階段を下りて行って
周辺を歩いていくようになっています。

少し寂しいけど(誰にも出会わなかったし
石垣一人占めの気分を満喫できます。



まず、こんな感じに、
荒れ放題、崩れまくりの石垣の中を通って、北の丸北端部に向かいます。



これぞ、当時のまま!
という風景で
石垣マニアにはたまらない限りです。

学術的に言うと?
長期の耐久性がなかったということは
あまり成形されていない積み石を用いた
素朴な感じの石垣であったのだろうと思います。
(まあ、見るからにそんな感じの石が転がってますが)

そういう意味では
あまり経済的・時間的余裕が感じられない石垣です。

切羽詰まった感があります。


少し歩いて行くと、保存状態の良い石垣が見えてきます。



岩国城建造当時の石垣
一人占めっです

一番上の写真の案内図にも載っていないし
あまり周知の進んでいない散策道

もったいないです。

地域のボランティアの方が手入れをされているようですし
もっと多くの方に訪れてほしいですね





岩国・・・
宮島とセットで半日?なんて言わずに
まる一日
い~や二日間でも、じっくり時間をかけて歩きたい観光地です。



帰りの、ロープウエーまでの道
行きとは違う道



大きな井戸があります。



かなりデッカイです。



こんな大きな井戸掘って、ど~するつもりだ?
と、またもやいぶかしがる私・・・
(考えすぎ?)

疑って、食ってかかると
考えることが多すぎて
とても楽しい岩国です



下山後


(錦雲閣)



昔のお土居・お堀の名残



橋の先の吉香神社が
山城破却後
藩政を行った場所でした。


(ずいぶん古めかしい狛犬)


(旧吉川邸厩門・明治時代の建築)



(昌明館附属屋の左側部分)

昌明館は、七代藩主吉川経倫の隠居所として建造されたそうです。


(付属屋と連続した門と、付属屋の右側部分)

この門は、現在は、吉川史料館の入り口になってます。

この史料館
こじんまりとしていますが、吉川ファンにはたまらない展示がしてあります。

『 秋展示 鳥取城の戦い、上月城の戦いを中心に』
   期間 9月16日(木)~12月23日(木・祝)

なんと尼子氏の勇将・山中鹿介の兜が展示してあるそうです
うう~、行きたいよう







資料館から、錦帯橋に戻る途中



吉川経家忠魂碑がありました。



鳥取城で、羽柴秀吉の兵糧攻めにあい
自らの命と引き換えに城を明け渡した武将です。

島根の温泉津の出身で、なかなか優秀な人物であったそうです。

そのような人材を犠牲にすることになり
後の岡山・備中高松城明け渡しの経緯もあり・・・
吉川元春公は、秀吉嫌いを深めたと言います。



寒さ深まる今日この頃ですが
岩国に行ったのは、8月お盆前
猛暑のさ中でしたので
下山後は川遊びとあいなりました。



とおあさ~~~



山遊び・川遊びに夢中で
すっかり昼ごはん食べそびれてしまいましたが
充実した一日でした