日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

40、9度の体感

2007年08月16日 | Weblog
今日多治見と熊谷では41度近くになった。観測史上最高の気温らしい。僕が住む関西も気温は上がって暑かったが、37度止まり。残念ながら体感することはできなかった。

 日本では40度という気温は、体験できなかったが、バンコクやインドのナーランダでは直接体感した。ナーランダでは、水をのむと、数分のうちに汗となって皮膚から噴出し、直射日光に当たると、皮膚がひりひりした。だが木の陰は涼しく、影は濃い。

 遺跡の上に登って、大学跡を見渡せば、所々に大きな井戸があり、建物はこの暑さをどのようにしてしのぐか、太陽光線のさし具合が計算されて、設計されているように見受けられた。

 三蔵法師がここで、この暑さをしのぎながら、膨大な量の仏典を勉強、研究したのを思うとき、今日のように文明の恩恵に浴すことが出来なかった環境の下で、よくあれだけのことが出来たものだと驚嘆した。人間の力には驚くべきものがある。
それは将来の人類の可能性を暗示するものだと思った。

人類の未来は悲観するものではないとは思いつつも、ただしそれには条件がつく。
環境破壊がなくなって、元の自然環境を取り戻すことが前提である。この地球を人類中心にして回してはいけない。あらゆる生物の命の共生が、確実に守られなくてはならない。なぜならば、人類もまた地球環境の一部に過ぎないからである。

20世紀から21世紀にかけて、人類はすべての命は共生によって成り立っていることを忘れて、人類の都合ばかりを考えてつっぱしってきた。
こんにち、その弊害が異常気象として、現れているのだろう。

人類のための地球ではない。人類は地球を構成する一部に過ぎないことを、肝に銘じておくべきだ。
日本の中部、関東地方で、気温が40度を超えたというニュースを知って、僕は以上のようなことを考えた。










理念は理念、現実は現実

2007年08月16日 | Weblog
戦争放棄の平和主義。日本国憲法に決められて、理念としては、世界に冠たる、輝く理想である。

然るに周りの世界を見渡すと、テロという名の小規模の戦争があちこちで起こっている。イラク、アフガンでは銃声がとどろき、毎日何人かの人が死んでいく。
こういう現実を見るとき、風向きが変わって、日本のほうへ戦火が飛び火したら、
どうなることやら。この問題は決して対岸の火事として見過ごせないものだ。

そういう事態に対処するために日ごろから備えをしておく必要があるというのは常識だ。無防備では、戦火が飛び火してくる時には、一方的に被害をこうむるだけで、無条件降伏以外に手の施しようがない。それでいいのか。

僕の気持ちとしては、結果がどうあろうとも、自衛の努力をしないで、座して死を待ち、日本国は消滅してしまうことは、断じて許れることではない。
ということは、最低限度自衛する軍隊は持たざるを得ないということになる。

東京を火の海にしてやろうか、等というセリフを吐く隣人がいる限り、国土防衛上、絶対に手抜きは出来ない。無防備は日本国家の自滅を意味する。

対処する現実的な方法は、やはり日本という国を防衛する所、すなわち自衛軍が不可欠ということになる。戦争放棄、平和主義の理念と、現実の世界情勢の乖離であるが、二者択一を迫られたら、現実をとる以外に、選択肢はない。

なべて理想と現実はいつも大きく食い違う場合が多い。しかしこの両方を直視して
現実をなおざりにすることなく、その上に立って、平和主義の理想は希求しなくてはならないのが、日本の現実ではなかろうか。

こちらから喧嘩を売る必要は絶対にないが、不条理に売られた喧嘩は受けてたたないと、無抵抗では、自滅するほかはない。

一見矛盾するようだが、世界の恒久平和を求めつつ、戦火が発生、飛び火したときには自衛軍によって、国民の財産や生命を守ることは不可欠である。

再軍備、自衛軍を保持しながら、世界平和を希求して、人類の安寧を確保することが大切である。もし日本が完全に独立して自衛できるなら、それに越したことはないが、他国と安保条約を結ぶ限り、協調によるある程度の犠牲は覚悟しなくてはならない。それ以外に現実的な方法はあるまい。