コートなしで過ごせる。雲ひとつない晴天で暖かい。
初詣に住吉大社へ行った。満員電車から.どっと人がはき出される。ゾロぞろぞろ。
人は同じ方向をさして歩む。駅から大社までは人の切れ目はない。
太鼓橋が近くなるにつれて、押し合い、へしあいは一層激しくなり、立ち止まる回数が多くなる。人の波にもまれて歩いているというよりは、人の波に流されると言った方がふさわしい。とても自分の足で歩いているという感覚ではない。いったいどこからこんな大勢の人が出てくるのか。
皆思い思いの服装に身を包んで、華やかな彩りの和服あり、ジーパンあり、普段は町で滅多に見かけない男の和服姿も結構目につく。
それにしても住吉大社に鎮座まします神様は、これをどうご覧になっているのだろうか。
この大勢の人々の願いを聞いて叶えるとしたら、いったいどうなるのか。欲の塊である人間は、ありとあらゆる欲望を頼みまくるだろう。家族の健康や幸せにはじまって、金もうけ、交通安全、志望校合格、地位の昇進、商売繁盛,良縁、病気平癒 などなど。
年の初めにお願いしたのだから、念願がかなをうと、叶うまいと一応頼んだのだから、年末にはお礼参りするのが人の道だとは思うが、100%に近い人が頼みまくってお礼参りもしない。
早い話、それが証拠に初詣が日本一多い、明治神宮が年末30日ないし31日にお礼参りの人波でうまったという話は聞いたことがない。おそらく人間社会では他人にお願いをして、それをかなえてもらったら、お礼に行くはずだから、頼みまくってお礼参りもしない初詣客などは人間社会だったら、たちまちにして絶交願いたい輩ばかりであろう。
視点をかえて考えてみると、ひょっとするとねがい事を頼む人間の方で、初めから神様を当てにしないで、単なる気休めで、願掛けをしているのかもしれない。
たった10円玉一個では、とてもねがい事を聞き入れてもらえないと思いつつ、お賽銭をあげているとすれば、そんなそらぞらしいねがい事を、神様が真剣に聞いてくださるはずはない。
もし聞き届けてくださったとしたら、神様は誠にお気の毒である。たった10円玉一つをお賽銭として受け取ったばかりに、まさかの場合には命まで救わされるのだから。
いやいや人間の浅知恵で神の無限性や広大無辺の慈悲をおしはかってはいけない。少なくとも、神と人間は、そのすべてにおいて違うはずである。人間をベースにしたそろばん勘定で神のお徳やお力を推量することは、神を冒涜することにつながる。
珍しく穏やかないい天気である。人の波に流されながら、私はこんなことを考えながら歩いた。冬の太陽というよりは陽光の中には既に早春の足音が聞こえてくる。
初詣に住吉大社へ行った。満員電車から.どっと人がはき出される。ゾロぞろぞろ。
人は同じ方向をさして歩む。駅から大社までは人の切れ目はない。
太鼓橋が近くなるにつれて、押し合い、へしあいは一層激しくなり、立ち止まる回数が多くなる。人の波にもまれて歩いているというよりは、人の波に流されると言った方がふさわしい。とても自分の足で歩いているという感覚ではない。いったいどこからこんな大勢の人が出てくるのか。
皆思い思いの服装に身を包んで、華やかな彩りの和服あり、ジーパンあり、普段は町で滅多に見かけない男の和服姿も結構目につく。
それにしても住吉大社に鎮座まします神様は、これをどうご覧になっているのだろうか。
この大勢の人々の願いを聞いて叶えるとしたら、いったいどうなるのか。欲の塊である人間は、ありとあらゆる欲望を頼みまくるだろう。家族の健康や幸せにはじまって、金もうけ、交通安全、志望校合格、地位の昇進、商売繁盛,良縁、病気平癒 などなど。
年の初めにお願いしたのだから、念願がかなをうと、叶うまいと一応頼んだのだから、年末にはお礼参りするのが人の道だとは思うが、100%に近い人が頼みまくってお礼参りもしない。
早い話、それが証拠に初詣が日本一多い、明治神宮が年末30日ないし31日にお礼参りの人波でうまったという話は聞いたことがない。おそらく人間社会では他人にお願いをして、それをかなえてもらったら、お礼に行くはずだから、頼みまくってお礼参りもしない初詣客などは人間社会だったら、たちまちにして絶交願いたい輩ばかりであろう。
視点をかえて考えてみると、ひょっとするとねがい事を頼む人間の方で、初めから神様を当てにしないで、単なる気休めで、願掛けをしているのかもしれない。
たった10円玉一個では、とてもねがい事を聞き入れてもらえないと思いつつ、お賽銭をあげているとすれば、そんなそらぞらしいねがい事を、神様が真剣に聞いてくださるはずはない。
もし聞き届けてくださったとしたら、神様は誠にお気の毒である。たった10円玉一つをお賽銭として受け取ったばかりに、まさかの場合には命まで救わされるのだから。
いやいや人間の浅知恵で神の無限性や広大無辺の慈悲をおしはかってはいけない。少なくとも、神と人間は、そのすべてにおいて違うはずである。人間をベースにしたそろばん勘定で神のお徳やお力を推量することは、神を冒涜することにつながる。
珍しく穏やかないい天気である。人の波に流されながら、私はこんなことを考えながら歩いた。冬の太陽というよりは陽光の中には既に早春の足音が聞こえてくる。