日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

初詣

2008年01月02日 | Weblog
コートなしで過ごせる。雲ひとつない晴天で暖かい。

初詣に住吉大社へ行った。満員電車から.どっと人がはき出される。ゾロぞろぞろ。
人は同じ方向をさして歩む。駅から大社までは人の切れ目はない。

太鼓橋が近くなるにつれて、押し合い、へしあいは一層激しくなり、立ち止まる回数が多くなる。人の波にもまれて歩いているというよりは、人の波に流されると言った方がふさわしい。とても自分の足で歩いているという感覚ではない。いったいどこからこんな大勢の人が出てくるのか。

皆思い思いの服装に身を包んで、華やかな彩りの和服あり、ジーパンあり、普段は町で滅多に見かけない男の和服姿も結構目につく。

それにしても住吉大社に鎮座まします神様は、これをどうご覧になっているのだろうか。

この大勢の人々の願いを聞いて叶えるとしたら、いったいどうなるのか。欲の塊である人間は、ありとあらゆる欲望を頼みまくるだろう。家族の健康や幸せにはじまって、金もうけ、交通安全、志望校合格、地位の昇進、商売繁盛,良縁、病気平癒 などなど。

年の初めにお願いしたのだから、念願がかなをうと、叶うまいと一応頼んだのだから、年末にはお礼参りするのが人の道だとは思うが、100%に近い人が頼みまくってお礼参りもしない。

早い話、それが証拠に初詣が日本一多い、明治神宮が年末30日ないし31日にお礼参りの人波でうまったという話は聞いたことがない。おそらく人間社会では他人にお願いをして、それをかなえてもらったら、お礼に行くはずだから、頼みまくってお礼参りもしない初詣客などは人間社会だったら、たちまちにして絶交願いたい輩ばかりであろう。

視点をかえて考えてみると、ひょっとするとねがい事を頼む人間の方で、初めから神様を当てにしないで、単なる気休めで、願掛けをしているのかもしれない。
たった10円玉一個では、とてもねがい事を聞き入れてもらえないと思いつつ、お賽銭をあげているとすれば、そんなそらぞらしいねがい事を、神様が真剣に聞いてくださるはずはない。

もし聞き届けてくださったとしたら、神様は誠にお気の毒である。たった10円玉一つをお賽銭として受け取ったばかりに、まさかの場合には命まで救わされるのだから。
いやいや人間の浅知恵で神の無限性や広大無辺の慈悲をおしはかってはいけない。少なくとも、神と人間は、そのすべてにおいて違うはずである。人間をベースにしたそろばん勘定で神のお徳やお力を推量することは、神を冒涜することにつながる。

珍しく穏やかないい天気である。人の波に流されながら、私はこんなことを考えながら歩いた。冬の太陽というよりは陽光の中には既に早春の足音が聞こえてくる。


















ダキニ天、伏見稲荷

2008年01月02日 | Weblog
1月1日。私は夢を見た。なんの夢か。もうかすんでわからなくなってしまったが、丸24時間経っている今、ダキニ天、という言葉だけが頭に残っている。

ダキニ天。和名・稲荷大明神。稲荷といえば、京都伏見のお稲荷さん。商売の神様。
なんのご縁があるのか分からないが、伏見稲荷さんのおでましだ。普段手を合わせたこともないのに、なぜ?単なる夢か。
いや、おそらくつながっているであろう神仏の世界から「今年はダキニ天におすがりせよ」という御託宣をいただいたのにちがいないと受け止めた。

 女房、長女、私の3人で、歩くことを前提に伏見稲荷に詣でる。
今年はダキニ天に初詣である。つながらない部分を私は「かつぐ」ことによって埋め合わせた。
夢の中でダキニ天は「今年はお参りに来い。お参りにきたならば、御利益を与えてやろう。必要な銭を与えてやろう。」と言われたように思えた。
それにしても、正月早々おめでたい話である。

人波にもまれて、私は拝殿に進み、ダキニ天こと、伏見稲荷大明神に向かって、心の中で祈った。

「何のご縁かは存じませぬが、1月1日、夢枕におでまし下さってありがとうございます。来社祈れというというありがたいご催促なのか、福をやるから取りに来いというお招きなのかは知りませんが、早々と参上いたしました。家内と長女を連れてをはおりますが、あれは付録です。3人がかりで是が非でも御利益をという大がかりな仕掛けではありません。

3人3様です。夫婦親子といえども、皆、各それぞれの方向でお願いすることでしょう。とはいえ、私に福の神がとりついて、家の中に夢にも思わなかった大金が転がり込んでくるようなことにでもなれば、それは家内がいちばん願っていることゆえ、ありがたいことに違いありません。本人に直接たしかめてはいませんが、この男をなんとしても世に送り出して、どうしても男にしてみせるという、坂田三吉の女房・小春のような夫婦愛の発露抑えがたくというところから、ダキニ天にお願いするという情熱をもって、女房が本日お参りしているようには思えません。

ダキニ天。夫婦といえども、一心同体ではない身の哀しさ。どうかその点は女房に直接本心を聞いたうえで、彼女お願いを叶えてやってほしいのです。なお、今年が始まるにあたって、その当初、1月2日の日に願掛けをする以上、かけた願が聞き届けられて、心願が成就した暁には、何をほっておいても、お礼参りさせていただくことは言うまでもありません。何事もよきようにご介錯賜りまして万事よろしくお願い申しあげます。」

ダキニ天が私の願いをどう受け止められるか、それは確かめようがないからそっとしておくこと以外には手は無いが、私の方でははっきりと記憶しておいた。
 
生まれてこのかた1月1日に神様の夢を見るなんて初めてである。
おめでたいこと限りなし。