日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

シェイムリアプは満天の星

2008年01月11日 | Weblog
「あの山で、蚊に刺されたのです。大丈夫でしょうか。?」彼女の友人が僕にそう尋ねた。
「何カ所も?」
「ううーん。1カ所だけ」
「多分大丈夫。でもマラリアに注意した方が。薬持ってる。?」
「いや」
「そうだ。僕の消毒薬、イソジンをとりにかえってくるからに帰ってくるから待ってて」
僕はすぐさま、宿に取りに帰り、引き返してくることを告げて、バイクの兄ちゃんを促した。

 急いでいるときは、気が焦る。だのに真っ暗ヤミの中でバイクは立ち往生した。聞けば、ガス欠だという。そんなばかな。こんな夜になって、スタンドがオープンしているのか?僕は不安になった。2人は黙ってバイクを押して、ガソリンスタンドを2軒訪ねたがどこも、閉まってて人の気配がなかった。しかし彼は少しも慌てない。
 オイオイ。まさか、宿とホテルを歩いて往復するんじゃないだろうなぁ。
僕は焦っているうえに、さらに焦った。
ところがカンボジアの、給油所はガソリンスタンドだけではなかった。
道端で、ガソリンをペットボトルに詰めて売っているのだ。なるほど。だから彼があわてないわけが分かった。販売店といえば大げさで、こういう形での、ガソリン販売は机の上にガソリンを詰めた、ペットボトルを10本程度おいているだけ。よくも、こんな危険な取り扱いをするもんだと感心した。
給油するとエンジンは1発でかかった。ホッ。安心のため息が漏れた。
シエムリアプの町はずれの道は、文字どおり漆黒である。街灯も家々の隙間から漏れてくる明かりもない。
時おり通るバイクのライトが、唯一の明かり。その代わり、空には、吸い込まれそうな満天の星。黙って空を見上げた僕は漆黒の闇に吸い込まれて言葉を失った。
夜がこんなに暗い物だとは今の今まで気が付かなかった。いつも都会の夜に慣れてしまっているので光のない自然の夜の暗さに驚いた。
何時か此の星空を駆けめぐる事が出来たらな 青い大空もよい。真っ暗な星空もいい。僕hあ全てを忘れて漆黒のヤミを見続けた。時間が止まった一瞬だった。
いや、勝手に流れている。
シエムリアプの漆黒の夜のヤミ。見応えのあるいい物だ。日本ではどこにいても必ず光が在る。余程の所へ行かないと光の漏れて来ない所はない。
文明の光のさしこまないところには、漆黒のヤミが人の眼を閉ざして心の目を開ける。


キリングフイールドからの生還」 を読んで

2008年01月11日 | Weblog
この本を読む前に、私はすでにカンボジアを、2回訪問していた。
1回目は1996年でその時は、プノンペンだけに滞在した。2回目は今年10月シエイムリアプ。

僕はポチェントン空港に着くやいなや、バイクタクシーのドライバーからキリングフイールドとツールスレンの話を聞いた。
ポル・ポト時代に彼が行ったものすごい残虐な行為については日本には伝わってこなかった。学校で歴史を教えている私にとって恥ずかしいことだが、カンボジアの、位置すら、定かでなかった。カンボジアは日本にとって、なじみが薄く遥かかなたの国というぐらいの関心しかなかった。

てもこの2つの処刑場の話を聞いて僕はあした必ず、現場を訪れるから、君に案内してほしいと、バイクタクシーの、運ちゃんに言った。

彼はポル・ポト時代に、300万人の人たちが、虐殺されたといった。ナチスのユダヤ人虐殺が500万人と聞いていたのでだいぶ誇張があるとすぐには信じられなかった。
だが、プノンペン郊外にあるキリングフイールドに足を1歩、入れたとき、僕の心は氷のように凍ってしまった。丸でなにかの呪文にかけられたような気がした。
よくもこんなことをしたものだ。納骨堂からこちらを見ているドクロの数にめまいを覚えそうな気分になって、立っていることができなかった。なにかをしてあげなきゃ、いま自分は何ができるのか。そればかりを自問した。このように自問したときに僕はいわれのない罪を着せられて、虐殺された人々の魂がこの場で、慟哭しているような気がした。

取り合えずその場にしゃがみこんで、僕はこの人たちのために極楽往生をお願いしようと観音菩薩にお経を唱えるだけだった。犠牲者の魂の安寧を祈るばかりだった。僕が見たのはすべて、済んでしまった過去のことである。だが、この著者はその当時の実体験をインテリの目でもって、あるところは冷静に、またあるところは、感情的に体験談を語っている。これは本物である。僕は現在進行中の中にいたわけではないから想像の域をでない部分も多いのだが、この著者が述べていることを、涙なくして読み続けることはできなかった。あまりにも不条理すぎる。こんなばかげたことで命が失われてなるものか。これらの所業は天人共に許されないことである。
今僕は思う。この著者のような人がカンボジア国家復興のためには不可欠ではないのか。もし僕に許されることならば、フン・セン首相の手足となって、国家の再建のために力を貸してほしいと彼に言いたい。そしてその人生も新生カンボジャのために尽くしてほしい。君が失った最愛のフオイさんも、お母さんもカンボジャの復興を一番願っていることではなかろうか

僕は今日本人と、変わらない心情をもっているカンボジア国民の安寧と安らかな日々の多い事を心から願っている。何故なら皆同胞だからである。命はつながっているのだ。涙なくしてフオイさんの写真プロマイドを見ることが出来ようか。 カンボジアといえばアンコール、があまりにも有名でそのほかのことについては、知らない人が多いのが日本の実状である 。個人的なことを言えばもっともっと大勢の日本人が押し掛けてもいい国である。つまり、国際交流があってもいいと思う相手国である。
無力な僕は今さし当たって、何かのお役に立つわけではないが心の底では常に、カンボジアのことをわすれてはいないし、あの人懐っこい、穏やかなカンボジア人および国家に励ましのエールを送りたい。次回訪れるときは僕は日本から線香を持っていってお経と共に手向けたいと思っている。場所が判ればフオイさんとこの世の光を見ずして黄泉の国に行ってしまった愛児とのお墓にもお経をお供えさせてもらえればと思う。 以上が読後感である。