日々雑感

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日本人の宗教観

2008年05月30日 | Weblog

日本人の宗教観 宗教意識調査より

 読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。

 ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。

 多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。

 調査は「宗教観」をテーマに面接方式で実施した。

 死んだ人の魂については、「生まれ変わる」が30%で最も多く、「別の世界に行く」24%、「消滅する」18%--がこれに続いた。

最終更新:5月29日23時41分 読売新聞から引用

以上のような調査結果が出たらしいが、質問形式が判らないので詳細は分からない。しかし現代の世相を見ると、この調査結果はなんとなく頷ける。

宗教というと、その対象は神仏である。神仏習合だから、厳密に分けるのは非現実的かも知れないが、一般論としては先祖は亡くなって仏になると思われているし、超人間的なもの超自然的なものは神として崇められている。
「先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、、」
というのは先祖崇拝そのもので、それは先祖の霊の存在を信じて、崇拝していることで、そう言う意識の根底には仏教流の考え方がある。

先祖は紛れもなく、この世に存在した人達である。肉体はこの世から消え去ったが、その魂はこの世に霊として存在するのか、それともこの世とは別の世界と、考えられる霊界にとどまっているのか知らないが、霊の収まり所として、仏教徒には、墓があり、その霊を供養するために寺や僧侶があり、年忌や法事がある。

もし肉体の消滅と共に霊魂が消滅するというならば、消滅としての区切りをつけるために葬式があるのだろうが、それで全てがおわるというほどの割り切りがあるとは思えない。

仏教の場合はその家に伝わる宗派の本願仏を信じて、霊が極楽往生するように、お経をもって霊を救済するとされる本願仏、例えば阿弥陀如来や、釈迦如来、や大日如来などに供養礼拝する、習わしがある。

もし仮に肉体の消滅が魂の消滅も含むというのなら、墓もいらなきゃ、仏壇もいらない。ましてや年忌や法事の類は不要である。

死を区切りとして全てが無になると考えるならば、葬式も意味がないし、いわゆる現在の仏教も不必要である。
少なくとも現代の死者のためにあるような葬式仏教のあり方を考えるならば、 仏教?宗教離れするのは当然の現象である。葬式や法事は仏教の役割の取るに足りない小さな役割で、本来仏教の教えとは生きている人間に向かって最高の生き方を説いたものである。

生きている人間、現世で悩み苦しむ人々を救済し安心を与え、よりよい生き方を教えるのが本来の仏教のあり方であるから、仏教集団であるところの寺や僧侶は、その大役を実践しなくてはならないのである。そう言う使命に対して今の仏教集団は応えているかと問うと、民衆の願いに応えていないというのが、現状である。そしてそれは私の率直な想いである。
もっと露骨かつ現実的に言えば、現状のままでは、仏教集団は衰退の一途をたどることになろう 。それは当然の帰結である。
信じてないから、心を拠り所として、寺や僧を求めない。何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上るという調査結果から、こういう流れは肯定される。

読売の調査から私が読み取ることは次のようなことである。

1,日本人は心の拠り所として、宗教を持っていない。日本人は仏教徒が多数だが、現状の 仏教をのあり方からは遠ざかっている。つまり仏教離れが起き、それが宗教離れと言う現象を引き起こしている。信仰心の多寡は日本民族に由来することかも知れないが、要は宗教が(日本の場合は仏教が)人々の心に満足を与えていない、人々の願いに応えていないと言うことである。もし仮に仏教が現代人の要求に応えているならば、宗教心はもっと高まるはずである。

2,「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。 という点について。
これは仏と言うよりは神の領域に属すことではないだろうか。超人間的なもの、普通それを神と呼ぶ。神 仏どちらでも良いが、超人間的なものを感じる、あるいはそう言う力の存在を思うと言うこと自体が、僕は信仰だと思う。
3,死んだ人の魂については、「生まれ変わる」が30%で最も多く、「別の世界に行く」24%、とあるが、これは半数の日本人が、輪廻転生を信じている証拠ではあるまいか。
もし肉体の消滅が人間存在の全てを無にすると言うのなら、50%を越える人が輪廻転生をすると、考えることはないだろう。輪廻転生が起こるかどうかは、証明不可能なことで、その存在は信じるか、信じないかによって決められる事ではある。

宗教感覚が薄いと言うことは言えるが、それをもって宗教心がないと断じるのは問題があると思う。要するに、人間そのものに備わった神仏への畏敬の念の自覚の問題ではないだろうか。国家の意思も、習俗も宗教的束縛も希薄な日本では妥当な調査結果だと思う。

ただひとつ、問題にしたいことがある。この状態で道徳心が養われるであろうか。道徳心が芽生えるであろうか。道徳心というものは宗教によって掘り起こされて、心の中に定着するものだと思うが。いかがだろう。人間がつくった押しつけ道徳は道徳とは言い切れない代物だと思うからである。

フアジャンシル

2008年05月30日 | Weblog

フアジャンシル

もう、かれこれ30分も動かない。たとえ走ったとしても、せいぜい100mぐらい。いったい前方に何か起こったのか。事故か、工事中か。自然渋滞か。

私の乗ったバスの四,五台まえの乗用車から、幼稚園くらいの子供を連れた若い女が、降りて、高速道路の土手の方へ走っていった。土手と言っても、高い斜面ではないから、彼女の肩から上はバスの窓から見えた。

女の子は、道路の端にしゃがみこむなり、パンツをおろして、おしっこをし始めた。奥さんはさすがに人目をはばかるのか、子供のようなまねはしなかったが、しゃがみ込んでいる。あのスタイルからすると、用をたそうとしているふうだった。
車の人々の目をはばかりながら、用をたそうとするところをみると、よほど辛抱ができない状態だったんだろう。バスの乗客は、とみると、クスクス笑いながら奥さんの方を見ている。そして隣同士で何か話し合っていた。

突然、車の列が動き出し、前方100mぐらいのところまで走った。奥さんの乗っていた車も、クラクションを鳴らしながら走りだした。奥さんより先に車に戻った子供は大声で、母親を読んでいる。たぶん「お母さん早く早く。車が動き出したから帰ってきてくれなくちゃ」と、こんな内容だったに違いない。それでも、奥さんは斜面に、しゃがみ込んで用足しのスタイルをとってたから、ほんのわずかな時間、おそらく何十秒間の出来事なので、奥さんが快くまで用を足したとは思えない。たぶん中途半端だったはずである。あるいは、今から、というとき、だったはずである。たまったものをすべて放出した後のあのさわやかな開放感など味わえる時間がなかったことには間違いない。


ソウルを出てから2時間半も経つと言うのに、まだ50キロも走っていない、本来ならどこかのサービスエリアについていなければならない時間であるが、奥さんも運が悪い。

そうかと言って、車の中で用足しもできないから、土手の斜面まで、走ったのであろうが、よほどツラかったに違いない。さもないと、衆人注目の前で、用足しなどできるものではないから。
奥さんは若い。まだまだ羞恥心がある年頃である。それが証拠に、しゃがみ込んだ時彼女があたりをキョロキョロする仕草をしていた。バスの乗客たちはそれを見てニヤニヤしている。
ずらりだんご状に連なった車の人の目を半ば、はばかりながら、半ば公然と、用足しに、走ったということは、よほど辛抱ができなかったことを物語る。
羞恥心対生理現象という構図だろうが、用を足すのは、羞恥心を打ち破る勇気ではなくて、辛抱できなかったという、生理現象のしからしむるところだろう。

諸君。私が目にした光景を想像したまえ。そして奥さんの心中を察したまえ。決して笑い事では済まないできごとである。



ピリピリとしめこんできた。下腹がごろごろ鳴っている。トイレを探さなくちゃ。やばい。
私は、足早に歩き出した。歩くと、体を揺するせいか、しめこみはぐんぐんと強くなってくる。ものの、300mも歩き出した頃には、空襲警報のサイレンがなったような心境になった。
言葉も話せないし、字も読めない。たとえ近くに公衆便所があったとしても、それを捜しあてるのは、あてにならない勘を働かせる以外にはない。到底無理なことである。

危機に立たされた私は思わず、交番へ飛び込んだ。そして、トイレを貸してほしい。と、身ぶりで、おまわりさんに頼んだ。3人いたうちでいちばん年若い、警官が、トイレとおぼしき場所を指さした。僕は救われた。気分になって、「さあ来い下痢め」、と心の中で叫んだ。引き戸を開けてみると、男性用の小はあるが大は無い。

アレ-?、僕は慌てた。さあ来いと思った強気はどこかへ飛んだ。戸をしめながら、私は警官に、尻をたたいて、大の方だという仕草をした。彼らはゲラゲラ笑いながら、それはない。と手を振った。私は困った顔をして立ち止まってしまった。その様子を見て気の毒に思ったのだろうか、先ほどの警官は、交番の前にある商店街を指さした。

商店街は良いのだけれど、トイレをなんと言えばよいのか分からないから切羽詰まった。
今の状況はとても抑えることができない。私は困った顔をした。親切な警官はしきりに前を指さした。ともかくも、私は頭を下げて交番を出て指示された商店街に飛び込んだ。

表は、日本の問屋のような作りだが、中に入ってみると、そこはデパートだった。私は助かった気がした。デパートなら、各階のどこか隅には、必ず化粧室があるはずだ。どんな表示を探せばよいのか、そんなことを考えながら、私はキリキリ痛みさし込んでくる腹を手で押さえながら、足を引きずるようにして階段を登った。

女の店員は、コーナーには立ってはいるが、トイレはどこですか。と聞くのに、どういったらよいのか分からない。が、とにかくトイレ、トイレと話しかけた。返事は意味不明の不機嫌な顔だった。身ぶりで前をさしたり、後をさせば通じると思うが、なんせ相手は女性ばかりで、身ぶりで示すこともはかられた。私はせめ寄せてくる腹痛に、額にあぶら汗をにじませながら、自分でさがすより、ほかはなかった。

1階2階とうろついたが、ーこれは実は必死で探したのだがー、結果はうろついたことになった。そのあげく3階まで足を引きずりながら言って、ヤケ気味で、レストルームと、英語で話しかけた。ネクタイ売り場の女店員は、「?」変な顔をしたが、陳列棚からネクタイを取り出そうとした。私は慌てて、ノーノーを連発して手を振った。私はイライラして、
ばかたれ。、レストルームだよ。トイレ。トイレだよ。と心の中で、声を荒げた。私と女店員の様子を見ていた年配の店員が、私のほうへ歩みよってきて、何か話しかけてきた。私はもう辛抱できないところまで切羽詰まっていたので、恥も外聞もなく、尻を指さし、トイレトイレ。レストルーム。レストルームを連発した。

彼女は、フアジャンシルといった。私にはそう聞こえた。私は何でも良かった。やけくそで、フアジャンシルと、オウム返しに行った。彼女は人差し指で上を指さした。
何?この時に及んで、便所は上の階だというのか、私は腹が立った。しかし、4階でトイレを探しに行くほかは無い。

キリキリと攻めてきて、もう飛び出しそうな下痢をぐっとこらえながら、足を引きずって4階まで上がった。
「ああ、神様。トイレまでもちますように、神様。」誰でも良い。とにかく聞かなくては。歩き回って捜す余裕は無い。私は又、女店員に英語で聞いた。彼女は英語で、この突き当たりを右へ曲ると、ありますと、答えてくれ、その方向を指さした。お礼もそこそこにトイレに向かって急いだ。彼女の教えてくれたとおりにトイレは見つかった。

戸を開けるなりベルトを緩めるのももどかしく、しゃがみ込んで漏れそうになったものを力いっぱい放出した。
「神様。神様はやっぱりおられた。私を救って下された。神様ありがとうございます。」
私は、子供じみたこんなセリフを実感を込めて呟いた。

便器につかまりながら、私は今までのことを走馬燈でも見るように思い返した。交番のおまわりさんは親切だった。用は果たせなかったが、危機を乗り越えた今は、やはり有り難かった。いま、私がいるところを教えてくれたのは紛れもなく、あのおまわりさんだったからである。あの親切がなかったら、時を追って攻めてくる渋り腹を、私はどうしたであろうか。そんなことを思い返しているとき、私は、はっと思いついた。

昨日、ソウルからプサンへ向かう途中で見た、あの奥さんの土手の出来事である。つい、先ほどまで、私が味わったのと同じ思いだったに違いない。恥も外聞もないというけれど、普通ならやっぱり気になって、体裁をかまうものである。ところが、待ったなしの生理現象は、羞恥心や体裁や外聞を吹き飛ばしてしまう。

私は今回つくづくあの土手で、座りションしてバスの乗客から、笑いものにされたあの奥さんの心の中が手に取るようにわかった。そしてバスの乗客ともども、奥さんに同情する前に、笑ったことを恥じた。後悔した。

日本国内ならともかくも、韓国に来てまで、私は自分の体験を通して、貴重な教訓を味わうとは夢にも思ってなかった。
「わが身をつねって、他人の痛さをしれ、」その通りだ。

ふらっと日本を離れてみるのもいい。どんなことを発見するかもしれないから。
それが、私が自分に下した結論である。